「無常」をみることは不安を助長させることではなく…〜「無常観」を土台に生きること〜

「不安」という感情を分解してみると

会社で受けた健康診断の結果が最近返ってきたんですけど、
一応プライベートな情報なので、ちゃんと封筒に入れて渡されるのですね。

ところがその封筒、なんとなく開けるのを先延ばしにしてしまって、
中身を見たのは受け取ってから数日経ってからのことでした。

単純に「面倒くさい」というのもあったのですけど、やっぱり少々の不安もあって、
子供の頃に毎週楽しみにしていた少年ジャンプのように「即読み」とはならないのですね。
まだ30代とはいっても、やっぱり心のどっかに「ひょっとして、何か異常があったら…」という一抹の不安はありますね。

この「ひょっとしたら」というのは本当に曲者ですね。
「まあ、まだ滅多なことはないと思うのだけど。けれど、ひょっとしたら…」
この、「包丁で大根を切ったと思ったら、まだ繊維でつながってて完全に切れ離せていない…」みたいな。
糸を引くような微妙に「嫌な可能性」。
この僅かな「ひょっとしたらの可能性」のために、心全体が灰色に染まっていくのですね。
この気持ちを、人は「不安」と呼ぶのでしょう。

これは健康に限ったことではないですよね。
今は仲の良い友人だって、
「ひょっとしたら、嫌われるかもしれない…」
今は安定していそうな職場となっている会社だって、
「ひょっとしたら、経営が傾いてリストラが始まるかも、倒産するかも…」
今は元気でいてくれる家族だって、
「ひょっとしたら、明日にでも何か重い病気が発覚したりするかも…」

どんな事にだって、「ひょっとしたら…」の可能性を考えれば必ず不安要素があります。
そんな不安要素をいちいち考えていたらキリがなく、不安で胸が一杯になってしまいます。
だけど、事実としては、何一つ否定できないのですね。

そんな不安に満ちた世界のことを仏教では「火宅無常の世界(かたくむじょうのせかい)」と言います。
「無常」というのは、「常」が「無」い、という事ですから、
いつまでも変わらず支えになってくれる(常)ものでは無いという事です。
だからちょうど、火のついた家(火宅)にいるようにいつも不安は絶えないのですね。

「無常」を意識するといつも不安になるのでは?

仏教では、この「無常を観る」ことをとても重視しています。
あらゆるものに「常」は「無」く、いつまでも支えとなるものは何一つない。
この真理をごまかさずに観つめなさいと、仏教では古来より教えられています。

だけどそう聞くと、
そんなことをすれば、いつも不安におびえて生活しなければならなくなるのではないか?
と思うかもしれません。

今自分が頼りとし、支えとしているもの一つ一つが、必ず壊れてしまう時がくる。
ひょっとしたら、今日にも、明日にも…?
大丈夫だろうか、この体は
大丈夫だろうか、この会社は、
私の友人は、家族は、家は、車は、大切な色々なモノは、大丈夫だろうか…?
そんな風にビクビクして生活することになるのではないか。
「無常を観る」と聞くと、そういう事を想像するのかもしれません。
「ひょっとしたら…?」
「大丈夫だろうか…?」
と、自分の支えが崩れることに不安を感じて生活するような想像を。

しかし、「無常」というのは、
「ひょっとしたら」どころではない。
「必ず」だ。「100%」だ。
全てが例外なく、必ず崩壊し、私の支えは失われてゆく。
そういう厳粛な真理を示しているのですね。

私がいま支えとしているものは、「必ず」失わなくてはならない。
そういう「限りのある」ものだ。
それが「ある」と保証できるのは、「今」だけだ。

このことを、ごまかさずにまっすぐ観つめることを「無常観(むじょうかん)」と言います。

私達は基本的に、この真理から目をそらして、
自分が支えとしているものに対して
「まあ、しばらくは大丈夫だろう…」
という体の良いごまかしを、心の何処かでしているのですね。

「無常」から目をそらす。
「無常」をごまかす。
これが普通の生活スタンスとなってしまっています。

ただ、「絶対に大丈夫」なんて言い切れない事はさすがに分かりきっているので、そんな真っ赤なウソはつけません。
「永久に大丈夫」なんて事は、さすがに嘘くさすぎて、思おうにも思えません。
だから、もうちょっとだけ現実的な「ウソ」を自分につくのですね。
それが、「まあしばらくは、大丈夫だろう」という「ウソ」です。
「無常」という真理を前にすれば、これだって「ウソ」です。
「しばらく」なんて、誰も保証できないのですから。
「しばらく」ところか、今日や明日さえも保証できないのが「無常」ですから。

ギリギリ一杯信用できる巧妙なウソを自分に言い聞かせて、
「まあ、しばらくは大丈夫」
その土台の上に行動をしているのが私達なのですね。
だけどそれすらも、「無常」の真理を前にすれば、大間違いなので、
私達は心のどこかでそのことを知っています。

だから、やっぱり安心しようにもし切れないのですね。
そして結局、常に不安を抱いて生きなければなりません。
「ひょっとしたら…」
「大丈夫だろうか…」
の一抹の不安が、縁に触れ折に触れ、表面化して心を薄暗くしてしまいます。

「無常を観る」から不安になる、ではないのですね。
「無常」から目をそらそうとして、ごまかそうとして、
だけどごまかしきれなくて不安になる。
これが私達の「不安」の実態です。

「無常観」を土台に生きると決めたとき…

だから、この真理から目をそらさないこと、ごまかさないこと、
「無常を観なさい」
これが、仏教の教訓です。

私がいま支えとしているものは、「必ず」失わなくてはならない。
そういう「限りのある」ものだ。
それが「ある」と保証できるのは、「今」だけだ。
この真理を全力で心に刻む事です。
そして、その「無常観」を土台にして、日々を生きると心に決めるべきなのですね。

私達がこの人生で、果たしたい願望があるなら、そんな「無常」の中で、果たさねばなりません。

まだ状況が安定しないから…
まだアレが足りない、コレが足りないから…
ちょっと、こういう不安要素があるから…
「だから出来ない」
では、この無常の世界で何一つ果たすことは出来ないという事です。

アレも足りない、コレも足りない。
それは無常だから当たり前です。
全てが常に変化し、崩壊へと向かっているのだから「万全なる安定」など、一瞬たりともありません。
それどころか、次の瞬間、もっと状況は悪くなってもおかしくない。
今の支えすら、「今」しか保証されない。
だからこそ、今の支えのある間に、今できる事は、全力でやらなければならない。
それが無常観を土台として生きるという事です。

これがあるからこそまた、
本当の意味で「全力」で生きる事ができるのですね。
「この人生で心から果たしたい願望」
も、この無常を観るからこそ見えてくるものです。

無常を観る事は、いたずらに心に不安を煽ることではありません。
限りある貴重な人生を全力で生きるための大切な一歩なのですね。