未知への挑戦に怯まない心を育むには〜「好奇心」の本質を究明〜

好奇心が止まらないのはどうしてなのでしょうか

「あなたが大切にしている事は何ですか?」
との問いを受ければ、人それぞれ色んな答えがありそうですね。

その中でも私がよく出会うのが、
「私は『好奇心』を大事にして生きています」
という価値観です。

「自分の知らない事を、知りたい」
誰もがこういう欲求を持っていると思います。
このブログを読まれているあなたも、この気持ちでこのサイトを開いたのかもしれません。
勉強好きも、研究好きも、雑学好きも、この欲求に動かされての事と言えます。
そして人類の歴史上、この好奇心が数々の発明・発見を生み出して人間の生活を守り、またより便利なものとして行った事は間違いありません。
好奇心に溢れ、そしてその気持ちに素直に生きた人が、人類が知り得なかった未知の領域を開拓して行ったのでしょう。

この「好奇心」について最近、知人と会話している時、
「どうして、自分の知らないことを知りたいと思うのでしょうね」
と、何気なく聞いてみたことがありました。
すると、ちょっと意外な答えが返ってきました。

「それはきっと…不安を解消するためだと思います」

え、不安…?
一瞬、「好奇心」とはかけ離れたような感情のような気がしたのですが、
だけどよくよく考えると「好奇心」と「不安」は、とても密接な関係があるのではないかと気付かされたのでした。

「好奇心」と言えば、「知る」事の楽しみを求めるポジティブな気持ちのように思いますし、それは間違いない事でしょうけど、
同時に「知らない事」が、不安の元となるのもまた事実です。

「相手のことを知りたい」と思う理由は…?

私はよく「他人の事を知りたい」と思うことがあります。
自分と深く関わる相手であればなおさら、その相手のことを知りたい、もっと知りたいと強く思います。
そして、相手が言った事や自分の言動に対する相手のリアクションをよく観察して、分析して、
「こういうタイプの人なのかな…?」
という事をよく考えます。
ある程度分かってきたかな…と思った頃に、自分の理解と矛盾する言動があるとまた、
「あれ…?」
となって、また考え直して…
そんなことを繰り返しながら、やっとやっと、「分かってきたかな…」という一定の手応えを感じ始めるわけですが。

「自分と深く関わる他人のことを知りたい」
この気持ちは、「好奇心」とも言えるでしょう。
興味を持った人について、「もっとこの人の事を知りたい」という気持ちになるのはとても自然な事です。
それと同時に、
「この人との付き合いにおける『不安』を解消したい」
という気持ちも同時にあります。

「よく知らない相手」との付き合いの中にはどうしても不安がついてまわるのですね。
「自分の言動を、相手はどう受けとめるのだろうか?」
「どんな反応をするのだろうか?」
「どんな事に腹を立てるのだろうか?」
「こんな場合に、どんな行動に出るのだろうか?」
知り合って日が浅ければ、分からない事だらけです。

うっかりと触れてはいけない事に触れて、相手の怒りを買ってしまうことを「地雷を踏む」と言ったりしますね。
「コンプレックス」や「人間関係」や「将来不安」や「過去の恥ずかしい事」など、
「この事には触れてほしくない、貶めて欲しくない、褒めて欲しくない、思い出させて欲しくない、考えたくない…」
そんな類のことは、誰だって一つや二つはあるものです。
不注意にもそんなタブーを犯そうものなら、相手はもちろん自分も痛い目を見るのですね。

「地雷」とはまた上手く言ったもので、地中に埋まって見えない「地雷」のように、
他人の心にある「触れてはいけない事項」は、見ただけではなかなか分かりません。
何しろ目に見えない「心」の問題なのだから。
だけどうっかり「その事」に触れる言動をとった瞬間に、相手の感情を逆なでしてしまい、
表情は曇り、どんな和やかな空気も一転して凍りついてしまい、下手をすれば修羅場と化してしまう。

相手をよく知らないという事は、そんな「地雷」の位置もよく分かりません。
そんな状況で相手とコミュニケーションをする時はどうしても不安が伴います。
それがだんだんと付き合いが長くなり、お互いのことをよく話すようになり、
また自分の言動に対する色んなリアクションを受け続けて、
その人に関する「知識」「経験」が蓄積されます。
それらの積み重ねによって、どんどん「予測」ができるようになるのですね。
「こういう事を言えば喜んでくれるだろう」
「こんな話題を出せば食いついてくれるだろう」
「こんな態度を取ると、腹を立てるだろう」
「知識」と「経験」が、自ずとそんな「予測」を伴って、安心したコミュニケーションが取れるようになっていきます。

「『未知』があるから面白い、興味深い」
これも本音には違いありません。
「未知」に挑み、それが解明されてゆくプロセスに深い喜びを感じられるように、人間は出来ているようです。
だけど一方でそれは、「不安を逃れて安心に至る」ための努力をしているとも言えるのですね。
意識しようとするまいと、「安心」を求めるのは私達の本質なのだから。

絶えることない「未知の問題」にどう挑むか

人間関係に限らず、「仕事」でも何でも、
「知識不足」「経験不足」で不安一杯な状態から、「知識」と「経験」を重ねて不安が解消されてゆき、
安心して挑めるようになってゆくというステップを私達は色んな場面で踏んでいます。
「仕事」なんかも分かりやすいです。
最初はもう不安だらけで、
「こんな操作をして大丈夫だろうか…?とんでもない事に発展しないだろうか…?」
という不安の中で仕事をせざるを得ません。
それが数カ月もすれば、まるで息をするかのように淡々と「作業」をこなしてゆく状態になります。
当初の「不安」は無くなり、「安心」して過ごせる場となってゆくわけですね。

とはいえ、それでも「未知」がゼロになることは、ないでしょう。
どれだけ知識と経験を重ねても、それを上回る「未知の問題」の発生からは逃れられません。

今の「知識」と「経験」だけで通用する状況が、いつまでの変わらず続くというものではありませんから。
異動や転職でもすれば、もう今の「知識」や「経験」だけでは通用しない状況におかれるでしょう。
同じ環境に居ても、その環境にどんな変化が起きるか分かりません。

どれだけ「知識」と「経験」を積み重ねようとも、常に「未知の問題」は発生する。
この事はもう覚悟して生きるしかないのですね。
「これだけ知識・経験の蓄積があるから、もう何があっても大丈夫」
なんて事はあり得ません。
必ずそれを上回る「未知の問題」が来ます。

問題は、どんな「未知の問題」が来ても、それを乗り越える「知識」は必ず存在し、その知識に則った「行動」で必ず解決する。
このことを確信できているかどうかです。

仏教では「因果応報(いんがおうほう)」と教えられ、「原因に応じて結果が報いる」のだから、
求めている「結果」があるのなら、必ずそれに対応する「原因」がある。
未知の問題であれ何であれ、乗り越えた先の「安心」へ辿り着くための「行動」が必ず存在するのですね。
その「因果」を見つけられるかどうかの勝負が、未知の問題に挑む戦いです。

その「因果」の道理をどれだけ確信できているかどうかが大切です。
そうすれば、
「未知の問題」が発生すれば、そのための「知識」を探り、見つければいい。
その新たな「知識」に則った行動を実行すればいい。
もし、失敗すれば、その経験からまた正しい知識を探ればいい。
必ず、的確な知識にたどり着いて、乗り越えるところまで辿り着ける。
そんな、確固たる自信を持って、あらゆる困難に立ち向かう土台を築くことができるでしょう。