移りゆく季節から読み解く「悔いなき人生」へのメッセージ〜感傷から無常観へ〜

儚さへの感傷のその「先」へ

私は会社で残業する時には、休憩時間に夕食を済ましてしまうことが多いのですが、
その夕食を食べる場所は、決まっていつもの休憩室。
5階にあるその場所は、ちょうど、窓から並木通りが眺められる場所です。

桜並木で飾られたその通りは、桜の季節にはいい感じに景色を彩り、目を楽しませてくれます。
そして、毎日のようにそれを眺めていると、その桜がだんだんと寂しくなっていくのも見届けることになります。

しかもその時間帯がたいてい夕方で、「一日が終わっていく…」を感じさせる時間です。
そこになお木々の変化を感じさせられると、
「一日の終わり」

「季節の移り変わり」
を実感させられます。

なんとも、物寂しい気分になりますね。
そんな気分を引きずりながら、残業に赴くわけですが…

季節の移り変わりはそのまま「時間の移り変わり」を表していて、
そこに私達は「無常」を感じるのですね。

季節の流れは、早いものだと
「儚さ」というか、「寂しさ」というか、
なんとも言えない感情をそこに抱きます。

ただ問題は、「それで終わってしまう」というところです。

ただ、情緒や感傷に浸ることで終わっていては、
大事なシグナルを見落としているのと同じことになってしまいます。

世の「無常」を訴えるシグナルをいかに深く受け止めるかが、
「後悔しない人生」にできるかどうかに直結するのだから、
仏教は「無常を凝視すること」を何より重視します。

「無常観」という仏教の言葉があります。
「無常を観る」ということであり、「無常を凝視する」ということですが、
それは、ただぼーっとみていることではありません。

春の情緒や秋の情緒を眺めて、
「ああ…無常だなあ…」
などと感傷に浸っているだけが、「無常を観る」ということではないということです。

「世の中の無常」はそのまま、「我が身の無常」とみること。
これが本当に「無常を観る」ことだと言えます。

「無常だな…」と眺める「目」を自己に向けたなら

「自分の無常をみる」
人間にとって、なかなかこれは難しいことです。

「灯台下暗し」
の諺のごとく、手頃に距離をとって眺められるものはよく見えますが、
すぐ足元はついつい死角になっているものです。
まして「自分自身」となるとなおさら。
目は外に向いているように、私達の心の目も、自分以外の外側に向いているのが通常なので、
どうしても「自分」が視野に入らないものです。

だから、私達が「無常」をみるとき、どうしても「己」のことを切り離した「世の中」をただ眺めている、
ということになりがちなのですね。
「自分」だけは、固定された安全な何処かにいて、そこから「無常で移り変わってゆく世の中」を眺めている。
こんな構図を無意識に作ってしまいます。

世の無常を「無常だな…」と見つめるその目を、いかに自己に向けるか。
これが、単なる感傷や情緒で終わるか、自分の人生を後悔ないものにする縁とするかの分かれ目です。

「季節の移り変わり」「時間の移り変わり」の無常をみる目を、
「自分自身」に向けたら、どんな気持ちになるでしょうか。

「あー、このままどんどん年をとっていくなあ…」

たぶん、こんな思いが起きてくることと思います。
そして、何かしらの危機感を覚えますね。
「自分の若いうち」という現実は無常だということを思い知らされるからですね。

いつまでを「若さ」というのか、論ずる余地はありそうですが、自分にとっては「今」ほど若いときはありません。
「今の若さ」というのは、
今のように、体がまだ動いて、
今のように、思考がまだしっかり働いて、
今のように、五感がしっかりしている、
こういう「今の自分の肉体や精神」のことですね。

それが、非情にも変化し、衰えていくという「無常」が、見えてきます。
私も「今の若さ」には、相当頼っていますので、
それが「無常」で、必ず衰えてゆくことはシビアな問題に違いありません。

だけど、それをみるからこそ、
「その限られた時間で出来る限りの精一杯を為さないと後悔する」
という思いで一日一日に臨んでゆくことができますね。

「若い自分がいつまでもある」という思いをベースに行動しているのは、
自分の無常を無視して行動しているということで、
その行動は「後悔」の対象になる危険が大きいと言えるでしょう。

「どんどん、年をとっていくなあ…」
こんなこと思いたくない、まして言われたくない。
誰だってそうかもしれませんが、
季節の変化を思うなら、
時間の流れの速さを思うなら、
そういう「無常」をみるのなら、
その目は「自己」にも向けるべきで、「今の自分の若さ」の無常も、ちゃんと観るべきなのですね。
それは決してネガティブ思考などではありません。
「限られている資源」という現実をありのままに観ることは、
その資源を悔いを残さないように活かすための、第一歩だからです。

「今の若さ」の無常からさらに踏み込むと…

「どんどん、年をとっていくなあ…」
は、「自分の今の若さ」の無常をみているということですが、
さらにもう一歩踏み込んで、「無常をみる目」を「自己」に向けるとすると、
それは、「自分の命そのもの」の無常を観るということになります。

「今の若さや健康」が無常である、
ということと、
「命」が無常である、
ということは、似ているようで、やはり違います。

どれだけ年老いたといっても、
どれだけ病気に臥せっているといっても、
それでも「生きている」ことに違いありませんから。

もちろん、老化や病気の先には「死」が待ち構えていることは否定できません。
だけど「死」は必ずしも、老化や病気の先にあるとも限らないのですね。

就職や結婚の先に「死」があるかもしれないし、
昇進や出世の先に「死」があるかもしれない。
私達の何気ない日常のその先に「死」が潜んでいない保証はありません。

日頃報道されるニュースの例を挙げるまでもなく、
私達の日常のどこに「命の終わり」が潜んでいるか知れないことは誰でも知っていることです。

若かろうが、年老いていようが、健康であろうが、病気がちだろうが、金持ちだろうが、貧乏だろうが
共通しているのは「今は生きている」ということであり、その先のどこに「死」があるともしれないということです。
考えてみれば、
「やがて命の終わりが訪れる」
ということほど、人間にとって平等に訪れる運命はありません。

ただ、
「年をとっていくなあ…」
で終わっていても、まだ「無常を観る」という点では十分ではないのですね。
そんな思いの底の本心に、
「それでもまだまだ、生きていられる」
という思いがガンと居座っているからです。

「世の中の無常を観る」
     ↓さらに
「今の自分の若さの無常を観る」
     ↓さらに
「自分の命の無常を観る」

と、「無常を観る」目をどんどん自己に向けてゆくほど、
それだけ「悔いのない人生」にするための行動につなげてゆくことができます。

「限られた命」と強く自覚することが、悔いのない人生を送るため、「この人生で本当になすべきこと」を見つけるための第一歩だからです。

「何か」に対して無常を感じたときに、それをきっかけとして、その「無常を観る目」を自己に向ける。
こんな習慣を持つことができれば、世の中は、私に悔いなき人生を促す教訓の宝庫となるでしょう。