「情熱が他人を動かす」はウソなのか?
熱い気持ちになって、その情熱で他人に行動を促そうとするけれど、
なぜか響かなくて、空回りになってしまって、拍子抜けしてしまう…
そんな場面は、わりとよく見られます。
一人だけ、熱くなっている。
だけど周囲は冷めている。
情熱が伝わると信じて一生懸命メッセージを発するけれど、悲しいぐらいに響かない。
こんな場面を見ると(もちろん私も経験しました)、
「現実って厳しいな…」
という事を痛感します。
子供の頃からスポーツ漫画が好きでした。
サッカー漫画の「キャプテン翼」
バスケットボール漫画の「スラムダンク」
こういう「熱い」ストーリーに多いのが、
「一人の情熱が、みんなを動かしていく」
という展開ですよね。
そういうのを見て育った事もあって、
自分の中に燃えたぎる情熱があれば、それは自ずと他人をも動かす。
という事を私もどこかで信じていたのですね。
だけど現実には、残念ながらそうはならない事が余りに多いような気がします。
「情熱が、他人を動かす」
あれは、漫画だけの話なのでしょうか。
あなたは、どう思いますか?
あなたの内に燃える情熱は、他人を動かす力を持っていると思いますか?
このことは、冷静になって、もっともっとよく考えるべき事なのかもしれません。
結論から言えば、
「自分の行動」を起こさせるものは「自分の心」だけです。
そして、「自分の心」は、「自分の行動」しか起こさせません。
「私の行動は、他の人の心によって動かされています」
そんなロボットみたいな人はいないはずです。
ロボットや機械でもない限り、一人一人に「心」があって、その「心」でしかその人の行動は起こせません。
「私の情熱」は、あくまで「私の心」であって、それは「私の行動」しか動かせないのですね。
どんなに強い「情熱」や「思い」も、同様です。
「自分の行動」しか起こし得ないものが「自分の心」です。
まずこの原則を理解しておく事が、とても大切なです。
仏教では、行いのことを「業(ごう)」と言います。
この「業」には、強い力があると教えます。
世の中には、色んな「力」が存在します。
風の力、波の力、太陽の力、電気の力、化学の力…
そして、それらの「力」が、いろんな学問分野で研究対象とされており、その「力」の解明が今も進んでいます。
その点仏教では特に、「行いの力」について説き明かされています。
「行いの力」の解明こそが、仏教の本領と言えるでしょう。
それを仏教では「業力(ごうりき)」と言います。
「行い」には、非常に大きな力がある。
このことを仏教では、徹底して教えられます。
だから、仏教を理解すればするほど、「行い」の持つ強力な「力」をそれだけ深く理解することになります。
だからそれだけ、「行い」を無視できなくなっていくのですね。
その「行い」の中でも特に、「心で思う」という行いのことを「意業」と言うのですね。
先程から話題にしている「熱い情熱」ももちろん、意業です。
そして「意業」にも、非常に強力な「業力」があります。
「じゃあ、そんな強い力があるなら、他人を動かすぐらいできるのでは?」
と思うかもしれませんが…
この「業力」はあくまで、自分の人生の結果を生み出す「力」です。
「他人の人生」を変えたり、「他人の行動」を変えたりする力ではありません。
私の「業力」は、私の人生の「結果」を生み出す。
このことを「自業自得(じごうじとく)」と言うのですね。
この言葉はまさに、この「行い(業)」の力の内容を教えている言葉なのです。
他人が動き出すのは、あくまで…
この、「私の行動」の力、「私の思い」の力を、見誤らない事がとても大切です。
仏教では「業力」と言われる力で、非常に強力な力であることは間違いありません。
しかしその力はあくまで、自分の行動を起こし、自分の人生を動かす力です。
私の「業力」が、他人の結果や他人の行動を変えるわけではありません。
まずこの原則を理解することがとても大切です。
その上で、
じゃあ、「キャプテン翼」や「スラムダンク」で、一人のキャラクターの情熱が仲間を動かしているシーンが山ほどあるんだけど。
あれはウソなのか?
現実でもそんな場面はいくらでもあると思うけれど、それも勘違いなのか?
この事について考えてみたいと思います。
スポーツ漫画でよくあるシーンなのですが、
たとえばバスケットボールの大会で、主人公チームがどんどん勝ち進んでゆき、
やがて、圧倒的な「格上」チームと対戦する事になる。
相手チームの選手一人一人の力が、自分たちより明らかに「格上」で、その差はどうにも埋められない。
点差はどんどんついてゆく…
味方選手の「技術」が何一つ相手に及ばず、心がどんどん折られてゆく…
もう、勝ち目はないのか…
暗いムードが一層深刻さを増し、それが絶望へと変わりかけていた、その時
一人の選手が叫ぶ
「嫌だ!絶対に嫌だ!絶対に諦めたくない!」
涙を流しながら、そして強い決意を訴える目で、最後まで勝つための試合を貫く「決意」を示します。
その一人の選手の言葉が、仲間達の息を吹き替えさせて、そしてチームの全力パフォーマンスで、格上チームにさらに食らいついていく。
まあこんな感じのシーンなんですけど。なんとなくイメージできますかね(汗)
(一応これ元ネタあります)
この場面では一体、何が起こっているのでしょうか。
一人の選手の
「諦めたくない!最後まで勝利を目指す心は失うまい!」
という「情熱」が、仲間たちを動かしたような場面ですよね。
だけどこれは厳密に言うと、
その一人の選手の「情熱」から出た言葉や行動が「きっかけ」となって、
仲間達が「自らの情熱」を燃やし始めた。
そして、その「自らの情熱」で行動を起こした。
という事が起きているのですね。
傍から見れば、
「一人の選手の情熱が、仲間を動かしている」
ように見えるのですが、
仲間たちはあくまで、それぞれ「自らの情熱」で動いているのですね。
そして、その仲間の情熱が起きるための「縁」となったのが、
一人の選手の熱い情熱だったわけです。
拒絶されるのは、これをやってしまう時
私の起こす情熱は、あくまで私の行動を起こさせる「因」となるのみ。他人の「因」にはなりません。
ただ、その私の情熱から起こす行動が、他人にとっての「縁」となる。
これが「因」と「縁」のとても大切な原則です。
スポーツ漫画なんかに描かれるようなチームの仲間同士なら、
ずっと一緒に練習してきて、試合を重ねてきて、苦楽を共にしてきた。
そういう共通した「因」をそれぞれが持っている状況ですよね。
そんな仲間同士でなら、一人の「情熱」や「行動」を縁として、
それぞれがまた自分の「情熱」を燃やす、という事は起きやすい状況と言えます。
これはかなり特殊な条件が揃った状況なのですね。
そんな特殊な条件が揃っていない限り、
自分の「情熱」を示したところで、相手が同じような「情熱」を燃やしてくれるとは限りません。
だから、私達は、
「いかにしたら相手が情熱を燃やせるような『縁』に、自分はなれるか。」
「どんな言葉を言ったら…」
「どんな行動を見せたなら…」
「どんな態度を示したなら…」
そういう事をよほど考えて実行しなければ、他人の「心」は動きません。
こればっかりは、「力技」ではどうにもならない事なのですね。
この「因」と「縁」の原則をついつい私達は忘れて、
「自分の感情で他人を動かそう」
という無茶なことをやろうとしてしまいがちなのですね。
「私がこんなに心配しているのだから、もうちょっと頑張って欲しい。」
「私がこんなにあなたを好きなのだから、少しぐらい応えて欲しい。」
「私がこんなに悩んでいるのに、どうして皆は何も考えてくれないのか。」
自分の感情を根拠に、相手の行動を要求する。
これによって相手から拒絶を食らってしまうことが、どれほどあるか知れません。
だけど相手への感情が強ければ強いほど、ついやってしまいがちなことです。
自分の強い感情で、そのまま相手の行動を起こさせようとしてしまい、
「相手が自身の感情を起こす」
という相手の「因」となるステップをショートカットしようとしてしまいます。
それは、自分の感情という「因」で、他人の行動を起こさせられるという惑いに他なりません。
自分は相手にとっては「縁」にしかなれないのに、
自分の感情が相手の「因」になり得るかのように思ってしまうという惑いです。
私達が考えるべきことは、
私がどんな「縁」になったならば、
相手は自分で「感情」や「思い」という「因」を起こすだろうか、
という事なのですね。
そんな時に、自分の感情をただ押し付けるばかりでは、
相手の心には「拒絶の気持ち」しか起きないのが大抵ですよね。
もし自分に強い「情熱」があって、周囲へ影響を与えたいのであれば、
自分自身がその「情熱」にしたがった「行動」をして、
それによって得られる「結果」を示してあげる事を基本スタンスとすべきでしょう。
そうすれば少なくとも、相手の心の中に「選択肢」が見えるはずです。
「そうか、こういう気持ちでこうすれば、こうなるのか」
相手の心の中に、そんな「道」が描けるかもしれません。
そうしたら自ずと、「感情」が沸いてきて動かずにいられなくなります。
縁ある人たちが心の中に素敵な「道」を描けるような、そんな存在に自分自身がなる。
強い情熱を、そういう方向へのエネルギーに費やせば、自分にとっても周囲にとっても実りのある結果となることでしょう。