「嫌いな人」の構造の解明〜「怨憎会苦」との付き合い方〜

深刻なストレスの発祥源

「○○さんって、△△さんのことがすごい嫌いなんだよね」
え…ウソ…!?

こういうことが、意外に結構あるんですよね。
傍目からは仲良くやっているように見えるのだけど、あの笑顔の底にはとてつもない忍耐があったというのか…
そんな事実はどこに潜んでいてもおかしくありません。

最近は、「まあ、そういうものなんだな…」とあまり驚かなくなりました。
それくらい、「意外に嫌っていた」現象は珍しくありません。
私に対しても、どのくらい「忍耐に支えられた笑顔」を見せている人がいるのかなーって思うと、ちょっぴり悲しくなりますね。

嫌いな人に会わなければいけない苦しみを仏教では「怨憎会苦(おんぞうえく)」と言います。
「怨憎」は文字通り、怨み憎むものということです。

これは、仏教で教えられる「人生で絶対に避けられない苦しみ」を教えられた「四苦八苦」の一つです。
仏教では、どんな人もどうしても避けられない苦しみが人生には8つある言われ、それを教えられたものが「四苦八苦」です。

生きる苦しみ「生苦」
老いる苦しみ「老苦」
病む苦しみ「病苦」
死ぬ苦しみ「死苦」
この4つが「四苦」です。
その4つにさらに4つ加えたら「八苦」となります。
その八苦の一つとして教えられているのが「怨憎会苦」という苦しみです。

この「怨憎会苦」の意味としては、「人」に限らず、「夏が嫌い」「テストが嫌い」「蜘蛛が嫌い」というように、
嫌な「もの」とあう苦しみ一切を含みます。
ですが「嫌い」だという感情が強く出やすい対象は、やっぱり「人」ですね。

「他人」という存在はやっぱり興味深いものがあります。
人生で「何かを頑張ろう」と思えるのは、間違いなく「他人」という存在があるからですよね。
「誰か」に認められたい。
「誰か」に好かれたい。
「誰か」を幸せにしたい。
「誰か」を守りたい。
「誰か」に勝りたい。
など、私達が頑張れる、努力できる動機は何らかの形で「他人」が絡んでいるはずです。

それだけ、私の感情を大きく左右する要因が「他人」という存在です。
仏教では、「人」に対する欲望のことを「愛欲」と言われます。
これは、異性に対する気持ちに限りません。同性同士の好き嫌いも含めて、人全般に対する私達の強い欲望を「愛欲」と言います。

人間は強い「愛欲」を持っている…というよりも、「愛欲」という大きな海の中に沈みきってもがいているのが人間だとまで仏教では言われます。
そんな私達ですから、「他人」という存在を無視しての人生は考えられないわけです。
そんな「他人」と、如何に良い関係を築いていくことができるか。
これが、私達の人生における大きな課題とも言えるでしょう。
いや、もしかしたら「全て」とも言えるかもしれません。

親子関係から始まり、
いい友達関係を作って、いい恋愛をして、いい結婚をして、社会的にもいいポジションを確保して、子供ができたらまたいい親子関係を作って…
私達がこの人生で努めていることは、「いい人間関係の構築」に尽きるのかもしれません。
一人で本を読んでいるのだって、本を書いた人と関係していますし、映画でも美術品でも、それらの向こう側には、それを作った「人」がいて、何らかの関係が織りなされています。

その人は私の「嫌いな人」担当

そんな人生の根本に関わる「人間関係」は、良くも悪くも私達の感情に大きく作用することになります。
プラスに働けば、それは大きな幸福感をもたらしてくれます。
誰かから好意を抱かれている、尊敬されている、とても必要とされている…
これは、私達の心をとても満たしてくれる要素です。
特に「好きだな」と思える人と、どんどんいい関係になっていく時の幸福感はとても大きなものがあります。

しかし同時にマイナスに働くと、とんでもない苦痛になってしまいます。
他人によって、落ち込まされたり、イラつかされたり、不快な気持ちになったり…
こういうこともまた、山ほどあります。
私達にはどうしても「嫌いだ」と思えてしまう人がいます。
声を聞くのも嫌。視界に入るのも嫌。何なら、同じ部屋でその人の吐いた息がまざっている空気を吸うのも嫌。
これ程の嫌悪の感情を抱かせるのも、「他人」ならではの要素なのだと思います。

しかしこの「嫌いな人」というのも、私との相対的な関係によって成立するものなのですね。
というのも、私がその人を嫌いだからといって、他の人もみんなその人を嫌っているかというと、必ずしもそうではないですよね。
もちろん、かなり協調性を欠いているために多くの人に嫌われる人もいるでしょうけど、それでもその人を好きだという人もどこかにいるはずです。

ということは、私の中の「感情」を抜きにして、「嫌な人」が存在するわけではありません。
あくまで私の中で、その人が「嫌な人」になっているのです。
その人を「嫌な人」とする「種」は、私の中にあるということです。
私の心の底に「嫌いな人」を生み出す感情的な「種」があるというわけです。

ここに、仏教で「怨憎会苦」がどうにも避けられない苦しみだと言われる理由があると言えましょう。
世の中に、「好ましい人」と「嫌な人」とが客観的に存在する、というだけのことなら、いわゆる「嫌な人」のいない所へ行けば避けられるはずです。
ところがそうではなく、「嫌な人」を造り出す「種」は、私の心の中にあるということです。
だから、どんな環境に身を置こうが、そこで「私にとっての嫌な人」を造り出してしまいます。

そう考えると、「嫌な人のいない環境を求める」とか「嫌な人と会わないようにする」というのは現実的に難しいですね。
だからこそ仏教では「避けられない苦しみ」として「怨憎会苦」を教えているわけです。
どうしても私の周囲に、私は「嫌な人」を生み出してしまう。
この事実を受け入れて生きる他ないのですね。

そうすれば、あなたの周囲に「嫌な人」がいるとすれば、
今の私にとっての「嫌いな人」担当はこの人なのか」
と認識してもいいかもしれません。
どの道、「誰か」がなるのですね。私にとっての「嫌いな人」担当に。
それが今は「その人」である。
ただそれだけのことだ、とも言えるのです。

それが、環境の変化や心境の変化から、「嫌いな人」担当が変わることだってあります。
「今は」この人だということです。

そう認識した上で後は、この「嫌いな人」とどう向き合っていくかという問題になります。
「無くする」ことが無理なら、どう向き合うかを考える他ありません。

「嫌いな人」は貴重な情報源

大事なことは、その「嫌いな人」に翻弄されてしまわないことです。
「その人が嫌…!」ということに心を奪われてしまい、行動基準の全てに「この人」が影響してしまい、意識の大部分をこの「嫌いな人」に持っていかれてしまっている。
ここまで支配されてしまうのは、かなりの人生の損失でしょう。

その「嫌いな人」は、あくまであなたの人生の一部なわけです。
その一部が全てであるかのように感じて、人生そのものを支配されては、たまったものではありません。

実は「怨憎」の対象という存在は、私自身の内面を深く理解するためのきっかけとして、最適な存在になります。
「どうして私は、この人のことがこんなに嫌いなのだろう?」
それは、この人が「こんなことをするから」「こんなことを言うから」「こういうことをしてくれないから」など、理由は色々と挙がるとは思います。

じゃあ、どうして私は、その人のそんな言動が、こんなにも気に触るのでしょうか?
中には、そこまで気にしない、という人だっているはずです。
だけど私は、やけにそれが気に触る。気になって仕方がない。
これは、私の心の底に何かしら「こうあって欲しい、こう有りたい。本当は私もこうしたい…」といった、強い願望がある証拠です。
そんな感情的な「種」が私になければ、その人の言動に関心すら沸かないはずだからです。

たとえば、
「やけに自分の知識や能力をひけらかして、それを誇示して、時には他人を下げるような言動すらする人」
がいて、こういう行動がやけに気に触って、その人が嫌いで仕方がない…
とするならば、もしかしたらそれは、「自分自身」のとても嫌な面を見ているのかもしれません。
自分の中に強い自己顕示欲があって、それを極力出さないように私は気をつけている。
それなのにこの人は、それを臆面もなく晒してはばからない。
こんな場合は、気になって仕方がないのも無理はありません。

「時間にルーズで、約束の時間を守らないことに対して、悪ぶれる様子すらない」
そんな人がいて、そのこと一つで、どうしてもこの人を好きになれない…
とすれば、もしかしたら、そこに「自分自身」の強い願望を見ているのかもしれません。
私の中にも、何にも縛られずに自由に生きていたい。だけど、自分の責任を果たすためには束縛を甘んじて受けざるを得ない。
それで、自分の自由を抑圧して責任を果たすために、きっちりした行動に気をつけて努力している。

それなのにこの人は、そんな私との関係の中でそんな願望通りに生きている。
これもまた、気になって仕方ないですよね。

「他人」に対して、「どうしても気に触る」のは、私の大事な価値観に触れられているからこそと言えるでしょう。
その感情を探ることで、「私は人生においてどんなことを大切にしているのか」を発見したり再確認できたりします。
「嫌いな人」は、私にそういうことを気づかせてくれる貴重な存在でもあるわけです。

「怨憎会苦」は、どうあっても「無くする」ことはできない。
これをごまかさずにみたときに、
それらに感情を支配されてしまうのではなく、
「どう対処するか」というコントロールに移ることができ、さらに、それらを素材として自己の大事な部分を知ることに繋げることができるのですね。