真に不安を解消するための唯一の視点〜「物理」をみる視点と「業力」をみる視点〜

身の周りに「得体の知れない恐怖」はありますか?

まだ科学文明が進んでいなかった頃の人間は、
身の周りで起きる自然現象「神の怒り」として恐れていたと言われます。

空が急に「チカッ」と光って、大きな音が鳴り響いて電撃が落ちてくる、「雷」
急に風が強まって、時には大雨を伴い、木や建物を壊したり吹き飛ばしたりしてしまう「台風」
地面が突如揺れ始めて、立っていられなくなるぐらいの衝撃を受け、家屋などが崩壊させられるという「地震」
私達の生活に今も大きな衝撃を与える自然災害と言われる現象ですが、
その「仕組み」を何も知らない頃は、大きな恐怖だった事だと思います。

今でこそ、
「雷」は、雲と雲との摩擦が生ずる静電気が一定以上に達したときに地面にまで電撃が走る現象だとか、
「台風」は、熱帯地方で生じた熱帯低気圧が発達して流れてきた大規模な低気圧の産物だとか、
「地震」は、地球のプレート同士のひずみによって引き起こされた振動だとか、
その仕組みが解明されているため、「得体の知れない恐怖」という感覚や、「神の怒り」だという発想にはもはやならないでしょう。

だけど、そういう「仕組み」が何一つ分かっていなかった頃は、それはそれは恐ろしい現象だったことでしょう。
なにせ、自然が引き起こす「電撃」も「風」も「揺れ」も、とてつもない規模とエネルギーですよね。
それによって、生活上の色々なものが無惨にも破壊されるのですから、
しかもそれが、何の前触れも(知識がなければそれを察知できませんので)なく突如起こるのですから、
「正体不明の破壊的な衝撃」は、もう恐怖以外の何物でもありません。
それらを「神の所業」と恐れて、祈ったり拝んだり生贄を捧げたりしてその恐怖から逃れようとしたのも、無理もないことでしょう。

しかし、そんな「未知」のものをいつまでも「未知」にしてはおかないのが人間の底力というものです。
「仕組み」の解明、「因果」の解明に、長年に渡って人類の叡智を結晶させて挑み続けて、
人間は次々と、その「謎」の解明をしてきました。
そして世の中に起こる実に様々なことを科学的に説明できるように「仕組み」を明らかにし、その「仕組み」を理解する学問体系が造られたのですね。
それを学び、知れば知るだけ、「得体の知れない恐怖」は解消されてゆくわけです。

では、それらの解明で、私達の周囲の様々な出来事を科学的に説明できる事になれば、
私達一人一人の「人生に対する不安」は、解消できるものでしょうか。

「死の不安」に科学はどう挑むのか…?

「科学による物事の解明は、人生の不安を解消してくれる」
こう信じる人は少なくないかもしれません。
ともすれば「死」の不安さえも、科学による解明によって乗り越えられると思う人がいてもおかしくないでしょう。

「人間」を科学的に分析すれば、「物質」で出来ており、また目に見えない「エネルギー」もその構成要素になっていると考えられます。
すると、物質も、エネルギーも、「無」になるという事はありえない。
「変化」はすれども、「有」るものが「無」となる事は、科学的にはありえないというわけですね。
だから、死んでこの肉体が滅びたとしても、「私」という存在は、
素粒子レベルまで分解されたとしても、この宇宙のどこかに広がって残り続けていられる。

死んでも「私」という存在は、大宇宙に広がって、ずっと残り続けられる…
こういう死生観は、時々耳にする考え方です。

「千の風になって」という有名な歌も、これに通ずることを言っているような感じがします。
「私が死んだ後も…
千の風になって吹き渡り、
光になってふりそそぎ、
雪になってふりそそぎ、
鳥になって目覚めさせ、
星になって、あなたを見守っています。」

そんな歌詞を読むと、
死にゆく人が、残された人へ向けての、
「あなたがどこにいても、『私』という存在は何らかの形であなたと関わっています」
というメッセージが込められているような気がします。

人間の肉体も、素粒子レベルまで分解すれば、大宇宙の隅々まで行き渡るくらいに広がることが出来るそうです。
「物質」も「エネルギー」も、決して無にはならない。
だから「私」を構成していたそれらは、これからもずっと、宇宙の隅々まで行き渡っている。
だからこれからも、あなたがどこにいても、あなたとずっと関わっていられる。
そう考えたら、死んでゆく自分のことを考えても、残される大事な人のことを考えても、救われる思いがするのかもしれません。

「科学」という人間が育んだ叡智の集合体、
その学問を深く信ずる気持ちが、現代にこういう死生観を生み出しているのですね。

このように、身の周りの数限りない現象も、そして自分自身の肉体も、あらゆる「物質」の存在のあり方も…
人間の「知」の探求は、次々と解明し続けて、その仕組みを既知のものとしてくれています。

じゃあ、ここまで解明がなされ、それが教育に取り入れられて一般的に知られる所となった現代、
人間は「生」に対しても「死」に対しても、科学による謎の解明のおかげで「不安」が解消された。
…と、果たして言えるでしょうか。

それは言うまでもなく、「現代人」に蔓延している
「先が見えない…」
という心の叫びが、何千年もの人間の叡智の積み重ねでも解消しえない「人生の不安」を物語っています。
もちろん「死の不安」もまた、
「物質」という観点や「エネルギー」という観点からの説明がどれだけなされたとしても、解消されたとは言えないでしょう。

「生と死の不安」を科学で消せないのは…

どうして、こんなにも様々な事がここまで解明されたのに、
それでも私達の人生は、
「先が見えない…」
という不安に満ちたものになっているのでしょうか。

科学的な説明をどれだけ受けても、理解をどれだけ深めても、
解消しようのない「人間の不安」とは、一体何なのでしょうか。

それは、先程から挙げている「先が見えない」という本音が示す通り、
「私はこれから、幸せになれるのか、苦しみ続けなければならないのか」
「今の苦悩が、晴れる時が果たしてあるのか、それともいつまでも続くのか、はたまた悪化してゆくのか」
こういう「不安」ですよね。

私達が求めることは、
現在抱えている苦悩や煩いから解放されたいという事であり、
心から満ち足りた幸せを感じていたいという事に他なりません。
その、私のいわゆる「運命」がこれからどう転んでゆくのやら…
これだけは、どんな科学の発展をもってしても未だに解明しえない「因果」と言えます。

身の周りの現象がどんなものであって、その仕組みがどうなっているのか、という事よりも、
この肉体がどんなあり方をしていて、それが滅んだ先にどのような状態に変化してゆくのか、という事よりも、
「いま私が感じている『幸せ』や『苦しみ』が、この先はどうなってゆくのか」
「そんな私の『運命』についての因果はどうなっているのか」
これこそが、私達が本質的に知りたい事なのですね。

これは、「物質」の変化の観点でも、「エネルギー」の変化の観点でも解き明かせるものではありません。

この問題に、とことん向き合って解明している学問が仏教と言えます。
「因果」や「仕組み」を解明しているという点では、非常に科学と通ずるところがあるのですが、
その解明の対象とされている事が、
「私の『運命』の因果はどのようになっているのか」
という問題であるところが、この学問の最も際立った特徴と言えるでしょう。

そしてその仕組みの説明で用いられる概念が、「物質」でも「物理的エネルギー」でもなく、「業力(ごうりき)」というものです。

「業(ごう)」とは「行い」のことです。
「人間の行い」というのは突き詰めれば突き詰めるほどに奥深いものですよね。

「行い」は、表面上「肉体」という「物質」と、それを動かす「エネルギー」とでなされています。
だけどそんな「物質」や「エネルギー」という観点だけで「人間の行為」を説明しきれるものではありません。
なぜなら人間の行為を生み出すものは私達一人一人の「心」だからです。

ただ表面的な「物質」や「エネルギー」で成立する現象をみても、その「行為」の本質は分かりません。
たとえば「全速力で突進して、全力で他人を突き飛ばす」
という「行為」があったとしても、
その人に攻撃したいという意図での「突き飛ばし」の場合もあるし、
その人を殺害するために電車のホームから線路へ落とそうとしての「突き飛ばし」の場合もあるし、
道路で車に轢かれそうになっているその人の命を身を挺して助けようとしての「突き飛ばし」の場合もあります。

「物質」や「エネルギー」の観点だけだったら、いずれも全く同じ現象として説明できます。
同じ「肉体」という「物質」が、同じ筋力によって生み出された「エネルギー」によって、他人への衝撃を及ぼす。
科学的には、これに尽きます。

だけどその物理的には同じ「現象」の間には「攻撃」なのか「殺人」なのか「救命」なのか、
という天と地ほどの「行為」の違いがあるわけですね。
その違いを分かつのが私達の「心」です。
「業(ごう)」と言われる「行為」を究明することは、人間の「心」の究明が不可欠です。
そんな「心」によって生み出された私達の「行為」が、目に見えない「業力」となって、私達の心の奥底へと残り続けると仏教では説かれます。

その「業力」こそが、「物質」でも「エネルギー」でも説明のつかない、人間の「運命」を引き起こす「力」であり、この「業力」と「運命」との関係を教えた言葉が「自業自得(じごうじとく)」です。
自らの行い(自業)こそが、自分が未来に受ける運命(自得)を生み出す。
これが「運命」の因果についての道理であり、その「因」となる「業力」を詳しく解明しているのが仏教なのですね。

そしてまたこの「業力」と向き合うことは、私達一人一人の課題でもあります。
それこそが、私達の未来の運命を開いてゆく鍵になるのだから。
私はいま、どんな心で、どんな行為を為しているのか。
その事にとことん向き合うことが、どんな科学知識を頭に入れるよりも、自分の未来を開くために大切なことなのですね。

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