ギャンブルの人生の勝者とは〜「無常の命」の賭けどころ〜

人生そのものがギャンブル

多重債務問題というのが時々話題になります。
複数の金融機関から借金をしていて、返済が非常に苦しい状態で、返しても返しても一向に借金が減らない。
仕舞には、借金を返済するためにまた別のところから借金をするという羽目になり、状況は悪化してゆくばかり。

頭の中は、「借金の返済をどうしよう」という悩みが常に占めていて、仕事にもまともに手がつかない。
それどころか、仕事のお金にまで手をつけようとしてしまい…

会社員がそのような状態に陥ることを未然にふせぐために研修や対話などが、多くの会社でなされているようです。

私の上司もその取り組みの一貫として、私との対話の中で、
ギャンブルをしていたりとか…ないですか。」
という質問をされました。

そんな上司との対話のあと、隣で仕事をしている同僚とそのことを話していたら、その同僚が一言つぶやくのです。

「でも、人生そのものがギャンブルですよね。」
「いわば人生というコインをベットしての、賭けですよ。」

まさかこんな会話から人生観を語りだしてくれるとは思ってなかったので少し驚いたのですが、
「人生はギャンブル」という見方は一理あり、面白いなと思いますね。

あなたは、これはどんな意味だと思いますか?

例えば、脱サラして起業にチャレンジするというのは、人生の賭けに出たという印象がありますね。
もちろん、きちんと準備し、勉強もし、しかるべきアドバイスも受けた上での勝算のあるチャレンジなのかもしれません。
とはいっても、これまでは会社で雇用契約を結んで、その契約によって収入が保証された状態で労働していたわけです。
その収入を捨てて、これまでしたことのない方法で収入を得ようとすることは、どこか賭けの面はあるでしょう。
つまり、リスクを負っているということですね。

だけどこれ、考えてみれば、会社勤めし続けることにリスクはないのかと言えば、そんなことはないですよね。
その会社が倒産してしまったら、やっぱり収入を失ってしまいます。
何かのことで会社内での立場を失うことだってある。
組織に収入を委ねて、組織の中で労働することにも、それ相応のリスクはあります。
そういう意味では、サラリーマンを続けることもまた、その会社での労働に時間や労力を投じた賭けをしていると言えますね。

「賭け」というのは、うまくいけば大きなリターンが見込めるし、失敗すれば痛手を負うものです。
そして、うまくいくのかどうかの予測が難しく、不確定要素が多ければ多いほど、「賭け」の要素は強くなりますね。

だけど、何をするにしても不確定要素の無いことなど無いのだから「賭け」の要素はあらゆる場面に出てきます。

「結婚する」というのも、ある意味賭けかもしれません。
ある相手との「結婚生活」なんて、始めてみなければ実際のところは分かりません。
どれだけ好きといっても「他人」なのだから、私にとっては「知らないこと」だらけに違いありません。
一緒に生活することで、相手のどんな一面を見ることになるか、それが始まるまでは想像もつかないことだらけ。
思いもよらないことでお互い衝突することがどれほどあるか分かりません。

リスク無しとはとても言い切れないけれど、そこはきっと幸せになれると信じて、その人との結婚生活に「賭ける」のですね。

こんな風に、人生は一寸先は闇で、どんなリスクが潜んでいるか分からないという現実を見れば、まさに「人生はギャンブル」と言えそうです。

命をかけたギャンブルをしている自覚はありますか

ここまで、人生という賭けに伴うリスクを色々と挙げてきました。
「収入を失ってしまう」とか
「借金を背負う羽目になる」とか
「人との大きな摩擦に苦しむ」とか
「健康を損なう」とか
だいたいお金関係と人間関係と健康関係が、私達が想像するリスクだと思います。

だけど仏教では、もっと根本的なリスクを私達は常に負っていると言われます。
それは、「私達の限られた「命」を費やしている」というリスクです。

同僚のこの言葉がそれを意味しているかどうかは分かりませんが
「人生というコインをベットしてのギャンブル」
というのはまさに、私達は常に自分の限られた「命」を投入して、仕事したり恋愛したり遊んだり子育てしたり、色々しているということです。
そして、そのリスクに見合うリターンを得られるのかどうかは、分からない。

仕事に命を費やしたならば、本当に悔い無しと言えるのか。
恋愛に没頭できたら、命をかけて本当に悔いなしと言えるのか。
子供を一人前に育てあげらたら、それに自分の命をかけて本当に悔い無しと言えるのか。
お金を稼ぐことに費やしたら…
名誉を得るために費やしたら…

一度過ごした「時間」は、もう二度と戻ってきません。
時間の巻き戻しスイッチなど人生には存在しないし、リセットボタンも存在しません。
ただ、ただ、時間は進む一方で、二度と戻らぬ時間の消費を私達はし続けていると言えます。

その二度と戻らない人生を、これらのものに費やして、本当に悔いがないのか?
そういうことを考えたことはあるでしょうか。

「そんなことは、いくら考えても分からない。実際にやってみるしかない。」
という結論に至るのが普通なのかもしれません。
だから「とりあえず」私達は色々とやってみるのですね。

ただ、その「とりあえず」が曲者で、「とりあえず」で一度やり始めたら、そこから時間はものすごい勢いで過ぎていきます。
「とりあえず」で始めたその事に、限られた私の命は、想像していた以上に消費されてしまうはずです。

それは、私達の「欲」がそのようにさせる性質を持っているのですね。
「欲」は一度求め始めると、「もっと、もっと」と求める気持ちは加速度的に強くなる。
そうやって何かを求める「時間」は、本当に速く過ぎていきます。

いつのまにか「とりあえず」選んだものに、多くの命をつぎ込んでいるのが実体です。
それは、図らずとも大きな賭けをしてしまっているとも言えます。

過ぎた時間は決して戻って来ない。
そして私達の生きる「時間」は限られている。

この事実を自覚すればするほど、私達は常に大きな賭けをしているということに気づきます。
そして、私は何に賭けるのかを吟味することは、とても大切なことです。

後悔しない人生にするために

仏教では「命は限られている」という事実を繰り返し強調して教えます。
「無常」という教えがそれです。
「常」が無く、変わらないものはないということです。
待ったなしで、移り変わってゆく。
限られた時間は、ものすごいスピードで過ぎてゆき、人生の終わりへと終わりへと確実に近づいている。

そんな命を抱えて今日も私は何事かに一日を費やしているという事実を決して忘れてはならないと説くのです。
それはそのまま、今日も私は大きな賭けをしているということです。

自分の手元にある限られた人生というコインの一部を今日もベットしています。

私は、何に自分の人生を賭けているのだろうか?

このことを仏教は鋭く問うのですね。
もし、何に賭けているかも知らずに人生のコインをただ投げ出しているとすれば、それは危ういことです。
私がこの人生を賭けて、何を求めているのか。
このことは、何度自分に問うても問いすぎることはありません。
そのことが、かけがえのない人生の時間を大切に生かすことに繋がります。

私達の周囲には、人生のコインをついつい投じたくなるものに溢れています。
電車に乗れば、旅行、学校、イベント、本…たくさんの広告が掲示されています。
ネットのブラウザを起動させれば、SNSを起動させれば、広告や他人の楽しそうな姿など無数の情報がなだれ込んできます。
「面白そう」
「楽しそう」
「なんか得しそう」
そんな風に心を引くものは、キリもなくどれだけでも私達の周りに現れます。

一度心をひかれると、私達はその対象に実際以上の価値を置いてしまい、自分の限られた命のコインを惜しげもなく投入してしまいます。

だからこそ、冷静に自分の命を投入するだけの値があるかを吟味する目を持つことが大切です。
その目を養うための教えが、「命の無常」を説く仏教の教えです。

私の手元に残っているコインは、もしかしたらあと僅かなのかも知れない。
そのコインを、何に賭けるか。

今日も一人一人が、切実に問われています。

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