「仏の心」の内容を知ると驚くほど視野が広がる〜仏の慈悲と人間の心〜

「仏」って実在するのですか?

「仏さんみたいな人…」
と、思うような人は身近にいるでしょうか。

どんな人でしょうね、「仏みたいな人」って。
なんでも許してくれる人とか、
とても寛容で何でも理解してくれる人とか、
いろんなイメージがあると思いますが、とにかく「優しい人」のイメージが強いと思います。

「仏」というのは、「優しさの塊」のような存在…?

「仏みたいな人」という言い方をする以上、「仏」は、人間とは違う存在という事になりそうですね。
では「仏」と「人間」とは、どこが違うのでしょうか。
色々ありそうですけど、何といっても「心」が異なります。

…と、急に「仏」について語り始めたわけですけど、
いや、そもそもそんな人間を超えたような存在である、仏…?
そんな「仏様」なんて、実在するのか…?

そんな疑問は起きるかもしれませんが、
「仏」についての明確な知識のない段階で、
「存在するんだ」「存在しないんだ」という議論を交わしても水掛け論にしかならないでしょう。

実在の真偽を論ずる前に、仏教で「仏」とはどういう存在として説かれているのかを、お話したいと思います。
そして、人間の心とは大きく異なると言われる「仏の心」というのは、どんな心なのか。
その内容をよく知っていただきたいと思います。

「仏の心」と「人間の心」の違いを知ることで、自ずと「仏」の存在に対する考えが生じてくることでしょう。

仏の「目」がみつめるものは

「仏の心」とはどんな心なのか?
お経の中にはそのものズバリ、このように言われています。
「仏心とは、大慈悲これなり」
「慈悲」という言葉には馴染みがあるかもしれませんが、元々仏教の言葉で、それも「仏の心」を表す言葉なのですね。
確かに「慈悲深い人」というのと「仏様みたいな人」と、イメージかぶりますね。

ただこの「慈悲」は、単に「優しい」というざっくりとした意味にとどまらず、もっと具体的な内容を持つ心です。
仏教では、
「苦を抜くを慈という、楽を与うるを悲という」
と言われまして、
苦しんでいる者がいたら、放っておけない、その苦しみをなんとか無くそうとせずにいられない。
そして、幸せになれるように、楽しみを感じられるように、努めずにいられない。
そんな「抜苦与楽」の心「慈悲」と言います。

仏の「目」って、どんな「目」をしているかご存知でしょうか。
アニメキャラクターみたいに、パッチリした、クリッとした「目」ではないのですね。
「半眼の目」と言われ、まぶたが半分閉じて、細めた目をしています。
この特徴については諸説あるようですが、
私達の外見や表面的な態度の奥にある、「本心」を見つめている目だとも言われます。

パッと見、楽しそう、幸せそうで、悩みなんてなさそうだったり、
人生の楽しみを謳歌しているような人だったり、
何もかも恵まれて、何の不足もないような人だったり、
周囲の人たちからチヤホヤされて、満たされていそうな人だったり、
外見や表面上では「慈悲」を向けるべき要素の見当たらない人でも、
その心の奥に、人知れず、また誰にも打ち明けることのできない、ともすれば自分でも自覚していないような、
苦しみ、悩み、不安、虚しさ、焦燥感、モヤモヤ…
そういうものを抱えているものなのですね。

一見恵まれているからこそ、他人からは幸せそうに見えるからこそ、
余計に他人に言えない、理解してもらえない、自分だけで抱えざるを得ない苦しみ…
考えてみればこれは、キツいですよね。

もちろん、あからさまに周囲からも分かるような
病気、貧困、災害、いじめ、事故…
といった苦悩に苛まれているのも大変だし、多くの人から慈悲を向けられて然るべきでしょう。

だけど、そういう多くの人にとって「分かりやすい」「共感しやすい」苦しみばかりが苦悩ではありません。
多くの人にとっては共感しづらい、その身になってみなければ理解できないような苦しみ
どれだけでもありますし、「苦しみの心」という点で、必ずしも劣るわけではありません。
むしろ、多くの人に理解してもらえない分、その悩みはより深刻になることでしょう。

そんな「心の奥底」を見通す目が、「仏の目」なのですね。
表面や外見にとらわれない。
その奥底に抱えている「心」にこそ向けられる「目」
それが「半眼の目」なのですね。

確かに、仏像の半眼の目に見つめられると、なんとなく心の底をも見透かされている気がする。
ごまかせない相手のような感じがする。
そんな印象がありますよね。
それは、心の底に抱えている「苦しみ」を見抜いて、それを抜き取って「楽」にしたいという「慈悲」の現れなのですね。

「仏の慈悲」ともなれば、「苦しみを探る」というのが本当に徹底していて、
本人も分かっていないような、奥底に抱えている苦しみの根本原因までも見抜いて、
その「元」を断ち切ろうとするのが、仏の慈悲です。

そんな「慈悲」の心から説かれた教えが「仏教」ですから、仏教は「慈悲の教え」と言われます。
その目指すところは、根本的な「抜苦与楽」なのですね。

「仏の慈悲」を通して知らされること

では、「人間の心」はどうでしょう。「自分の心」は、どうでしょうか。
「抜苦与楽」を徹底してゆく「慈悲」の心。
そんな心を自分は持っているだろうか、自分の生き様は、「慈悲」の実践となっているだろうか。
そう振り返ってみると、どうでしょうか。

「苦しんでいる人を見ると、放っておけません」
そんな心なら私達も多かれ少なかれ持っていると思います。

「人の役に立つような生き方をしよう」
「人に喜ばれるような仕事をしよう」
「悩み事を打ち明けてもらえるような、そしてそれに寄り添ってあげられるような人になろう」
そんな思いは確かにありますし、その実践にこそ多くの人は「生きがい」を感じられるはずです。
ボランティア活動なんてまさにその慈悲の実践と言えるでしょう。

ただ、そんな風に「慈悲」に生きようと努めると、努めるほどに見えてくるものがあります。
その「慈悲の活動」を、己の「欲」が蝕んでしまうという実態です。

「結局どこどこまでも、自分が一番可愛いのだな…」
こんな自分を思い知らされて、反省せずにいられないという人は少なからずいます。
しかもそういう人に限って、本当に周囲に気を配ったり、他人のために優しくあろうとしている、
いわゆる「慈悲」を実践しているのですね。
その実践は、実はそのまま「己と向き合う」事でもあると言えます。

仏教では、「欲望」に代表される、己を煩わせ悩ませ、「慈悲」を妨げる心を「煩悩」といいます。
自分の中に、どれほど激しい煩悩が動きづくめであることか…
仏教では私達人間のことを「煩悩熾盛の衆生(ぼんのうしじょうのしゅじょう)」と言われまして、
「熾盛」とは、「燃え盛る」という事ですから、煩悩が激しく、烈火のごとく燃え盛っているのが、人間の心中の実態だと教えられます。

そんな己の心の実態を垣間見るのが、実は、「慈悲」に努めようとした時なのですね。
慈悲の心を起こして、他者の悩みに向き合って、寄り添って、その解決をしてゆく事に、とことん全力尽くそうとすればするだけ、
「この人は可愛いから、好きだから…」と相手を選り好みしている心だとか、
「これだけやっている己を、周囲に知らしめたい」という自己顕示欲とか、
「自分はこんなにも努めているのに、あの人は、この人は…」という腹立ちやら見下す心やら、
驚くほど激しく「煩悩」が心の底で、外面の「慈悲の実践」とは裏腹に、常に動きづくめであることに気がついてきます。

心から他者の苦しみに寄り添って、思いやって、その解決に向かう気持ちなんて、本当に自分にあるのだろうか?
結局のところ自分のエゴで「可愛い」と思える相手、自分を満たしてくれるような相手にしか、思いやりの心が起きないのではないか?
なんだかんだで、自分ばかりを守ろうとしているのではないか?
「他人の為」という聞こえのいい動機を掲げているようで、結局は自分のことばかり考えていないだろうか?

これは、決してただの自己嫌悪や自虐的な感情ではありません。
「煩悩熾盛」と仏教で言われる「人間の普遍的な本性」を垣間見ているのであり、己の本質に向き合っている姿なのですね。
「これまで気がついていなかった『己』を知る」
人として、極めて大切な課題に向き合っていると言えます。

「仏の心」とされる「慈悲」
そんな「慈悲」の心に、自分は果たしてなれるのか、なれないのか。
日々の生活の中で、その実践に努める機会はどれだけでもあります。
その結果、
「どうあっても、利己心ばかりが動き続ける実態は変えようがない」と知らされるのか、
それとも、そうではないのか。
仏教で教えられる「煩悩熾盛の衆生」という人間観は、自分の事なのか、どうなのか。

これは知識だけで片付けられる問題ではありません。
言葉だけの結論を聞いて、「はい、そうですか」で済む問題ではありません。
悲喜こもごも渦巻く人生を、精一杯生きてゆく中で、確かめてゆくべきものなのですね。

それはある意味「仏を相手にして」生きている姿とも言え、「仏と向き合って」生きている姿とも言えるでしょう。
「仏教」とは、「己の本当の姿」を知らせる、「鏡」のようなものなのですね。