理不尽が理不尽でなくなる視点〜「人間の智恵」の実相を知る〜

「赤子」のような人間の姿

最近、生後数ヶ月ぐらいの赤ん坊と接することがちょくちょく増えてきました。
その可愛らしい目は好奇心に満ちていて、彼らにとっては日々が冒険の連続なのだろうか、と思いますね。
と、同時に色々とハラハラさせてくれるのが赤ん坊や幼児です。

何に触れてしまうやら分からない…
何を振り回すやら分からない…
何を口にいれるか知れない…
どこに飛び込んでいくとも知れない…

彼らが思っている以上に世の中は、危険なもので満ちていて、命を脅かすものはあちこちにあります。
尖ったもの、切れるもの、毒性のあるもの、深い穴、水の中…
これに触れたらどんなことになるか、これを振り回したらどんな危険があるか、こんなものを口に入れてもし飲み込みでもしたら…
大人から見たら、「その先」にある危険がありありと分かるのですが、赤ん坊や幼児はそんなものは見えていません。
だから、ニコニコしながらそんな危険に身を委ねようとしてしまいます。

これは、大人と子供の「智恵」の差ということができます。
何十年と生きて、多くの知識と経験を積んで、
「こうしたらこうなって、そうするとまたこうなって…」
という因果関係を見抜くことが出来るようになってきます。
智恵が発達してくる、ということですね。

生まれてまもない赤ん坊や幼児には、そこまでの智恵がありません。
だから危険を危険とも、リスクをリスクとも思わずに、大人からしたらハラハラものの行動の連続であるということです。

ただこれは、実は、赤ん坊や幼児だけのことではありません。
危険を危険とも、リスクをリスクとも知らずに行動しているのが、大人・子供問わず「人間の実態」だということもできるのですね。

人類何千年もの歴史で、人間はこの世の中の色んなことを解明してきました。
自然現象のしくみ、生物の遺伝子のしくみ、地球環境の構造、化学現象のしくみ…などなど
そして、生活を豊かにするべく、技術の開発、物質の開発、環境の開発、遺伝子技術の開発と、開発を重ねて私達の生活はここ100年ぐらいで一変しました。

確かに、
「人間の叡智によって、この世の色々なことが解明された」
ということができますが、最先端の研究機関では、まだまだ果てしない未知の領域への挑戦が続けられていますね。
「知らないこと」なんて、まだまだです。

アイザック・ニュートンの有名な言葉ですが、

「私は海辺で遊んでいる少年のようである。
ときおり、
普通のものよりもなめらかな小石
かわいい貝殻を見つけて
夢中になっている。
真理の大海は、
すべてが未発見のまま、
目の前に広がっているというのに。」

「人間の智恵」の限界がとてもよく分かりますね。
あのニュートンが言うから、説得力があります。

人間が真理の探求をしてきたと言っても、
未知の領域は「大海」のようなもの。
人間の解明したことは「浜辺の小石や貝殻」のようなもの。

これが実態ですね。

真っ暗闇を走る「人間」

そんな、「小石」や「貝殻」程度の領域の知識で、
開発だ、革新だと声高に「理想」を掲げて
地球環境や生態系を大規模に変化させて
原子構造にまでメスを入れたエネルギー開発を進め
生命の設計図たる遺伝子にも手を出して
それらの技術に支えられた生活を、現代人は送っています。

それら「開発」に伴って、私達の未知の領域でどんな変化が起きているやら分かりません。
知らないところで、取り返しのつかないリスクが起こっていてもおかしくありません。
「こうしたら、こうなる」
と、今の人間が理解していることなど、「小石」や「貝殻」ほどの領域だけなのだから。

それはちょうど、コンピューターの構造を知らない機械のド素人がパソコンの改造を試みて、
とりあえずネジを外して、中身を出して、
自分なりに考えた部品を埋め込んでみたり、要らなそうな部品を取り除いてみたりして
「なんか、思い通りにうまく作動するようになった」
と満足しているようなものなのかもしれません。
専門家からみたらもう、目も当てられない「破壊」にも似た行為であるにもかかわらず。

そんな歯止めの効かない人間の振る舞いは、ニュートンの言う「少年」どころか、
私達が日々、ハラハラしながら見守っている「赤子」か「幼児」のような振る舞いなのかも知れません。

…こんなことを書いて、人間の科学文明の進歩を否定したいわけでは、もちろんありません。
現に、私自身がこのインターネット環境を利用してブログを書くという、開発の最先端の結果の恩恵を被っている真っ最中なのだから。
人間の叡智の結晶を否定したいのなら、「じゃあまずそのブログ作成をやめなさい」、という話になってしまいますよね。

「真理」の前にはあまりにも無知である人間の姿を自覚することが大切だ、ということです。
ソクラテスの「無知の知」ではないですが、
私達は、「人間都合」の枠組みの中にどっぷり浸かって生きており、その枠組みをとっぱらった客観的な「真理」に対しては、真っ暗闇のようなものと言わざるを得ません。

「真理に暗い」
という姿は、仏教が教える人間観の、とても大切な要素です。

仏教では「真理」のことを「道理」とも言います。
そして仏教が教える「道理」とは、「因果の道理」です。

「因果」というのは「原因」「結果」ということですから、
人類がこれまでしてきた真理の探求は「因果」の探求と言うこともできます。

自然現象が起きる「原因」はどうなっているのか
生物がこんなに多種多様な姿を現すのはどんな「原因」でなのか
地球環境が形成されているのはどのような「原因」があってのことなのか
様々な化学現象はどのような「原因」で起こるのか

などなど、
様々な分野の「原因の追求」の連続で、人類は今日まで文明を築き上げてきています。

そして中でも仏教が特に重視し、教えている「因果の道理」は、
「自分の行い」「自分が受ける運命」の関係です。

仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と言います。
そしてこの「業」というものを非常に重視するのが仏教です。

「私はどんな行為をしているのか」
言い換えると、
「私はどんな「業」を造っているのか」
このことが、私にとって最も大切なことだと言われます。

それは、その私の「業」こそが、私の「運命」を生み出す「種」だからです。
「私はこれから、どうなっていくのだろうか。
ちゃんと生活していけるのか
仕事はうまくいくのか
今の人間関係は良好なままでいられるのか
大きな病気にかからないか
大きな事故に遭わないか」
などなど、私たちの未来の「運命」に対する不安は尽きることがありません。
その「運命」を引き起こしてゆく種が私の「業」であり、今、私がしている「行為」だと教えるのが仏教です。

いま、あなたのしている「行為」は、どんな結果を生み出すのでしょうか?
今日一日、あなたのした「行為」は、あなたの未来にどんな結果をもたらすでしょうか?

その、「行為」と「運命」の関係こそが、仏教が説く「因果の道理」です。

「リスクだらけの中を生きている」という自覚

先程、人間の「真理に暗い姿」ということを言いましたが、
中でも重要なのはこの「因果の道理」に暗いという人間の性質です。

自分はいったい、どんな「行為」をしているのか、
そしてその「行為」は一体、どんな「運命」を引き起こすものなのか?
このことがどうにもハッキリしないのが私達の実態だということです。

この「道理」を突き詰めれば、これまたとてつもなく深いのですね。
ニュートンが言うように、「大海」のように広がっている真理というわけです。
私達が「わきまえている」と思っているのは、そのうちのごく僅かと言わざるを得ません。

とりわけ「自分の行為」が、私達は自分が思っている以上に、見えていません。
「他人の行為」はよく目についても、「自分の行為」は、本当に見えていないものです。
「灯台下暗し」の諺が表す通り、闇に覆われているようなものです。
朝起きて、食事をして、着替えて、出かけて、仕事をして、遊びに行って、家に帰って、寝て…
この間になされている数々の行い、数々の業…
そこに、自分の未来にどんな結果をもたらす種が含まれているのか。
そのことについて、私達は真っ暗闇だということです。

考えてみるとそれは、恐ろしいことです。
ちょうど、赤ん坊や幼児が、
尖ったものに触れたり、刃物を触ったり、高いところから落っこちたり…
それらの行為の危険を認識せずに無邪気に振る舞っているのと同じです。
怪我をしたり痛い目を見るのは、他ならぬ本人だというのに。

私達が日々つくっている「業」に、どんなリスクが含まれているのか。
そして、どんな結果を引き起こすのか。
「因果の道理」に暗い私達は、このことを恐ろしいほど自覚していません。

だから、
「何が起きてもおかしくない、一寸先は闇」
という混沌とした人生の様相を呈しているわけです。
そんな世の中の有様を
「火宅無常の世界」
と仏教では言われます。

「無常」というのは、有名な仏教の言葉ですね。
「常」が「無」いということで、変わらず安定する、ということが無いということ。
次の瞬間どうなるか分からない、ということです。

「火宅」とは文字通り「火のついた家」ですね。
そんな、次の瞬間、どんな惨事に発展するとも知れないリスクだらけの世界に生きているということです。
それはそのまま、私達が日々造っている「業」に含まれる数々のリスクを表しています。

ですが、最も大きなリスクは、
その「火宅無常の世界に生きている自覚がない」ということです。

「無知」を「無知」とも思わず、したがって、「危険」を「危険」とも思っていない。
これが最も「危険」な状態と言えます。

「どんな結果を引き起こすとも知れない「業」を持っているということ」
このことを認識することが、人生の危機管理の第一歩と言えます。

そうすることで、これから自分に起きる「結果」をどう受け止めるかが、全く違ってきます。
どんな結果が起きても
「もともと自ら負ったリスクが、現実化したものだ」
と受け止めることができるようになってきます。

実はこれが、もっとも冷静に「現実を受け止める」ということになり、そこから「現実」を動かすベストパフォーマンスは生まれて来るのですね。