「他人からの失望」への恐れをどうしたらいいのか~決して見限らない人~

たった一つの落ち度なのに…

「あなたには本当に、ガッカリです。」
「なんか…幻滅しました。」
私的に、「言われて一番キツい言葉」の一つなのですが、
ガッカリされてしまったり、
失望されてしまったり、
幻滅されてしまったり、
そういう時の精神的ダメージって、本当に大きいのですね。
それは、私だけではないと思います。

ガッカリされたり幻滅されたりする時は、
そうなる前までは、自分のことを尊敬してくれていたり慕ってくれていたり期待してくれていたのですね。
他人からそういう気持ちを向けてもらえる事は、大きな支えとなります。
「自分にもそれぐらいの値があるのかな…」
ということを実感できますから。

誰だって、自分に値があると思いたいし、価値のない存在だなんて思いたくありません。
その「価値」が一番手っ取り早く感じられる方法は、
「他人に認めてもらう」
という事なのですね。

だから私達はとにかく
「他人に認めてもらう」
事に、一生懸命になります。

友達から、
「この人は、場を楽しくさせてくれる」
「相談に乗ってくれる」
と、「いい友達」と認めてもらえるように…

会社の人から、
「この人は仕事がデキる」
「いいムードメーカー」
「真面目できっちりしている」
と、「いい社員」と認めてもらえるように…

時には家族に対してさえ、
「いい子供」
「いい夫」
「いい妻」
「いい親」
として認めてもらえるように…

「他人に認めてもらえる」
というのは、とても分かりやすい形で
「自分には価値があるんだ」
と実感できますから、この方法に、すぐに飛びついてしまいます。
ですがこの「他人に認められている」という状態は本当に不安定ですよね。他人の感情は一時的ですから。

今日、友達と会っている時間に、
冗談言ったりして楽しませたり、相談に乗って悩みを軽減させてあげたり、
頑張って「この人といると楽しいな…楽になれるな…」と思ってもらうことができたとしても、
友達のその感覚が、どれほど続くでしょうか。
明日も、同じように自分に対して思ってくれているでしょうか。
一週間後はどうでしょうか。
もしかしたら、別れてすぐにもう、この時間のことなんて忘れられているかもしれません。

そしてその後、その友達の生活には色々なことが起きています。
自分と会っている時間に上昇した「気分」も、もしかしたら別れてすぐ、他の人から来たLINEを読んで、
ガクーっと落ちてしまっているかもしれない。
次の日に会社で、またストレスを溜め込んでイライラしているかもしれない。
或いは、別の友達が、自分よりもずっと楽しませてくれたり、いいアドバイスをしてくれたりしているかもしれない。

そんな日々を経て、また次にその友達と会った時には、
また前と同じかそれ以上に、楽しませたり、悩みを聞いてあげたりしなければ、自分の評価は維持できないかもしれない。
会うたび、会うたびに、努力して、気を張って、「いい友達」を務め続けて、なんとかかんとか、
「認めてもらえている」
を維持しているような状況です。
そして、何か「落ち度」があれば、「地雷を踏む」などしてしまったら、
「え…信じられない」
「そんな人だったの…」
それまで頑張ってきた努力の積み重ねは一体何だったのかと思えるほどのあっけなく、「評価」は失墜してしまいます。

「他人に認めてもらおう」
という努力をすれば、その報酬として与えられる「評価」はとても分かりやすくて自分の価値が高まった感覚を得られます。
しかし、それをメインに自分の価値を高めようとするのは、かなりしんどいですね。
そして、それを失う時のダメージは甚大なものとなってしまいます。

決して見限ったりはしない人

「だから、自分で自分を認めてあげましょう」
というアドバイスは、よくなされるのですが、これは確かに大切なことだと思います。
私自身もこれは、心がけるようにしています。
自分が大切にしている「売り」は、まず自分が認めてあげなければ、一体誰が認めてくれるのか、ということなのですね。
「自分には、これが出来る」
この事に関しては、誰が認めてくれなかろうが、自分だけは認めよう、というわけです。

だけど…他人さえ認めてくれないのに、自分が自分を認めるなんて…
そんな思いもあるかもしれませんが、むしろ、だからこそです。
誰も自分のことを認めてくれないからこそ、だからこそ、自分が自分を認めるべきなのですね。

どういうわけか、
「まず他人が認めてくれたら、自分もまた、自分を認められる」
という考え方になりがちなのですね。
それでまず、「他人に」認められようとしてしまいます。

確かに、「他人から認められた」のをきっかけとして、自分で自分を認められるようになる。
そういう事はあると思います。
だけど、たとえ一時的であってもそんなきっかけで自分を認められたのであれば、
その気持ちは、本当に大切にしたいものです。
その後にたとえ他人が自分に失望しようが幻滅しようが、
それでも自分で自分を認め続けるという気持ちが、本当に大切です。

どれだけ自分に強く期待してくれている人がいるとしても、
一番自分に期待しているのは、他ならぬ「自分自身」です。
自分自身が一番、自分の今の努力に、そして未来の結果に、期待しているのですね。
だから、そんな自分が一番、自分の事を信じて認めるのは、とても自然な事です。

とても自然なはずのことなのですが、
その逆をしてしまう場合が非常に多いのもまた事実です。
つまり、
「ことさらに自分で自分をひたすら貶めてしまう」
という事が、とてもよくなされています。

実のところ私も、前まではそうでした。
「自分は他人に害しか及ぼせない。本当に、この社会で何の価値もない存在だ…」
かなり本気で、それくらいのことを自分に対して思ってしまうのですね。
本当は、誰よりも自分で自分に期待しているはずなのに、どうしてそんな事を思ってのでしょうか。

一つ考えられるのは、
「その期待が裏切られる事が怖い」
ということです。
誰よりも強く期待してしまう、ということは、その期待が裏切られた時の失望もまた大きいというわけです。
自分の、自分への期待を、自分が裏切ってしまう。
この事態が怖いのですね。

だけど、
「失望したりガッカリしたり見限ったりする」
というのは、「他人」がすることです。
一度や二度の失敗や挫折で、失望して見限るような「他人の期待」なんて、所詮その程度のものです。
自分にとっての多くの「他人」は、そんなものなのかもしれません。

だけど、そんな中にあって稀に、
どれだけ失敗しても、どれだけ挫折しても、
いつまでもいつまでも、自分を見限ったりせずに、自分を信じてくれる人もいるかもしれません。
「この人だけは、どこどこまでも自分を見限らずに、見ていてくれる」
それは、親かもしれないし、兄弟かもしれないし、親友かもしれないし、恋人かもしれないし、先輩かもしれないし、先生かもしれません。
そんな人がいたら、本当に大切にすべき人なのだと思います。

「他人」でさえそんな人がいるのなら、まして「自分」だけは、自分を見限らない、諦めない。
何度失敗しても、何度挫折しても、本当に残念な行動をしてしまっても、
それでも「自分」だけは、自分を決して見限ったりはしない。
そんな風に自分を信じられたら、強いですね。

煩悩渦巻いてるなりに、頑張ってるんだ…

歎異抄という仏教書がありますが、
その中に
「さるべき業縁の催せば、いかなる振舞もすべし」
という言葉があります。

「縁」さえ来たならば、「きっかけ」さえ来たならば、
「いかなる振舞」もするだろう。
「そんな行動」でもやらかすだろう。
「きっかけ次第で、何をやらかすか知れないのが人間」

これが、仏教の「人間観」です。
どんな情けないことでも、どんな恐ろしいことでも、誰もが失望せずにいられないような行動でも、
「縁」さえくれば、人間はやりかねない。

これは、人間の奥底には、何をやらかすか知れない「煩悩」が常に渦巻いているからなのですね。
「煩悩」とは、人間を激しく突き動かしている
「欲」やら「怒り」やら「妬み」やら「恨み」やら…
そんな色々な心のことですが、非常に激しく、人間の行動を掻き立てるものです。

「欲」の心がどれだけ激しく自分の行動を駆り立てていることか…
心当たりのない人はいないですよね。
その「煩悩」の激しさは、
どれだけの教養があろうと、常識を知っていようと、
そんな「知識」や「理解」などでは抑えようもない、激しく人間を行動に駆り立ててゆくものです。

そんな強い力を持った「煩悩」の実態を知れば知るほど、
「きっかけ」が訪れて、「煩悩」が吹き上がってきたならば、本当に何をしでかすか分からない。
それが自分だと知らされます。
まさに
「さるべき業縁の催せば、いかなる振舞もすべし」
の言葉、そのままです。

もちろんこれは、
「だから煩悩のままに好き放題やっていればいい」
なんて事ではありません。
むしろその逆で、
自分の「行い」が自分の未来の報いを生み出すのが「因果応報の道理」なのだから、
「行い」をより良いものに、洗練させ、律する努力は何より大切です。
そして、そうやって己を律して、行動を律して、善き行動に努めようとしてこそ、
その「行い」の奥底には、恐ろしく激しい煩悩があることに驚かされるのです。

そんな激しい煩悩を持ちながらも、私達はそれぞれ、幸せを求めて生きてゆく。
それが、人間です。
それが人間ならば、
「こんなことをやっているから価値がない」
「こんなことをしたならば、もう見捨てざるを得ない」
「こうなってしまったらもう、絶望しかない」
などということは、人生にはないのですね。

「何があっても、決して自分を見限らない」
そんな自分への思いを、仏教の人間観を土台に築くことが出来れば、誰よりもたくましく生き抜くことが出来ることでしょう。