「○○ですよ」の一言で数十年の「依存の呪縛」が解けました〜「長所」が仇とならない為に〜

私が何十年も依存してきたもの

「最近、深夜に帰宅するとよく寝落ちしてしまう」
という話を友人にした時に、

「どうしてだか、分かります?」
と、意味深な表情で尋ねてくるので、
「え…?」
としばらく考えて、どうにも的を得た答えが見つからないでいると、

「年齢ですよ」

同年代の友人のその言葉は、妙な重みを持って私の心に迫ってきました。

身体の無理が効かない年齢…
誰もがぶつかる、如何ともしがたい現実。
私はすでにそれにぶつかっていて、それでいて自覚できずにいたのか…

そんなことに気付かされて、ハッとしてしまいました。

気持ちだけはどれだけでも若くいられるかもしれないけれど、
「身体」だけは、どうしようもない。

この事実は私にとって、大きな衝撃だったのでした。
もちろん、理屈では重々分かっていたことです。
分かっていたはずでも、いざ自分事となると、それは大きなショックだったのです。

それだけ、
「無理が効く自分の身体」
が、私にとっての大きな支えだったのですね。

私が小学生の頃から得意だったのが、マラソンでした。
自慢になってしまいますが、中学でも高校でも、長距離走ではいつもトップを争っていました。

ただ、友人いわく、私の走行スタイルは無茶苦茶だったそうです。
「ベタン!ベタン!」と、無駄に大きな足音を立てて走るスタイルで、
洗練された「タッタッタ…」という軽やかなステップとは対照的でした。

そして、いつも決まって、スタートを切った瞬間に、とにかく一番前に位置どって、先頭をひたすら走り続ける。
そして、驚くほど早い段階で、バテ始める。
表情を歪ませて、息をぜぃぜぃ言わせて、
「あ、これ、自滅するパターン」
という典型的な姿を晒します。

そしてそのまま、最後まで走ってしまう(苦笑)

ペース配分も、走るスタイルの洗練も、何もあったものではない。
「自分の体は、疲れようがバテようが、無理して動き続けてくれる」
この機能「のみ」に依存して勝負していたのでした。

これは、長距離走に限ったことではありません。
さらに中学、高校は主にサッカーをしていたのですが、
「足がつっても走り続ける」
と、ネタにされるぐらい、とにかくバテてもバテたまま、走り続けるスタイルは、
マラソンもサッカーも変わらないようでした。

「疲れてもバテても動き続けられる身体」

私が生まれ持った(?)この武器は、あらゆる場面で発揮されていました。

あまりにもこの機能に依存していたために、「依存している」という自覚すらなかったのですね。
「当然、無理が効く」
このことが、無意識の大前提として、これまでの人生を生き続けてきたように思います。

こういう強烈な「依存」の対象の「無常」には、人間は驚くほど鈍感なものです。
なにしろ「依存している」という自覚がないのだから、まったく見えていないのですね。
それが、確実に変化し、確実に衰え、確実に危ういものとなってしまっている…
この「無常」が、全く見えない状態になってしまいます。

考えてみれば本当に危うい状態ですね。

長所が仇になるという落とし穴

そう考えると、一つの長所に依存することは、危険なことだと言えます。
もし、私に「無理が効く身体」という武器がなかったら、もっと視野を広く持っていたかもしれません。
頑張り続けるための様々な工夫研究を広い視点でし続けていたかもしれません。

世の中には、疲れを溜めすぎないためのノウハウが山ほどあります。
こまめに休息をとること。
深呼吸をすること。
ストレッチをすること。
睡眠の質を良くすること。
食事への気遣い。
自分の体に無理がかからないためのメンテナンスの方法は数多くあります。

それらを駆使して、限られた体力で、やりたいこと、やるべきことを果たすために頑張る。
これがある意味健全な姿のはずです。
ところが、なまじ「疲れようがバテようが、動けてしまう身体」を持っているために、それらの方法論への関心が極端に薄くなってしまいます。

そして、一つの長所だのみの危うい綱渡りのような生き方になってしまうわけですね。

どんな長所であろうと、どんな強力な武器であろうと、それは「無常」である。
この真理に向き合うことが大切です。
長所であるほど、頼みとしているものであるほど、私達は意識して、その「無常」を見つめようと努めなければならないのですね。
そうしないと、すぐに「無常」という認識の枠外に追いやってしまい、当然の大前提として、危うい土台のどっかり腰掛けてしまうことになってしまいます。

実はこれは、せっかくの長所に対して、盲目的になってしまっているとも言えます。
そしてその長所を乱暴に扱ってしまいます。

どこが長所の活かしどころなのか。
どこで、温存すべきなのか。
もっとそれを伸ばすことはできないか。

そういう思考が完全に停止して、ただ依存している。
これは、長所を十分に生かせない、もったいない扱いになってしまっていると言えます。

視野が狭くなってしまう上に、その長所自体もまた十分に活かせない。
これでは、強力な長所を持っていることが、かえって仇にすらなりかねません。
結果的に非常にバランスを欠き、しまいに、その長所の衰えがきたときに、人生そのものが崩れ始めてしまいます。

「一つの長所に依存した盲目的な状態」
ここからの脱却が必要なのですね。
そのために大切なことが、「無常を観る」ということです。

私が頼りとしているその長所もまた、無常であり、限りあるものであり、必ず衰え、支えとならなくなる時がくる。

頼りとしているものほど、そう思いたくないものですが、
「諸行は無常」
「あらゆるものは、無常である」
この鉄則をごまかさずに観ることです。

突出した長所を真に活かし切るには

私の場合は、「疲れてもバテても動き続けられるこの身体」でしたが、
誰もが、何かしらの長所を持っているはずです。

人を笑わせるセンス、言葉のセンス、服のセンス、記憶力、体力、美貌…

持って生まれたものなのか、努力の末に身に着けたものなのか、
いずれにしてもそれは「宝」とも言うべきすばらしい「長所」です。
だからこそ、それを大切に扱いたいものですね。

だけど、時に私達はその長所に依存し盲目的になり、
その存在すらも認識の外に追いやったり、
それを大前提とし、その長所だのみの人生を構築してしまっていて、
自分でも気づかないうちに、バランスの崩れた状態になってしまいがちなのですね。

強力な長所を持つことがかえって人生に仇をなす。
これでは、あまりにもったいなく、残念なことです。

逆に、そういう長所がないために、色々な知識やスキルに貪欲となり、
己の限界をわきまえて、自分の持つ限られた資源を上手に活かして生きることに長けてくる。
そういうこともあるのですね。

突出した長所があることが、武器なのか、仇なのか、分からなくなってしまいます。

そこで大切なことが「諸行は無常」という真理を観ることです。
大事なものだからこそ、その「無常」を忘れない。
それは、自分の身に備わった自分の「長所」も例外ではありません。

自分のことだけに、一番身近なものであるから、「灯台下暗し」で、「無常」を見落としやすいものです。
こういう「無常」を見落とさない努力が本当に大切です。

「あらゆるもの」が無常で、一切例外はない。
この真理に立つことで、あらゆるものを活かし切る真に恵まれた人生が開けてくるのですね。