「ゴネ得」の背景にみる人生の落とし穴~因果と暴挙~

世に溢れる「ゴネ得」を前に私たちは…

「ゴネ得」という言葉がありますね。
ネットで意味を調べてみたら、
「不平や自分勝手な言い分を言うだけ言って相手に負担をかけ、結果として利益を得ること。」
「ゴネることで得をすること。」

と書いてありました。

それにしても、この言葉でネット検索をかけると、「ゴネ得」関連の事例がわんさか出てきますね。
それほど世の中のあちこちで見られる現象なのでしょう。

「クレーマー」や「モンスター」と言われる人たちがいます。
お店にたいして、やたらと無理難題をふっかけたり、言いがかりをつけたりする人たちのことですね。
ただクレームが言いたい、不平を言いたいという場合もあるでしょうが、
時に、これらの人たちが「ゴネ得」狙いという魂胆を持っている場合があるのですね。
やたらと難癖をつけたり、無茶苦茶なことを言いながらも心密かに「そろそろ妥協して何かしらサービスしてくれるかな…」と虎視眈々と狙っている。
店側からしたら、たまらない客なわけですね。

お店以外の日常の場面でも「ゴネ得かよ…」と思う場面が多々あるようですね。

時々聞くのが、職場内で、自分に都合が悪くなればやたらとキレる人がいるという話です。
その場の上司が、穏便に事を済ませるタイプである場合、場を収めるためにその人の要求を結局飲んでしまう。
それで真面目に仕事をしている人が、「結局ゴネたもん勝ちかよ…」と、まっとうな努力がバカらしくなってしまう、というわけですね。

そこで、仏教的には「ゴネ得」って、どうなんだろ?
ということをちょっと考えてみるわけですね。

仏教では、どんな結果にも必ず原因があると教えられます。
「因果の道理」と言いまして、どんな結果にも、必ずそれ相応の原因があるということです。
原因のない結果は、万に一つも無いと教えているのが仏教です。
ということは、ゴネ得という結果にも原因があるということになります。

じゃあゴネ得という結果は、いったいどんな原因の報いなのか?
まさかゴネた報いとして、欲しいものを手に入れるなんていう因果があるのか?

そんな、「ゴネるなんて他人に迷惑をかける行為の報いで欲しいものが手に入ってしまう」なんて因果は、到底納得できない。
こう思うのはもっともです。

逆に、
「いやあ、所詮世の中、そんなもんだよ。結局、ゴネたもん勝ちだよ」
と冷ややかに見たくなる気持ちも、分かります。
もう世の中、そんなことで溢れているものだから、正直者はバカを見る、コツコツ努力なんてバカらしい、そんな意見すら出てくるのも無理ありません。

そこで、仏教的な視点でこの「ゴネ得」というものを分析してみたいと思います。

「ゴネ」の一手の背景にあるもの

確かに、ゴネ得をする人たちは、ゴネて他人に迷惑をかけるという手段を行使して、欲しいものを手に入れているように見えます。

ただ考えてみて欲しいのは、
何だってゴネて手に入るわけではない
ということです。

そりゃそうですよね。ゴネたって、得られないものだってありますよね。
オリンピックの金メダルは、いくらゴネてもだめでしょうね。
宝くじのハズレくじを持っていって「たった1桁の数字違いなのです!」とどれだけゴネても、3億円はもらえないでしょう。
ノーベル賞を、一般の人がどれだけゴネても受賞という結果には至らないでしょうね。
好きな人にゴネて結婚を迫っても、ちょっと難しいような気がしますね。

ゴネてもどうしても得られないものだって、いくらでもありますよね。

また、「ゴネ得」って、誰でもできるわけではないのですね。

例えば、買い物をして、そこでなんだかんだと言いがかりをつけたりしてゴネて、安くしてもらったり、何かのオマケを得る人がいるとします。
だけど、そもそも買うお金も無くて、「客」にすらなれない状況では、ゴネる以前の問題なのですね。
一定の収入を得て、客として買い物ができる状況になっている人が、「もうちょっと得をする」ためにゴネているというわけです。

職場でゴネて自分のやりたくない仕事を回避して、他人より楽している人がいるとします。
だけどその人はまがりなりにも、入社のための手続きを踏んで会社に認められて社員という立場を勝ち取っている人なのですね。
さすがに面接でゴネて入社したってことは無いと思います。
そこはきっちり努力して社員という立場を勝ち取っているわけですね。
その中で、もっと自分の思いを通したいという結果を求めてゴネているわけです。
社員という立場を勝ち取ってもいないのであれば、ゴネるも何もありません。

ゴネ得してるというのは、
今の自分の程度で手が届きそうで、だけどなかなか届かないものを、ゴネるという手段を通して無理やり届かせている。
いわばこういうことでしょう。

ということは、手に入る「あともうちょっと」を、ゴネるという手段を行使して無理やり届かせてしまっている。
そしてここで、「他人に迷惑をかけたり嫌な思いをさせたりする」という遺恨を残す原因を造ってしまっているのです。

その人だって、
かつて努力した種まきもあるだろうに。
忍耐した種まきもあるだろうに。
親切をした事もあるだろうに。

「いや、こんなクレーマーが、モンスターがそういうことするはずがない」
と思うかもしれませんが、私達は他人の事なんて、ほんの一部、一面しか分かっていません。
まして、近寄りがたいクレーマーのような人の過去なんて、なかなか知る由もありませんから、そこは「分からない」と言わざるを得ません。
まっとうな努力がゼロだったということは無いでしょう。

ところがここに来て、
もう、辛抱出来なかったのか
何かの影響を受けたのか
よほど追い詰められてしまったのか
何かしらの原因で、最後の一手に「ゴネる」という手段を選んでしまったのですね。
そして、それをやってしまった以上、それ相応の報いを受ける原因を造ってしまっていることは否めません。

せっかくそこまで努力して来ているのであれば、そのまままっとうに努力し続けて、堂々と「欲しいです」と求めて、手に入れることもできたはずです。
その道を歩めなかった。あるいはあえて、歩まなかった。
その結果、遺恨を残す原因を造ってしまった。

このように見ることができます。

そんな人がいる中で、問題は、
「あなたはどちらの道を歩みますか?」
ということなのですね。

「ゴネ得」狙いの心が起きる種

念の為に言っておきたいのですが、
「だからゴネ得の輩にはやりたいようにさせておけばいいでしょう」
と言っている訳ではありません。
当然、周囲に迷惑をかけてくるわけですから、必要な手は打たざるを得ないでしょう。
店としては、毅然として態度でとんでもないクレームは拒否することも時には必要でしょう。

ここでお話しているのは、そういう「対策」は別として、
私達はこの「ゴネ得」という現象をどう理解したらよいか
ということなのですね。

ただ
「クソッ、嫌な奴だな。いなくなればいいのに…」
と思うだけでは、ただストレスを被っているだけですし。
まして
「あーあ、結局ゴネたもん勝ちかよ、努力なんてばかばかしい」
なんて影響を受けてしまうのも、大きな心の損失ですよね。

ある意味これは教訓とすることもできます。

生きるためにみんな、精一杯努力しているわけですよね。
色んなことに耐えているわけです。
いろんな理不尽に見舞われることもあります。
そんな中を乗り越えて、生きている。
そんな私達に、
「楽な方法で結果が欲しいな」
「他人に迷惑かけても、私はこれだけ耐えているのだから許されるだろう」

という心が沸いてくることがあるかもしれません。

せっかくここまで耐えてきたのに。
ここまで努力してきたのに。
その「努力」をどこかで信じられなくなって、
因果の道理が信じられなくなってしまって、

遺恨を残してしまうような方法で無理やり結果をむしり取ろうという暴挙に出てしまうリスクが、私にもあるのですね。
そう考えると、もしかしたらこれは、自分の問題かもしれません。

世の中の色んな出来事を、私の心の渦の一コマとして観てゆく。
こういう見方を仏教では教えられます。
ゴネ得に走る種も、自分の心のどこかにある。

目の前に展開される「ゴネ得」という現象は、私に問いかけているのかもしれません。
こうして遺恨を残すやり方を、欲しいものを手に入れる詰めの場面でやってしまいますか?
それともこのまま、欲しいものに届くまでまっとうな努力を続けますか?

そういう見方ができれば、自己を知り、自己を戒め、まっすぐ前進するための教訓とすることができるでしょう。

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コメント

  1. ゴネ得最高 より:

    他人に迷惑がかかろうが、自分が得したほうが勝ちに決まってる