「自業自得」というのは「自分を責める」ことなのか?〜「罪悪観」の本当の意味〜

「自業自得」に追い詰められる!?

「自業自得」という仏教の言葉を、このブログではよく出していますが、
「厳しい言葉だな」と感じる人もいると思います。

というのも
「自分が受ける結果(自得)は、全て自分の行い(自業)が原因である」
というのが自業自得ということで、仏教では、これが例外のない「道理」だと教えられます。
これを「因果の道理」とも言われます。
自分の身に起きる運命についての、原因と結果の法則ということです。

自業自得というのは、単なる「教訓」ではありません。
「こんな風に考えることが大切ですよ」
という、いわゆるマインドの問題ではないのですね。
たとえ思おうが思うまいが、認めようが認めまいが、変えようのない真理であり道理であるとして、
「自業自得」
と教えているわけです。

なので、私の都合や希望や思いとは関係がないのですね。
そういう意味では確かに厳粛なもので、辛辣な言葉と感じるのは無理もないことです。

その自業自得という道理を、道理として明確に説き、
「この因果の道理をごまかさずに観る」
ことを勧めているのが仏教です。

そうすると、たとえば
ひどい目に遭った。
理不尽な目に遭った。
という時、ただでさえそんな苦境の中で辛い思いをしているのに、
「その原因はあなた自身にある」
なんて思わなきゃならないなんて、辛さに拍車をかけることになるのではないか。

「結局、全部自分が悪いんだ」
「あれも、これも、全部私のせいなんだ」
「私はこんな悪いことばっかりしている、悪い人間なんだ…」

どんどん、自分が追い詰められていくのではないか。
あまり「自業自得」と、考えすぎないほうがいいのではないか。

そんな思いになるのも、無理のないことかもしれません。
しかし「自業自得」をみるということは、そうやって自分を追い詰めることなのでしょうか?

確かに、「自業自得」を理解すればするほど、自分の身に起きる結果の原因は、あくまで自己の中にあるとして、
「自己の姿」に目が向くようになっていきます。
外ばかりに向いていた目が、内側の自分自身に向く。
実にこれが、私達が因果の道理を理解した先に起こる変化なのですね。

仏教を説かれた釈迦が因果の道理を教えた狙いは、この「自己に目を向けさせる」ことにあったとも言えるのです。

「自己に目を向ける」ということは、
悪い結果を受けた時ならば
「自己の悪い種蒔きに目を向ける」
ということであり、
「自己の罪悪をみる」
とも言えます。

自己の罪悪を観ることを、「罪悪観」と言います。

問題はこの「罪悪観」なのですね。
「自分の罪悪をみる」ということなのだから、やっぱりそれは、
「自分は悪いものだ」
「私が悪いんだ。私のせいなんだ。」
と、「自分を責める」ことのように思えてしまいます。

だけど本当は、
「罪悪観」=「自分を責める」
ではない
のですね。

「他人を責める」と「自分を責める」に共通していることは

先程、「外ばかりに向いている目が、内側の自分自身に向く」ということを言いました。

「外ばかりに向いている」というのは、言い換えると「他人を責める」ということですね。

「なんで、こんなタイミングで仕事を振ってくるのかな、あの上司は…」
「どうしてこんなミスをしてくれるかな、この部下は…」
「どうして、うちの夫は全然話を聞いてくれないのかな…」
「ウチの親はどうしてこんなに干渉してくるのかな…」
「全然言うことを聞かないな、ウチの子供は…」

マズい状況、辛い状況に陥ったときに、周りに目を向けると、「責めたくなるもの」だらけになりますよね。
ついつい攻撃的な感情が起きてきて、心の中で他人を責めてしまいます。

「他人を悪者にして、責める」
ということが、苦しみから楽になる逃げ道のように思って、他者攻撃に走ってしまいがちなのかもしれません。
苦しみの最中に起きるモヤモヤした感情のはけ口として、「他人を責める」という方向に行ってしまうのですね。

じゃあそれでモヤモヤが無くなるのか、減少するのかというと、そうはいきません。
明確な「悪者」に対して責め始めると、よけいに感情的になってしまいます。
その感情的なイライラは、決して気持ちのいいものではありませんから、より自分を苦しめることになってしまいます。
それがまた、さらに他者攻撃を助長させてしまいます。
悪循環の始まりというわけですね。

これが「他人を責める」状態なのですが、

中に、色々な理由で、「他人を責められない」という人もいます。
そして、他人を責める代わりに、専ら「自分」を責めてしまう。
「自分が、悪いんだ。」
「自分が、ダメなんだ。」
これもまた、苦しいことなのですね。

実はこれは、対象が「他人」か「自分」かの違いで、感情的になって攻撃しているという点では共通しています。
しかも、その攻撃対象は、自分の「人格」そのものになってしまっています。
「私は」ダメだ。
「私は」悪いんだ。
感情的な攻撃をやってしまうと、他人であれ自分であれ、どうしても「人格そのもの」に対する全面否定になりがちなんですね。

「自分を責める」と「罪悪観」の違い

「自業自得」という道理に則って、自己に目を向けるというのは、そのような感情的な攻撃とは全く違うものです。

他人の人格を責めるでも
自分の人格を責めるでもなく
自分の苦しみを生み出した自分の「行い」を冷静に見つめるということです。

因果の道理を観るということは、感情的な攻撃ではないのですね。
それはそうです。道理を観る、真理を観るということですから、感情的どころか、冷静にならなければ観ることはできません。

他者を責めたくなったとき
自分を責めたくなったとき

「いや、まてよ」と、立ち止まってみましょう。

そして、
因果の道理を冷静に観てみよう。
と、「道理」に目を向けることが大切なのです。
その時点でもう、感情的な攻撃ではなくなっているはずです。

これは、因果の道理を深く理解すればするほど、「冷静に道理を観る」という習慣を養うことができます。

そうすれば、目を向けるものは、「私の人格そのものの悪」なんてものではなくて、
自分に悪い結果を引き起こした、自分の一つ一つの「行動」です。

自分のどのような「行動」が、こんな結果を引き起こしたのだろうか?
このように、因果を追求していくという思考となります。

これは、
とにかく「私が悪いんだ」という、感情的な攻撃となる「自分を責める」とは全く違いますよね。
感情的になるのではない。
冷静に、道理を、因果を観察することが、「罪悪観」なのです。

「ああ…あの行いが引き起こしていたのか…」
「あの時の種蒔きが、自分に現れているのか…」
「確かに、因果の道理に狂いはないのだな…」

原因と結果の関係から自業自得を痛感した時というのは、感情的に「責める」とは全く違う気持ちになります。
モヤモヤがスーッと引いていくような。
張り詰めていた氷が溶けていくような。
驚くほど楽な気持ちになれるものなのです。

そういう思考になるために大切なことは、因果の道理を順を追って深く理解することです。
断片的な理解から、「とにかく自分が悪いということなのだろう」という理解になってしまっては、感情的な攻撃が、ただ他者から自分に変わるだけとなってしまいます。
因果という道理をあきらかに観るという思考にはなりません。

原因と結果の関係をよく学んで理解し、それを日常で実践して身につけてゆく。
そういう努力の積み重ねで、感情的なモヤモヤから解放される道が開かれてゆきます。