他人を信頼して「悔い無し」と言えるためには

「信頼したい」その気持ちにブレーキがかかってしまう

人間同士、心から信頼し合える関係を造ることは、そう簡単なことではないですよね。

自分が相手から信頼してもらうためにも努力が必要ですし、
逆に、自分が相手のことを信頼できるようになるためにも、やっぱり努力が必要なことです。

とかく私達は、「相手に信頼してもらえるように」という努力に目を向けがちですが、
「相手のことを信頼できる心」を自分の中に築くことも、それと同じかそれ以上に大切なことです。
「他人を信頼する」
ということは、言うほど簡単なことではないのかもしれません。

これはいわば自分の「心」の問題ですが、
自分の心を見れば見るだけ、「保身」の思いがいかに強いことか、知らされるのですね。
その「保身の心」のために、他人を信頼することにブレーキがかかってしまいます。
「他人を信頼できない」という心は、
「自分を守りたい」「自分が傷つきたくない」
という気持ちから出てくるものと言えるでしょう。

もちろん、初めから明らかに信用に足る人物とは思えない場合や、そもそも関わりたくもない相手なら当然なのですが、
本当は信頼したい、そしていい関係を造っていきたいと思うような相手でも、
「信頼する」ってことにどうしてもブレーキがかかってしまう人は少なくないようです。

「信頼した結果、裏切られて深く傷ついてしまうかもしれない。」
この恐れはどうにも拭いきれないものがあります。
しかも、深く信じていればいるだけ、裏切られた時のダメージは大きくなりますから、
深く信頼できそうな相手ほど、その恐れは大きくなります。

だけど一方で、私達の人生に「他人の縁」という要素は決して無視できるものではありません。
「他人との縁」の広がりが、そのまま自分の人生の可能性の広がりとなると言っても過言ではないくらい
「他人と関わって生きる」ことは避けようがないのもまた人間なのですね。
そして心のどこかで、「心から信頼し合える人間関係」を求めて生きていることも否定はできないでしょう。

裏切られて傷つきたくない。
だけど、出来ることならば心から信じてみたい…

そういうジレンマを色々な場面で抱えて生きているのが私達なのですね。

「信頼関係の崩壊」はバッドエンドなのか

「いつか裏切られてしまう事を考えると信じられない」
これは確かにもっともな考えなのですが、
しかしこの考えだと、信じられるものなど何一つなくなってしまいます。

「裏切らないものはこの世に一つもない」
これは、仏教の「諸行無常」の教えが、懇切に教えていることです。
この世のあらゆるモノも人も、「無常」であり、移ろい変わってゆくもの。
ずーっと変わらずにいてくれるものは何一つないのだから、
どこかで「裏切られてしまった」という事が起きてしまいます。

ずっと信じていたのに、
信じられていた時間は本当に素晴らしかったのに、
だけど、変わってしまった…
もう、信じられなくなってしまった…

そういう経験は、「無常」の世の中を生きている限りどうしても味わっていかなければなりません。

あなたも、そういう経験はすでに幾つもあるのではないかと思います。
もちろん、私にもあります。
裏切られたことも、そして、裏切ってしまったことも、あります。
「あんなに苦労して築いてきた信頼関係が、こんなにあっさり崩れるなんて…」
そんな現実に愕然とした、忘れられない経験がいくつもあります。

最初に述べたように、誰かとお互い信頼し合える関係を造ることは、本当に大変なことです。
だけど、「この人と信頼関係を築きたい」と思ったならば、
私は極力、自分をオープンにして、「きっといい関係を造ってゆける」と信じて、
相手にも信頼してもらえるように努めてきました。

その結果、信頼しあえるようにあった相手と過ごす時間は本当に充実したもので、
自分のいろんな可能性を感じることができるようにもなりました。
「信頼し合える人がいる分、自分の未来にこんなにも希望が持てるようになるのだな」
ということを強く実感しました。

…だけど、その関係はやがて崩壊してしまいました。
ちょっとしたきっかけで、あっという間に修復の見込みもない状態に変わってしまうのですね。
そんなことになった経験は、何度もありますし、そのたびに寂しい思いに沈みました。
それを防げなかった自分を心から情けなく思いました。
これからも、何度もそういう経験をするかもしれません。
「無常」の世界において、こういう経験なしに生きられるというのはきっと難しいことでしょう。

だけど冷静に考えてみれば、
確かに最後には「関係の崩壊」が起きてしまったのだけど、
「信じられていた時間」は確かにあったわけです。
そうすると、
「信じられていた時間」に、私が「思ったこと」、「やったこと」、「言ったこと」、
そのすべてが無かったことになるわけではないのですね。

最後には「関係の崩壊」が起きてしまいました。
その引き金となるような、私自身の至らない行動もありました。
そうすると、その「崩壊」「その原因とおぼしき自分の言動」とが、強烈に私の心に刻まれてしまいます。
そのため、その「崩壊」と「失態」によって、まるで「それまでの全て」がダメになってしまったように感じてしまいます。

だけど、「関係の崩壊」とは、その時点での一つの「変化」であり、
「崩壊の原因となった言動」も、その時の一つの「種まき」です。
確かにその「結果」と「種まき」は、否定できない現実でしょう。
反省すべきことも、多々あることでしょう。
だけどそんな、一時の「結果」と「種まき」で、
「人生そのもの」が良くなったりダメになったりするものでもないのですね。
そしてもちろん、それまでの「種まき」も「関わり」も、無かったことになるわけでは決してありません。

まあ…そう簡単に割り切れないから私達は悩むわけですけど。
だけど、
「種まきを大切にする」とか「関係を大切にする」というのは、
「0か100か」で見ることではなくて、
その1つ1つに、ベストを尽くし、その1つ1つの価値をちゃんと見てゆくことなのですね。
何か1つの出来事で0か100かに決まってしまうほど人生は単純なものではないのだから。

「悔いのない日々」への視点

「無常」に例外がない以上、どんなに深く信頼できた人もモノでも、
その関係は最後には崩壊してしまうことは初めから分かっていることです。
じゃあ、そんな「無常」の世界の中で、何かを信頼することに意味はないのでしょうか。

私達には強い執着心がありますから、
信頼できた人やモノが、まるで人生の全てのように感じてしまうところがあります。
だから、執着の対象が崩壊した時に、全てがダメになるように思いがちなのですね。

だけど本当に大切なことは、その信頼できている間の時間に、
私はどれほどの種まきをし、その関係をどれほど大事にできたか、という事なのですね。

これは、後になって振り返るとよく分かります。

仏教では私の行動(種まき)のことを「因」を言い、他者との関係のことを「縁」と言います。
「一切法は因縁生なり」
と言われ、私達の身に起きる現実の全ては「因」と「縁」とで生ずるのだと教えられます。

だからこそ、自分の人生を善きものとし、自分の未来に希望をつなぐために最も大切な事は、
「因」と「縁」をどれだけ求めてゆくかという事なのですね。

私のこれまでの人生で、「すでに崩壊してしまったあの人との関係」を考えると、
終末の一点だけを見れば、バッドエンドのようにも見えるのですが、
だけどその崩壊までの時間に、私は確かに精一杯の「因」と「縁」とを求めていました。
信頼できるその人との関係の中で、
自分のできる精一杯の「行動」を模索し、努めていたことに間違いはありません。
そして、その「関わり」を本当に大切にしていた事実は変わりません。

その「因縁」が、今の人生、これからの人生の土台となっていることには疑う余地がありません。
そんな、求めてきた「因縁」を考えれば考えるほど、
その人を信頼していた事を後悔する余地などないことに気づくのですね。
信頼できて、良かった。
信頼してもらえていた時間があって、良かった。
そんな風にも思えるわけですね。

「一切法は、因縁生なり」
この視点で人生を見つめることができるかどうかが、無常の世界の中で悔いなき日々を過ごせるかどうかの鍵だと言えるでしょう。