「ゴジラ」を前に、人間は…
「驚異」を目の当たりにした時に、その人の真価が現れると言われますね。
人間には、他人に対して良く見せようという性質がありますから、基本的に「いい格好」をします。
優しそうな人柄
頼りがいありそうな人柄
責任感のある人柄
思慮深そうな人柄
人にとって「人間関係」は一番といってもいい関心事で、重要視しますから、
「他人に自分をどう見せるか」はとても重要事項です。
それも、
対職場の上司
対職場の同僚
対友人
対家族
それぞれに応じた姿を見せているはずです。
当たり前ですよね。
家族に対する振る舞いと職場の上司に対する振る舞いが同じであるはずがないですし、同じだったらちょっと問題な気もします。
じゃあ、様々な場面、場面で色んな「顔」を見せている「私」はどんな正体なのだろうか。
場面、場面で使い分ける「仮面」を外した私の「素顔」はどんなものだろうか。
そういうことを考えることはあるでしょうか。
そのヒントになるのが「驚異」を前にした時の私の姿です。
平穏な日常を送っている間は中々ないかもしれないですね。
だけど、たとえば仕事中に来客したお客さんが、ものすごく怖いクレーマーで、凄い剣幕で怒鳴り散らしている。
そんな場面に出会った時に、その場にいる社員がどういう行動をとるか、
そんな時はわりと、その人の素の人柄が出るかもしれませんね。
「誰か、なんとかしてくれよ…」
と、極力自分は責任を負わないように、批判の矢面に立たないように逃げ腰になるのか。
それとも自分の責任の元に
「ここで私はどういう行動をとるべきか」
を考えて、責任を負うことも覚悟で、批判の矢面に立つことも覚悟で、やるべき行動を起こせるか。
その人の人間性がそういう時には露わになるのかもしれません。
そう考えると、「映画」というのは、日常とはかけ離れた「驚異」が人々に襲いかかってくる様がよく描かれます。
そして、その「驚異」を前にした様々な人間の姿が描かれます。
その「人間」たちをどう描くか、というところに、まさにその作成者の人間観が現れますね。
そういうテーマとして非常に分かりやすいなと思った映画が『シン・ゴジラ』でした。
これは日本政府の政治家たちが「ゴジラ」という不明巨大生物の来襲にどう対応するかが生々しく描かれている映画で、とても話題を呼びましたね。
私も遅ればせながら、最近観ました。
そこでまた、実に様々な人間像が描かれていて、とても見応えがありました。
やっぱり分かりやすいのは、
「自分の立場や体裁を守ることを第一に考えて行動する人間」
と
「保身を度外視して、目の前の驚異に対して「何をすべきか」だけを考えて行動する人間」
この二極化ですね。
「人間の弱さ」に注目すれば、「保身の人」となるのが普通なのかなと思いますね。
自分の能力の許容範囲と思える事態に対してならば「然るべき行動を」という思考を働かせることもできるでしょう。
しかし、許容範囲を遥かに超えた、というか全く未知の危機に遭遇して、
その驚異に対して自分の責任のもとに「行動」を起こせる人はやっぱり少ないと思います。
「保身」に陥る瀬戸際で…
本性は、自分を守りたい、そして自分の家族を守りたい。
普段、どれだけ「社会の為」「国民の為」「人類の未来の為」と、他人への助けに尽くす行動を示していても
自分の許容範囲を超えるとしか思えない驚異を前にすると、保身の本性が露わになってしまいます。
人間の「保身第一」「御身大切」となってしまう本性を仏教では「我利我利(がりがり)」と言います。
文字通り「我の利、我の利」ということで「私の利益を、私がよければ…」と、自分が得すること、自分が助かること、そればかりを考えてしまう心です。
「自分さえ助かればいい」「自分さえよければいい」
「その為なら他人なんてどうなってもいい」
そんな心を「我利我利」と仏教では言われます。
もちろん、そんな心をあからさまに表に出したらみんなに嫌われてしまいますから、日常的には「我利我利」丸出しの行動は普通はしません。
ある意味それも、自分を守るために必要なことですね。
また、誰も自分の奥底にそんな本性を潜ませているとは思いたくありませんから、見ないようにしているのが普通でしょう。
だから、この本性を意識しているかしていないかには相当の個人差はあります。
だけど、内面を深く見つめていて、
「結局のところは、本心は自分が一番可愛いんだと思う」
と感じている人もいますね。
人間の誰もが心の奥底に潜ませている「本性」として教えられるのがこの「我利我利」です。
その本性があからさまに現れてしまうのが、私達が「追い詰められた時」です。
余裕のある時は、そんな本性が出ないように、他人への気遣い、時には自己を犠牲にしてでも周りのため、という行動をすることができます。
それが、追い詰められた余裕がなくなった時に、私の本性が露わに出てきてしまいます。
問題はその「本性」のままに「我利我利」の行動をしてしまいたくなる衝動に、打ち克てるかどうか、ということです。
私達が困ったことや驚異に直面した時に、真っ先に始まるのがこの「我利我利」の本性との戦いです。
驚異そのものとの戦いではありません。
まず私に起きるのはこの「我利我利」との戦いです。
そこで打ち克てなければ、驚異に立ち向かうことすらもできません。
「誰か、なんとかしてくれないか…」
という他人まかせ状態、責任逃れ状態となり、自分に害が及ばないことばかりを考え、そういう行動しかできなくなってしまいます。
驚異が規格外であれば、「我利我利」の本性に支配されてしまい、保身第一の行動に出てしまうのが人間の弱さですから。
その中でもし、自分の責任の元に驚異に立ち向かう行動に移せるようになったなら…
その時点で、すでに大きな勝利を収めているといってもいいでしょう。
それほど大変なことであり、大きなことです。
我利我利の本性との戦い
これが、人間にとって最大の戦いとも言えるでしょう。
「人間の強さ」って何だろう
映画『シンゴジラ』では、「不明巨大生物・ゴジラの来襲」という規格外も規格外の驚異を目の前にして、自分の責任の元に精一杯行動する人間の姿も描かれていました。
それぞれが自分の知識、能力、人脈、あらゆる手段を駆使して未知の驚異に力に立ち向かい、骨身惜しんで努力しつづける人たちがいました。
そして、それら「人間の努力・行動」によって、ついにゴジラに打ち勝ってしまうという結果まで勝ち取るのですね。
世界中が、
「こんな怪物はもう、核兵器で消滅させる他に手段はない」
と思い、東京へ核兵器を打ち込むという日本にとっては最悪の手段を行使せざるを得ないと思っていた。
そんな中にあって、彼らはそのような深刻極まる犠牲・遺恨を残すことなく、ゴジラに打ち勝つ方法を模索し、その答えにたどりつき、それを実行して成果に至ったのでした。
印象的だったのは、「必ず打つ手はある」そして「必ず解決できる」と、信じていたことでした。
解決までたどりついたチームの誰も
「もうダメだ…」
とは言わなかったのですね。
「必ず打つ手はある」と信じることは本当に大切です。
これが信じられなくなるところから、「我利我利」の心に支配されて、ただ自分を守るべく逃げ惑う行動しかできなくなってしまいます。
仏教では、「自業自得」と言われ、
自分の行い(業)が、自分に必ず結果をもたらす
と教えられています。
つまり、得たい結果を実現させる「行動」が必ずあるということです。
「行動」と「結果」は100%対応していて、
自分の「行動」は必ず、自分に「結果」をもたらすというのが自業自得です。
ということは、逆に得たい「結果」に対しては、必ずそれを実現させる「行動」があるということ。
この自業自得の道理をどれだけ信じられるかが、「必ず打つ手はある」と、未知の驚異を目の前にしても信じ続けられるかに直結するのです。
自業自得の道理を深く理解して、「どんな問題にも必ず打つ手はある。」という確信を持つこと。
それを見つけるまで、考え続け、行動し続けられること。
これができれば、あらゆる問題を解決できるということですね。
それこそが、人間の力であり希望だと言えるでしょう。
「人間の弱さ」と「人間の力」
それは、仏教で言うなら「我利我利の本性」と「自業自得の道理を信じ、行動する力」ということに当たります。
どちらも理解していることが大切ですね。
自分の本性、弱さも理解している。
自業自得の道理も理解し、確信している。
この両面から、自分に打ち克って、「解決」という答えに至り、実現できる生き方を目指したいものです。