人間が最も「人間らしく」なる瞬間は…〜大切なものを見極めるための原点〜

最も「人間らしい」瞬間とは

ニュース速報などで、よく知った名前が挙げられて、
「今朝、逝去されました」
などと報じられると、ドキッとします。

「え…あの人…亡くなったの…!?」
よく親しみを感じていた人であればあるだけ、そのショックは大きいですよね。

まして、高校時代の友人だったり、仕事の同僚だったりして、
直接関わりのあった人が、
「急に亡くなった」
なんて知らせを受けた時は、なおショックを受けます。
本当に「信じられないような」「現実味のないような」知らせのように感じるのですね。
「まさか…!?」
という心の叫びがにわかに起きてきます。

「人が亡くなる」という出来事は、私達の一生の中で、どうしても避けられないものです。
しかし、その出来事に立ち会った時にハタと立ち止まって、驚き、ショックを受けるのは、
人間の非常に人間らしい姿と言えるかもしれません。
なぜならその姿は、自己と向き合う姿でもあるからです。

仏教では、人間の死をよく「無常」と言われます。
「無常」とは「常が無い」ということで、変わらずに続くものは、何一つ無いということです。
「諸行無常」という言葉は有名ですが、「諸行」は、「あらゆるもの」ということなので、
この世の一切のものが、全て移り変わってゆき、やがて滅んでゆく、
ということを教えているのが「無常」という教えです。
そういう意味では「無常」は「人間の死」に限ったことでは無いのですが、
そんな様々な「無常」の中でも、仏教で特に重視されるのは、私達の「命」の無常なのです。

それは、仏教という教えがあくまで「自己」に徹底的に目を向けさせる教えですから、
「無常」を観るということも、その本質は己を観ることであり、己の無常の実態をごまかさずにみつめることです。
そんなわけで「無常」といったら、人間の「死」を指す場合が多いのですね。

他人の無常に出会う時
それは、その他人の無常を通して自分の無常の観る瞬間でもあり、
己を見つめるとても大切な時間でもあります。
それは人間が最も人間らしくなる瞬間と言えるかもしれません。

日常的になされる「最も巧妙な嘘」

どうして、「他人の無常」を前に私達はショックを受けるのでしょうか。
もちろん、喪失感や寂しさという感情もあるでしょう。
ですが、それだけではありません。

「他人の無常」、とりわけ「縁のある他人の無常」を目の当たりにした時というのは、
ずっとごまかし続けている「現実」が、一時的にでも暴かれてしまう瞬間でもあるのですね。
「ずっとごまかし続けている現実」とは何か。
それこそが、「自分の命の無常」です。
本心を言えば、これ程に「ごまかしたい」現実はないのですね。

…と言っても、意識の上では「ごまかしている」などとは思ってはいないと思います。
「人間の命には、必ず終わりがあるなんて、ごまかす余地もなく明らかなことで、よく分かっていることじゃないか。」
そう思われるかもしれません。
しかしこれぞ、最大の「ごまかし」なのですね。

本当に巧妙な「ごまかし」は、自分で「ごまかしている」という意識を持たないことです。
「ああ、自分はごまかしているなあ…」
なんて思いながらの「ごまかし」なんて、いとも簡単に暴かれてしまいます。
「嘘をついていながら、ついている本人にその自覚がない。」
これが、もっともやっかいな嘘であり、看破することが困難な嘘なのですね。
なにせ本人が「本当のことを言っている」と思い込んでいるのですから、
これはボロが出にくいでしょう。
「そんな巧妙極まる『ごまかし』をもって、「自分の命の無常」から目をそらし続けているのが人間。」
これが、仏教における人間観です。

だけど考えてみたら、
「自分の命は限りがある。」
「自分の未来に必ず『死ぬ日』が訪れる。」
こんなこと、明らか過ぎるほど明らかなことです。
そんなものをどうやってごまかすのか、と思うほどですよね。

こんな明らかな現実に対して、
「いやいや、自分の命は永遠である!」
「自分の未来に『死ぬ日』など永遠にやってこない!」
こんな大嘘をついてもどうしようもありません。
そんな、どストレートな大嘘では、誰もごまかされません。
だから、
「自分の命は限りがある。」「自分の未来に必ず『死ぬ日』が訪れる。」
これを真っ向から否定したりはしません。
その代わり、
「自分の命は限りがある…けど、明日はまだ大丈夫。」
「自分の未来に必ず『死ぬ日』が訪れる…けど、それは明日ではない。」
こういう「嘘」をつくのですね。

これだって「嘘」なのですね。
「明日」に自分の命の終わりが訪れないなんて、誰もそんなことは言えません。
どんなに若くても、どんなに健康でも、どんなに医療の準備が万全でも、どんな物理的な安全を確保しても、
それでも「明日、自分の命の終わりが来ない」という保証にはなり得ません。
「誰もが明日、命の終わりが来てもおかしくない」
この点においてのみ、人類は平等と言えます。
そんなシビアな現実が一人一人にあります。
「明日は大丈夫」
「明日に終わりは訪れない」
これは、「無常」の真理を前にしたら、紛れもなく「嘘」なのですね。
だけど、誰もが信じてしまう嘘です。
「まあ、明日は滅多なことはないよね、きっと…」
そう「なんとなく」思うことにしています。
これぞ、人間の巧妙な「ごまかし」なのですね。

そんな私達の目の前に、この「嘘」を完全否定する事実を突きつけられる時があります。
それが「他人の無常」を目の当たりにした時であり、
「今日、あの人が死んだ…!」という衝撃の知らせが届いた時です。

「何が大切で、何が大切でないか」を見極める土台

よく知った人の「無常」に立ち会う事は、どうにも避けがたい悲しい現実です。
特に、自分にとって大切な人の「無常」は、途方もない喪失感に襲われます。
ただ、訪れるのは「喪失感」だけではありません。
とてつもない衝撃が襲う瞬間でもあります。

それは、紛れもなく自分が向かう行く先を突きつけられる衝撃であり、
「自分にはまだまだ、命の無常が訪れることはあるまい」
という自分へのごまかしが暴かれて、無常の命を抱えて生きている「自己」を思い知らされる瞬間なのですね。
日頃は巧妙な嘘でごまかして、全く見ようとしていない「人間の本当の姿」に、
この時だけは目を向けさせられて、自分の人生を問い直す機会が得られます。
それは、「他人の無常」という縁が与えてくれた、かけがえのない機会と言えます。

私達が一日「生きる」ということは、「限り有る命」を一日分消費して、
その「命」と引き換えに何かを求めているという事でもあります。
一日ゲームに没頭してスコアを伸ばしたということは、
自分の一日分の「命」と引き換えに、「スコアを伸ばした」満足感を手に入れたという事です。
一日仕事をして、その日銭を稼いだということは、
限り有る「命」の一日分と引き換えに、そのお金を手にしたという事です。

「自分の限り有る命」
という実態を見つめれば見つめるほど、私達は「何と引き換えならば後悔がないか」を深く考えます。
自分の財布の中のお金が限られている事を知っているからこそ、
本当に必要なものかどうかを考えて買い物をするのであって、
もしお金が無限にあると思っていたら、そんなことを考える余地もなく、ただ感情にまかせて、
「あれも、これも…」と何にでも消費してしまいます。

それと同じく、自分の命が無限であるかのように考えていると、ただ感情にまかせて、
「あれもやりたい、これもやりたい、これも面白そう…」
それが本当に自分が心から求めているものかどうかを考える余地もなく、「命」をどんどん消費してしまいます。
そうやって、「飛ぶように」
一日が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎて、一生は瞬く間に過ぎ去ってしまいます。
これは、自分にとって何が大切で何が大切でないかを見極める視点を失っている、危うい状態なのかもしれません。

「自分にとって何が大切か」
難しい問題であり、難しい判断ですが、その判断のための最も大切な土台となるのが、
「自分の命が有限であることを忘れない」という事です。
「他人の無常」は、その最も大切な原点に立ち返らせてくれます。

テレビを見て知らされる「無常」も、
風の便りで知らされる「無常」も、
目の前で起きて衝撃を与える「無常」も、
それはそのまま「自分の無常」を教えてくれるメッセージなのですね。

そのメッセージをどれだけ大切に受け止めるかどうかが、後悔ない人生へと直結することでしょう。