「大切なことを見落としている気がする…」の仕組み〜「無常」ベースの思考にシフト〜

あの人の心の異変はいつから…?

人間関係に突如「異変」を感じる瞬間ってありますよね。

それまで仲が良かった友人が急によそよそしい態度になったり
自分を信頼してくれていると思っていた人が急に自分と距離を取るようになったり
好意を寄せてくれていると思っていた相手が、突然自分を軽蔑の目で見始めたり

「あれ…?」
そのあまりの変貌ぶりに、
なんで…?
どうして…?
信じられない思いにかられてしまいます。

自分が大切にしてきたもの、支えとしてきたものが、
突然に異変を起こす時の精神的なダメージは、本当に大きいのですね。
言いようのない喪失感と情けなさで心は一杯になり、
それでも前を向いて歩いていこうとするも、しばらくその痛みは引きずってしまいます。

こういう時に思うのは、
「この異変はいつから起きていたのかな…?」
ということですね。

突然に、その異変が起きたように私達は感じるのですが、
本当はその「突然」よりもずっと前から、すでに変化は起きていたりするのですね。
特に「人の心」は、目に見えません。
大人同士だったらなおさら、表情にさえ出さないこともできますから、ますます分かりません。
自分が全然気づいていない時から「異変」が始まっていても決して不思議ではありません。

どんなきっかけが、どんな方向に人の心を動かすか、わかったものではありません。
自分の心を観察すればよく分かることです。
「あれ?自分はどうしてこんなことを考え始めたのかな?」
と、よく分からずにとりとめのない思考が始まったりしますよね。
「縁」さえあれば、どんなことを考え始めるともしれない。
どんな風にでも動き出すものが「心」です。

そして一度、あるベクトルへ心が動き始めると、あらゆるきっかけがその思考を助長してゆくものです。
「この人、なんか信用できないかも…」
相手にそんな心が一度芽生えて、その方向へと心が動き始めると、
自分の何気ない行動が、うっかりとその不信を助長させてしまい、状況は悪い方向へと進み続けてゆく。
だけどそんなことに全く気づけずにいるのですね。
ある時にその変化がある臨界点を突破して、始めて「表面化」し、その時初めて相手の心の変化に気がついて驚く。
「突然に」起きた変化の実態は、わりとこんなことなのかもしれません。

「大切なこと」を見落とす理由は

人の心も、その他のどんなことも、全ては移り変わってゆく
ということを仏教では「諸行無常」と言われます。

しみじみと「無常」を感じる場面がありますね。

ついこないだまで綺麗に咲き誇っていた桜があっという間に散ってしまって、
もう次の季節へ移り変わろうとしている…

こういう「無常」は目に見えてリアルタイムで感じられる「無常」と言えます。

こんな情緒のある変化も「無常」なら、
地震、台風、噴火、事故などのショッキングな出来事もまた「無常」です。
そんな事件がニュースで報道されているのを見ると、「世の無常」を感じます。

私達は日頃から「無常」の出来事を見たり聞いたりしているので、
この「諸行無常」という言葉はそんなに物珍しいものでもないですよね。

「仏教は、世の無常を切々と教えているのですよ」
と言われても、そんなに凄いことが言われている感じはしないかもしれません。

ただ、私達が「無常」と聞いて想像していることと、仏教で「諸行は無常」と教えられていることとは、
その内容に大きな隔たりがあるのですね。

桜が散っていく
季節が移り変わってゆく
災害で大切なものが壊されていく

などの「無常」の出来事の背景にある、
私達が気にも留めていないところで確実に存在する「無常」について、
仏教は驚くほど詳しく説き明かしています。

「目に見えるものばかりに気を取られて、目に見えない所で起こっていることに気づかない」
これが、私達人間の常です。

マスコミで派手に取り上げられている事件やスキャンダルに私達が目を奪われている間に、
その裏で、この世の中でどんな動きがあるのか…

身近な人が、明るく笑顔で振る舞って、楽しそうな話題を振ってくれているのだけど、
自分の目の届かないところで、その人に何が起こっているのか…

私達はどうしても「大切なものを見落としてしまう」というリスクを常に抱えています。
えてして大切なことは「目に見えないところ」に潜んでいるからなのですね。
「目にみえるもの」に気を取られて、そのことにどうしても気づけない。

だからこそ、「私達が日頃は気に留めていないところ」に目を向ける視点は、非常に大切と言えます。
「無常」については、なおさら言えることです。
私達が気づいていないところで起きている無常とはどんなものか。
これを知ることが、「無常」という教えを学ぶことの価値だと言えます。

仏教で「諸行無常」と言われている「諸行」というのは、「すべてのもの」ということです。
「すべてのもの」ということは、「例外がない」ということで、
私達が思いもよらないものも含めて全て、ということです。

「すべてのものは」無常なのですよ、
という仏教のメッセージは、暗に、私達が見落としている大切な「無常」がどれほどあるか知れない
ということを訴えているのですね。

誰もが陥る「逆立ち」の視点

靴下に穴があいていることに気づく瞬間って、どんな時でしょうか。
個人差あるかもしれませんが、
「だいぶすり減ってきて、そろそろ危ないな…」
という段階で気付ける人は、身だしなみに、足元にまで気を配っている、しっかりした人ですね。

私も、「靴下に穴」で恥ずかしい思いをした経験は結構あるので、時折、靴下を履いたときにチェックする習慣は
そこそこあります。

しかし、意図的にやらなければ気付けないですよね。
足の裏なんて、普段は目に入らない部分です。
靴を履いてしまえばますます見えません。
だから、そこで起きている「無常」を見落としがちです。

考えてみれば、立っている間は全体重が乗っている部分が靴下です。
まして歩いたり走ったりすれば、その状態で摩擦が起こりますから、相当の物理的エネルギーが、常にかかっていますよね。
ものすごく激しい「無常」が、ここでは進んでいるわけです。
だけど、そういう所に限って、目に見えない箇所なのですね。
だから、「気付けば穴が」なんてことになってしまいます。

目に見えない所にこそ、激しい無常が存在する。
このことを見落とすと、とてつもない後悔を残すことになりかねないのですね。
それは「靴下に穴」ぐらいでは到底すみません。

最初に「人の心」の変化についてお話しましたが、まさにこれは、典型的な「目に見えない無常」です。
「行動」は、いくらでもごまかせます。
「言葉」も、いくらでもごまかせます。
「表情」だって、うまくすればいくらでも作れます。
器用、不器用の差こそあれ、「本心」を覆い隠すには十分な「フェイク」を、ほとんど誰もが使えてしまうのが人間なのかもしれません。
そんな「フェイク」と矛盾する何かしらのサイン行動や言葉の端々、あるいは表情の一端にでも見つけられれば、
大切なことに気付けるはずなのですね。

具体的に、「目に見えない無常」に気付ける「目」を養うには、時間がかかることでしょう。
正直、私もそんなに自信はありません。
まだまだ、努力していかなきゃいけないことだと思います。

だけど今すぐ出来ることがあります。
それは、
「目に見えないところに、間違いなく変化が起きている」
と理解することです。

「顛倒の妄念」という仏教の言葉があります。
「顛倒」とは「さかさま」ということで、「妄念」とは「迷いの心」ということです。
本当とは逆のことをどうしても考えてしまう
そんな「迷い」「惑い」が人間の心の中にあるということを指摘している言葉です。

「本当のこと」というのは、先程からお話している「無常」です。
「惑い」というのは、それに反したことを考えてしまうということですから、
どうしても私達は「常」と見てしまうということです。

本当は変化し続けているのに、それも激しく移り変わっているのに、
「いまだ変わっていない」
私達の心はどうしても思ってしまう、ということです。

目に見えて変化していれば、さすがに「無常」は分かりますが、
気がついていない所に関しては、とりあえずは「変わっていないもの」と認識するのが「惑い」の心の性質なのですね。

「世の中のベースが「常」であり、安定して固定されて変わらない。
そこに時折、「変化」が起きて、私達はそれに驚く。」
確かにこれが本心からの思考なのかもしれません。

仏教ではそれを「顛倒している」と言われます。
それは、逆立ちをして世の中を眺めているのと同じだと。
全く逆のことを思って、その思考をベースとして生きてしまっていると。

本当は逆であるということに考えをシフトすることが必要だということです。
目に見えないもの、認識していないものを含めて、全てが「無常」で常に目に見えない「変化」が起きている。
時折気づく大きな「異変」は、ただその変化が目に見える程に表面化しただけだと。

「顛倒の妄念」である「常」をベースにして生きるのか、
それを是正して「無常」をベースにして生きるのか、
その変化によって物の見方も生き方も、全く変わってきます。
いや、変わってくるぐらいまで、よくよく無常をごまかさずに観よ、ということが、
「無常」を繰り返し懇切に教える仏教からのメッセージと言えるでしょう。

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