「こんな私なんかが…」の思いにがんじがらめの生き方を脱却するために〜「業不滅」と「無我」〜

「だけどこんな私が…」の思いがいつも枷になる

何かにチャレンジしようとした時に、

「だけど…こんな自分なんかが、なあ…」

という気持ちが沸いてきて、行動にブレーキがかかってしまうことがありますね。

「この人と仲良くなりたい」と思っても、
「私なんかが、おこがましいんじゃないか」っていう気持ちになったり、

「この仕事にチャレンジしてみたい」と思っても、
「こんな自分なんかが、図々しいかな…」と考えてしまったり、

「私には、こんなチャレンジする資格はないのでは…」
の思いは、色々な場面で心身に絡みついてがんじがらめとなり、
本当は行きたいところがあっても、本当は近づきたい人がいても、
希望がどんどん遠のいてしまうことがあるのですね。

「こんな、モテない私」
「こんな、取り柄のない私」
「こんな、つまらない人間の私」
「こんな、甲斐性のない私」
「こんな、気の利かない私」
そんな「固定した私」のイメージを、私達はいつから造っているのでしょうか。
人生のどこかの時点で、
「私って、こういう人間なんだ」
という強いイメージが造られた時から、
その「固定化された私」のイメージが、ずーっと、その先の自分の人生を支配してしまう事もあります。

仏教では、そのような「固定化された私」などは存在しないのだということを「無我」と教えられます。
古来より色々な宗教や哲学で信じられてきたような「魂」とか「アートマン」とか呼ばれるような、
固定した変わらない「私」という存在を、徹底して否定する「無我」という教えは仏教の大きな特徴です。

そんな「我」なるものをあるかのように思い、
自ら作り出した「我」のイメージに囚われて、がんじがらめになってしまう人間の「惑い」もまた、
仏教では人間の「妄念(もうねん)」として教えられています。

またそんな「惑い」から起きてくるのがいわゆる「差別的発想」なのですね。
「私は他人よりも劣った人間」だとか、
「私は他人よりもレベルの高い人間」だとか、
「魂のステージ」が、高いとか低いとか、
そんな「人間の根本的な差別化」を、自分にも他人にもしてしまう心が、
「我」を造り出してしまう所から起きてきます。

「無我」は「自己を忘れる」事ではなく…

先程も述べたように仏教では「無我」と言って、
ずっと変わらない魂のような「我」は存在しないと教えられます。

ただそうすると、
「自己を見つめる」などということは、ありのしないものを見つめようとする無意味な事なのか?
そんな疑問が出てくるかもしれません。
「自分を忘れろ」
「自分などというものを考えるな」
そういうことが「無我」の教えだと誤解されているフシもあるようです。

しかし「無我」とはあくまで、私達がイメージするような「固定した私」を否定したものであって、
「自己とは何か」
「私の実態はどんなものか」
という自己の追求そのものを否定したわけではありません。

それどころか、仏教は「法鏡」であると言われ、
「本当の私は如何なるものか」
を、映し出して見せてくれる鏡のような教えが仏教だとまで言われます。
徹底して自己を追求することは、仏教の勧める所なのですね。
ところが、「自己を見る」と聞けば、私達は「固定した魂」のようなものをすぐにイメージしてしまうため、
その誤ったイメージを否定されたのが「無我」という教えです。

ではその「法鏡」に映った「私」はどのような有様なのでしょうか。
固定した魂が存在しないと言うのですから、
「あなたの魂は何色です」
とか
「高貴なオーラが漂っています」
とか、
そんなものが映るわけでは、もちろんありません。
法鏡に映れるその姿は「暴流(ぼうる)の如し」と教えられます。

「暴流(ぼうる)」とは、激しい水の流れであり、「滝」のようなものです。
「滝」をイメージして欲しいのですが、

ぱっと見て目に焼き付けた「滝」のイメージは、まさに固定化された「滝」と言えるかもしれません。
だけど実際の「滝」は、今見ている一瞬前と、次の一瞬後とで、
滝を構成してる「水滴」は激しく入れ替わっていますよね。
次の瞬間、また次の瞬間に、新たな、新たな「水滴」が「滝」に加わり、そしてまた流れてゆきます。

一瞬たりとも「固定されている状態」などありえない。

そういうものが「滝」ですね。

そんな無数の「水滴」が絶え間なく加わってくるように、
私の生きている姿は、無数の「行い」の連続だと言えます。
家にいる時も、会社や学校にいる時も、どこかへ移動する最中も、
「食べたり」「飲んだり」「働いたり」「寝ていたり」「テレビを見ていたり」
「雑談したり」「悩み相談をしたり」「他人の噂話をしたり」
「あの人が好き」「この人が嫌い」「あれが気に入らない」などなど色んな思いに駆られたり。
体での行動も、口での発言も、心での思いも、次から次へとなされる「行い」として、絶えず現れ、
そんな絶え間ない「行い」の連続で私達の「生」は貫かれています。

仏教では、そういった「行い」のことを「業(ごう)」と言うのですが、
「業」は、その瞬間の「行い」のみを指すのではありません。
「行い」がなされた瞬間が過ぎ去って過去となった後にも、
その「業」は消えることなく、未来を生み出す「因(いん)」となって残り続けると教えられます。
これを「業因(ごういん)」とか「業種子(ごうしゅうじ)」とも言われます。
未来の運命を引き起こす種だということです。
この「業」が報いて、未来の運命を生み出すことを、
仏教では「自業自得」とか「因果応報」と言うのですね。

そんな「業」を無数に造り続けて、それが種となり次々と新たな新たな未来を生み出してゆく。
そんな「生」がひたすら続いているのが「私」の実態です。

そこに、「固定した魂」のような「私」が存在する余地は全くありません。
常に変化し続けて流れてゆく「暴流の如き私」
そんな「自己」の実態を誤りなく見つめることを仏教では教えているのですね。

「業は消えない」に対する危うい誤解

「業」が、決して消えることなく残る。
これを「業不滅(ごうふめつ)」と言いますが、
この「業不滅」の教えが、
「私が固定化されてしまう」事のように誤解されてしまうことがあるようです。

「無我」という仏教の教えをよく知らず、変わらない魂の存在を前提に「業が残る」と聞けば、
その魂自体が善くなったり悪くなったりして、いわゆる「魂のステージが上がる」とか「下がる」とか、
そんなことを言っているように思うのですね。
それはそのまま「魂のレベルの高い人」と「魂のレベルの低い人」とがいるかのような、
「魂の階層みたいなものがある」かのような人間の差別化に繋がりかねません。

これは、「ずっと変わらない魂が存在する」というイメージを持ったまま、
「業不滅」という教えをそんなところに取り入れてしまった結果、
「業」の教えが、まるで人間の「差別化」「固定化」を教えているかのように誤解されているのですね。

「無我」「業不滅」は、どちらの理解が欠けてもいけません。

「業が残る」
これは、「魂の差別化」でも「運命の固定化」でもありません。
暴流の如く流れ行く私の生命の中の、一滴の水のようなものが「業」ですから。
その「業」一つで何もかもが固定化されてしまうというものでは決してないのですね。

もちろん因果応報の道理ですから、やった行いの報いは、逃れられません。
だけどそれがそのまま、魂の固定化でもなければ運命の固定化でもありません。
あくまで、一つ一つの「業」がそれぞれ、その業に応じた報いを生み出してゆくということで、
魂の性質が固定化されるわけでもなければ、運命が固定化されるわけでもありません。

これから、どんな縁を選んで、どんな業を造ってゆくかで、未来はどれだけでも変わります。
大切なことは、この一瞬一瞬、何を思い、何を言い、どんな行動をするか、
このことに一点集中して、常にベストな行動を模索し続けることです。

「業不滅」の教えも「無我」の教えも、誤解なく理解すれば、
「こんな自分は、どうせ…」
というがんじがらめの生き様から脱却するための力強い土台となることでしょう。