「折れない心」が築かれる仕組みを解明すると〜苦悩の「因縁」〜

「折れない心が欲しい」という気持ちはつまり…

「精神的に、タフになりたい。」
「苦難を前にして折れない心を持ちたい。」
こういう願望はよく耳にしますが、
これは「苦しみ悩み災難がどっさり押し寄せてくる」ということを覚悟しての願望ですね。

「嫌なこと、辛いこと、苦しみ、悩みが、私にもう来ませんように…」
なんてことを願う気も失せるほどに、人生にはどうしても「辛くなること」「悲しくなること」「嫌になること」は、
次から次へと、絶えることなく押し寄せてくるものです。
だからもう、困難・苦難が、「来るか・来ないか」なんていう段階ではない。
避けられない苦しみの連続を「如何にして乗り越えて、たくましく生きてゆくか」が、私の現実問題というわけです。

そして、そんな苦難を乗り越えられるかどうかがまさに「心」次第だから、
「タフな心」「折れない心」を持ちたいという願いが出てくるのですね。

確かに、辛さ、怖さ、苦しさを乗り越えられるかどうかは「心」の問題です。
しかしそれ以前に、そんな「辛さ」も「怖さ」も「苦しさ」も、生み出している元はやっぱり「心」です。

「困った事になった…」
「嫌な事になってきたなあ…」
そういう事態をそもそも、自分の心が生み出しているということです。

苦しみや悩みが「やってくる」と言いますが、本当は「やってくる」のではなく、「自ら造り出してしまっている」のが本当なのですね。
そういう「種」が常に自分自身の中にあるからこそ、常に「苦悩」という結果がついて回るということです。
「向こうからやってくる」ようなものなら、やりようによっては避けて、避けて、人生を通っていくことも出来る余地はあります。
しかし、自分の中に「種」があって、常に自分の中から「生み出されている」のが苦悩であれば、どこへ逃れようともそこで「生み出して」しまうのだから避けようがありません。
そんな自分の中にある、種々の苦悩を生み出し続ける種が、仏教で教えられる「煩悩」です。
「煩悩」という字を見ただけで「煩わせ悩ませるモノ」という事だから、そういうものが他ならぬ自分の中にあると仏教では教えられていることが分かります。

「苦難に折れないこと」や「精神的なタフさ」というのは、
「やってくる苦難困難に打ち克ってゆく」
というより、
「苦悩の種である煩悩にどう向き合い、どう見つめてゆくか」
という話になるわけですね。

「苦しむ心」は「流せない心」

私達は、苦しみ悩みが「向こうからやってくる」というように感じてしまいます。
面倒な仕事が舞い込んできてしまったとか、
職場の誰々が嫌味を言ってくるとか、
借金の請求書が送られてきて困っているとか、
外界からの「歓迎し難い」刺激に、私達は苦悩しているという感覚です。

確かに、「快」も「不快」も、それを始まるきっかけはこの「五感」で何かを察知するのが始まりです。
そうでなければこの「意識」で何かを思い出したり、何かを理解してしまったりした時です。
たいていは「五感」の刺激がきっかけでしょう。
「仕事上のメール」を読んだ時とか、
「他人の声」を聞いた時とか、
「ポストに入っていた郵便物」を見た時とか、
そこから、
「うぅ…」「げぇっ…」
という心の悲鳴と共に「苦悩」が始まるというわけですね。
そんな「五感から取り入れる」という形を取るものだから、苦しい時は基本的に外から
「嫌なのが来た…」という感覚になるのも自然なことですね。

だけど、五感で取り入れるものは、あくまで「色」「音」「臭い」「味」「触感」であって、
これら5つそのものは「楽しみ」でも「苦しみ」でもないハズです。
それらを「幸せ」にするか「煩い」にするかは一人一人の「心」次第であって、
そしてこれらをことごとく「煩い」とさせてしまうものが「煩悩」なのですね。

「煩悩」は全部で108つあり、これら108つがことごとく、外界の刺激という刺激を「煩い」にしてしまいます。
「欲しい…」と求めてしまう「欲」
「許せない…」と苛立ちを引き起こす「怒り」
「あんな奴…」と妬ましさを沸かせる「愚痴」
これは「煩悩」の中でも代表的な3つですが、
これらに代表される「煩悩」で常に、アレに対して、コレに対して、いちいち煩います。

「どんなこともサラリと流せる心になれたら…」
というのも多くの人の願望の一つですが、どうしても「サラリ」と流させない心が煩悩です。
特に「欲望」が分かりやすいですね。
好きな食べ物の臭いが漂ってきたら、「サラリ」と流せないですよね。
好きな人の話し声が聞こえてきたら、「サラリ」とスルーなど出来ません。
好みのグッズの新作商品がスマホのウェブ上の画面に出てきたら、「サラリ」とスクロール出来ないですよね。
とにかくいちいち「執着」を起こします。
その「執着」が、状況によっては「怒り」を呼び、「妬み」を呼び、心は苦悩渦巻くカオスとなってゆきます。
それらが積み重なり、織り重なり、やがて巨大なストレスやイライラに苛まれる事にも発展します。

どうしても「サラリ」と流せない「煩悩」が、「苦悩」を生み出しているというのが実体なのですね。

「折れない心」とはつまり…

だから、「苦悩の連続」という現実そのものを無くさせることは難しいのですね。
何しろ私に満ち溢れている「煩悩」が何もかもを「煩い」とさせてしまっているのだから。

じゃあ、それに負けない「精神的タフさ」「折れない心」を、いかに育んでゆけるのか、
という当初の「願望」に、ここで立ち戻ってくるわけですね。

つまり、いちいち「煩う」ことは、仕方がない。
それを「止めよ」なんてことは、「煩悩」を無くせというようなもので、どだい無茶な話です。
だけど、
「一度起きた煩いを、いかに長引かせないか…」
こういう努力は出来るのですね。

そのために大切なことが、先程までお話した「構造」をよく理解しておくことです。
自分の身に起きる「苦悩」という現実の因縁をよく観ることが、いち早く「煩い」から冷静に立ち戻るために極めて有効です。
私達にとって辛いのは、
「一体、自分に何が起きているのかわからず、モヤモヤが深まり、煩いがどんどん深刻化してゆく」
ということです。
あるいは、
「きっかけとなった他人等の『対象』への憎悪がただ募りに募って、煩いが増大してゆく一方となることです」
いずれも「自己」が見えない状況であり、「因縁」が把握できていない状況です。

外界からの刺激はいわば「縁」と言うことができます。
より自分にとって「煩い」となりやすい刺激は、自分にとってはキツい「縁」と言えるでしょうが、
それを煩いとさせている「因」はあくまで自分の中にある煩悩です。
その「因」をもよくよく観つめて、
「そうか…私の中に、こんなにも煩いを引き起こす種があるのか…
ということをよく知ることで、煩いが和らぎ始めてゆくはずです。
「因を知る」というだけで、劇的に冷静になることができます。

「折れない心」というのは、鉄芯のようなガチガチに固いものというよりは、
「煩い」からいち早く「冷静」へと立ち戻ることのできる一種の「しなやか」な強さと言えるでしょう。
その「しなやかさ」は、「因縁を観る」という視点から生まれるのだから、
「因縁を観る」の実践こそが、自らを磨く事に直結するのですね。