誰よりも自分で自分を追い詰めてしまうのはなぜか〜「自業自得」の本来の意味〜

自分で自分を追い詰めてしまいがちなのは…

「それはね、あんたの自業自得だよ。」
これ…言われるとけっこうキツい言葉ですよね。

友達からいじめられたとか、
上司から叱られたとか、
病気にかかってしまったとか、
何かのトラブルに巻き込まれたとか、
色々なことで辛い目にあって、苦しみ、落ち込んでいる真っ最中に、
「自業自得だ」
なんて言葉をかけられたら、私達はどんな気持ちになるでしょうか。

特に、他人からひどい言葉をかけられたり、ひどいことをされ、
否定的扱いをされて、自尊心や自己肯定感が大きく損なわれている最中に、
「自業自得」
という言葉を投げかけられたなら、
「他人から否定されているのに、自分でも『自分が悪い』と思わなきゃいけないのかな…」
と、ますます自分を追い詰める形になってしまうかもしれません。

そんなことから
「あまり、自業自得って思わないほうがいいのでは?」
という意見もあるのですね。

この「自業自得」というのは仏教から来た言葉なのですが、一般的にも使われ、親しみのある言葉でもあります。
本当は、仏教の非常に重要な教えを、端的に一言で表された、とても重い意味を持つ言葉なのですね。
だけど普通は、その「自業自得」の背景にある深い教えについて知った上でこの言葉を使う人はほとんどなく、
「自分のせいでしょ」
「自分が悪いのでしょ」
というぐらいの意味で使われているのがほとんどです。
そんな大雑把な意味合いでこの「自業自得」の言葉を認識して使っていては、ただ「自己否定」に拍車をかける言葉になってしまいかねません。

日本でよく親しまれて、思想にも強い影響を及ぼしているこの言葉だからこそ、
その意味をもっと掘り下げて理解することが、実はとても大切なことです。

「業(ごう)」の意味をとことん理解したなら…

この「自業自得」を理解する上で、
「業(ごう)」とはどういうことかを詳しく知ることがとても大切です。
仏教で、どんなことを「業(ごう)」と言われていて、
この「業」が私にとってどんなモノであり、私の人生にどんな影響を与えるモノなのか、
それをとことん深く掘り下げて理解することが、「自業自得」の意味を本当に知るために極めて大切です。

「業」とは、私達が日々無数にやっている、様々な「行い」のことです。
「生きる」ということはまさに「行い」の連続であり、今朝起きてから今の今までどれほどの「行い」をしたか、
それだけを考えても実に多くの「行い」を積み重ねて今に至っています。
もちろんそれは、覚えているものもあれば、忘れてしまったものもあるでしょう。
「記憶出来ている行い」と「記憶出来ていない行い」と、どっちが多いと思いますか?

「いや、自分の事なのだから、自分の行いはちゃんと把握して記憶できている。」
と、本当に思うでしょうか。
確かに、同僚よりも友達よりも家族よりも、最も身近な「自分自身」という存在。
そして「自分自身の行い」ですから、他人のそれよりも把握しやすいようにも思えますが…
これが実は、逆なのですね。
「近いからこそ分からない」
そういう事を昔から「灯台下暗し」と言いますよね。
強い光を放つ「灯台」も、そのすぐ足元の部分は暗くてよく見えない。
ちょうどそのように、「自分自身の行い」は、そんな灯台の足元のように、見えていないことがどれほどあるか知れません。

だから、よほど注意深く自己を見つめてゆかなければ、自分の「業」も分かりませんし、「自業自得」も分かりません。
「自業自得」は、「なんとなく」で語れるものでは本来ないのですね。

ともかく、自分が認識している以上の、おびただしい「業」を私達は日々積み重ねているという事です。
その内容は実に様々なものです。

そんな無数の「行い」が、人生において持つ意味とはどんなものなのでしょうか?
「私が何かの『行い』をした」
この事が、私の人生にどんな意味を持つのか?
仏教では、「行い」は自分の人生において「原因」となるものだと説かれます。

私達がこの人生を「生きている」のは、ただ生きているのではなく、生きて「求めている」ものがあるはずです。
それは、「楽しみ」であったり「喜び」であったり「刺激」であったり「成長」であったり、様々ですが、
一言で言えば、「幸せな結果を求めている」と言うことができます。

その「結果」に対する「原因」となるものが「行い」であると、仏教では説かれるのですね。
だから行いのことを「業因(ごういん)」と言われます。
「行い(業)」は「原因」だということですね。

つまり、常に私達はおびただしい数の「原因」を造り続けているわけです。
一つ一つの「行い」が、必ず私の人生の結果の原因となるということです。
それを「業」とか「業因」と言われ、
「自業自得」とは、その自分の「行い(業)」が必ず、自分が受ける結果となって現れるということです。

「業」と「結果」の関係が分かればスーッとする

「自業自得」という言葉は、
私の人生における「行い」と「結果」との因果関係を説いたものです。
それは、自分の身に起きる出来事の「因果」を的確にとらえて、未来をより善いものにするための教えに他なりません。

決して他人を責めたり自分を責めたりするための言葉ではありません。
そういう意味では、他人に
「それは自業自得だよ」
などと言うのは、かなり危ういかもしれませんね。
ともすれば「責める」ようなニュアンスになりかねません。
仮に、他人に教え諭す意図で言ったとしても、その言葉だけを乱暴に投げかけるのでは同じ事です。

大事なことは、この「自業自得」の教えを物差しとして、自分の人生についての「因果」を的確に観るように努めることです。
今の結果に至るまでの、自分の「選択」と「行動」が的確に観ることが出来、
「そうか、自分のこのような『選択』と『行動』が、こういう状況を造り出しているのか」
ということを理解出来たとき、とてもスッキリするのですね。

「自分の『業』が、このように今の結果を生み出しているのか」
そんな因果をあきらかに観ることは、色々なモヤモヤした感情をスッキリと氷解させてくれるものです。
逆に、因果がハッキリしないことが辛くていつまでもモヤモヤした感情が晴れなくさせているわけです。
そんなモヤモヤを晴らして、自分の望む未来への展望を開けるための大切な教えが、「自業自得」の教えです。

「業」とはどんなもので、その「業」がどのような性質を持つもので、私の人生にどのような影響を及ぼすのか。
このことを日常の実践を通して、自らの「業」をよく見つめ、「自業自得」の道理の真実性を確かめていくことが大切です。
何か、特別に悪い出来事が起きた時だけが「自業自得」なのではありません。
ちょっとした私の「行い」にも、
ささいな私の人生の「結果」にも、
その背景には常に「自業自得」の道理があります。
日常のどんな場面でも、そこに「自業自得」の因果を観つめる努力が出来るのですね。

もちろん、複雑な因果が絡むことなので、あらゆる「自業自得」の因果を誤りなくとらえることは人間の頭ではとても叶いません。
けれど、自分の人生における因果を的確に観るように、努力することはできます。
そのためには、教えが、物差しが重要となります。
「自業自得」の教えを、
他人や自分を責める言葉としてではなく、
自らの明るい見るを開くための道しるべとして活かしたいものです。