「やろう」と決めていたことがなぜかやれないのは…〜「種蒔き」を阻む壁〜

「思い通りにならないもの」と言えば…

「平家物語」の第一巻に出てくる白河上皇の言葉で、

「加茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ我が心にかなわぬもの」

という言葉があります。
強大な権力をふるった白河上皇も、「この3つだけは思い通りにならない」と嘆いた言葉なのですね。

1つ目は、「加茂川の水」
これはご存知、京都の鴨川のことです。
大雨が降った時などは増水して洪水を引き起こすこともあったでしょう。
「自然災害」
これは、昔も今も人間の力ではどうにもならない、まさに「思い通りにならないもの」の代表と言えます。

2つ目は、「双六の賽」
サイコロですね。
イカサマをしない限り自在に操ることのできない、ていうか出来たらサイコロの意味がないですね。

3つ目は、「山法師」
これは比叡山の僧兵のことです。
当時のお寺は強かったのですね。
武装した僧侶「僧兵」たちが、「強訴」といって、自分たちの要求を朝廷へ突きつけることがたびたびあったそうです。
朝廷もそれを無下に拒むこともできず、ほとほと頭を悩ませていたそうです。

まあ、だいたいこういうのは3つ目がポイントだったりするのでしょうから、
「僧兵」すげーな…ていう話ですが。
やはり国の最高権力者といっても、「思い通りにならないこと」はあるのですね。

まして、私達庶民には、山ほどあって当然でしょう。
会社の「役職者」といっても、学校の「先生」といっても、
「部下が思い通りにならない」
「生徒が思い通りにならない」
と、嘆きの声で溢れています。

そう、何といっても思い通りにならないのが「人」なのですね。

「他人はコントロール出来ない」
これはよく言われることですね。

他人の行動は、あくまで「他人の心」から出てくるものですから、
「私の意思」などで、他人の行動を決められるものでは毛頭ないわけですね。

そして「他人の心」はもちろん目に見えないし、私には覗き見ることも叶いません。
今、隣の人が何を考えているか、どんな気持ちなのか…
そして次の瞬間、何を考え出すのか、どんな感情が起きてくるのか…
これがもし手に取るように分かるといいのですが、そんなわけにもいかないですね。

一緒にいる間でもそうなのに、別れ別れになってからの他人の行動は、なお分かりません。
家に帰ったらどんな気持ちになるのか。
明日になって朝起きたらどんな気持ちになって、どんな行動を起こし始めるのか。
一週間後に会うとして、その時にその人はどんな心になっているのか。
こんなことはもう、予測がつきません。

「人相手は、本当に難しい…」
そんなことを実感する場面は日常に溢れていますが、
その「人」には「自分」も含まれていることを忘れてはなりません。

「ごめん、全然違うことを考えてた」て結構あるんですね

私の行動を決めるのはもちろん、「私の心」です。
じゃあ、「私の心」ならば、自分の意思でコントロール出来るでしょうか?
と考えると、とんでもない、自分の「心」ほど制御し難いものはないのですね。

仏教で「諸行無常(しょぎょうむじょう)」という有名な言葉がありまして、
あらゆるもの(諸行)は、留まることなく移り変わってゆく(無常)
という事を教えられます。

着ている服も傷んでくるし、
使っているスマホも消耗して調子悪くなってくるし、
住んでいる家だって、何百年ももつわけではないですし、
この国だって、この地球だって、太陽だって、
いつまでも変わらないものなど、何一つない。
全ては、刻一刻と移り変わっている。

そんな、様々な「無常」の中でも特に際立って移り変わるのが「人の心」なのですね。
「あれ、なんでこんなこと考えてるのかな…?」
「どうして今、こんなことが思い浮かんでくるのかな…?」
なんて事、いくらでもありますよね。
「自分の心」なのに、自分で驚くぐらいに、激しく動き続けているのが実態なのですね。

「こういうことだけは、思わないように出来る」
何か一つでも、そんなことが出来る人はいるでしょうか。
「私は、こんなことだけは、『思いません』」
こんな約束を、誰が守ることができるでしょうか。
体で「やりません」でもなく、
口で「言いません」でもなく、
心で「思いません」というのは…こればっかりは本当にどうしようもありません。

どれだけ強く「思うまい」と決めても、その先からもう思えてくる…
「心」にだけは、歯止めがかけようがありません。
出来ることは、その「思っている事」を、
口に出さないようにすること。
体での行動に移さないようにすること。
それぐらいです。
まあそれさえも、実際にはかなり難しいですよね。

この激しく動き続ける私達の心の有様を仏教では「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」と言われます。
「熾盛」とは「燃え盛る」という事で、
「煩悩が常に、激しく燃え盛っている」
これが自分の「心」の姿なのですね。

「欲しいなあ…」と、自分を刺激するものに手を伸ばしてゆく「欲望」や、
「イラッ」と、思わず気に入らない相手の言動にザワつく「怒り」など、
様々な「煩悩」が、絶えず動き続けて留まることがありません。
なかなか厄介極まりないものですが、これが「自分」というものだという事を知ることがまず大切です。

「己の心」こそ、最も厄介で、制御困難な存在であると。

ただ「種を蒔くだけ」が、困難極まる

自分の未来を造るのは、
「神の計らい」でも、「先祖の思し召し」でも、「親」でも、「会社」でも、「国家」でもなくて、
「自分の行い」以外にはないと教えるのが仏教です。
「行い」のことを仏教では「業(ごう)」と言いまして、「自業自得(じごうじとく)」と、これを言われます。
自分が未来に受けてゆく結果(自得)は、自分の行い(自業)が生み出す、という事ですね。
これは、私達一人一人の未来の運命についての因果の道理を教えたものです。

「因果の道理」とは、原因と結果の法則のことです。
この「原因」と「結果」の法則をとことん考えるところに人間の優れた特徴があると言えるのですね。
現代の科学文明を進歩させて来たのも、人類が何百万年もかけてこの世の森羅万象の「原因」と「結果」の法則を、
試行錯誤を何度も何度も繰り返して見つけ出し続けてきたからこそです。

一度、「原因と結果の法則」を見つけ出したならば、人間はそれを活用し、応用し、様々な現象を意のままに操るようになってゆきました。
物事をコントロールするための根本はまさにこの「因果を把握する」事と言えるでしょう。
そうすると、「自分の未来の運命」についての因果を知ることは、
自らの意思で自分の未来を切り拓くためには、欠かせない事なのですね。

その「因果の道理」を端的に述べた言葉が、「自業自得」です。
「未来の運命」「結果」とするなら、その「原因」は、「自分の業(ごう)」であるという事です。
なので、すべての鍵を握るのは「業(行い)」だという事が分かります。

だから、業を造ることを仏教では「種を蒔く」とよく表現されます。
自分の未来を生みだす種こそが「行い」であり「業」だということですね。

そんな「種」となる「業(ごう)」に、
「身業(しんごう)」と言われる体の行い、
「口業(くごう)」と言われる口の行い、
「意業(いごう)」と言われる心の行い、
の三つがあると言われ、これを「三業(さんごう)」と言います。
その三業の中でも、最も重要なのが「意業(いごう)」であり、心で思うことです。

「心で思っている」
結局のところ、これがすべての行動の源泉なのですね。
どんな行い(業)も、「自分の心」からしか現れません。
どんな未来も、自分が種を蒔かなければ絶対に現れませんが、
種を蒔くときに、向き合わざるを得ないのが「自分の心」です。

「よし、自分の望む未来のためには、こんな『種』を蒔くことが必要だ」
と決心しても、その決心の次から「心」が別のことを思い始めたら、全然別の「種」を蒔いてしまいます。
「いやいや、いかんいかん、私が蒔かなければならない『種』はこれじゃないか」
と、再び心を固めても、またその次の瞬間から心が動き、別の事を思い始めると、また違った「種」を蒔いてしまいます。
けっこう私達って、こんなことばっかりしているのかもしれませんね。

「自分の心」を、なめてかかってはいけません。
本当に、どう動くとも知れないのが「自分の心」
この認識は、しっかり持っていなければなりません。
そして次の瞬間、別の事を思い始めたら最後、もう私の行動は、違う方向へと流れてゆきます。
「決意したことは、即実行」
これは、「自分の心が変わらないうちに…」という意味でも本当に大切なことです。
時間が経てば経つだけ、自分の心に「変化」の余地を許してしまいます。
ちょっとでも余地を与えると、どう動くともしれないのが「心」ですから、
その余地を与えないくらいの「即実行」スタンスが、着実な種まきを助けることでしょう。

「着実に種を蒔く」
これは、言うほど簡単ではないという事です。
自己との壮絶な戦いの末に積み重ねてゆけるものが「堅実な種まき」というものです。
よほどの創意工夫が必要となります。
他人の力を借りるのもよし、環境の力を借りるのもよし、好きなものというエサをぶらさげるのもよし。
自分が、着実に種を蒔けるように、蒔けるように…
涙ぐましい工夫が必要なことだってあります。

そんな堅実な歩みを積み重ねる第一歩が、「因果の道理」と「自己」とを知ることなのですね。

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