「共通の敵」に惑わされるまい、人生は「一人旅」だから

「もう嫌になるよな〜」と、言い合えるのが救い

「いや〜、しんどいっすよね〜」
「もう、大変っすよね、最近…」

ふと同僚と会話になれば、まあだいたい、こんな感じの内容になります。
「お互いに希望に満ちた未来を語り合う」
なんて展開には、まあまあ、なりません。

だけど、そんな自分の中にあるモヤモヤした感情をシェアし合うことで、安心感を覚えたり、
「自分だけじゃないんだよな」という、ちょっと救われるような気持ちになることができます。
誰かと感情をシェアし合うのは、やはり何か満たされるものがありますよね。

こないだ、友達と一緒に焼き鳥を食べながら、漫画『進撃の巨人』の話をえんえんとしてたのですが、
(もう最近は、コロナ感染のリスクでそんなこと出来ませんけど)
もう、何時間でも楽しく過ごせるわけですね。
一緒に、美味しいものを食べて、共通して興味ある話題に花を咲かせる時間ってのは、
「美味しい」とか「面白い」とか「好き」とか、
色んな感情を次から次へとシェアできるのですから、
その時間、ずーっと心は満たされっぱなしなのですね。

これは、ちょっと特別な時間で、「嬉しい」「楽しい」という感情のシェアが出来たわけですが、
普段の日常の中ではそんなに多くないかもしれません。

最初に挙げたような、どっちかというと「辛いなあ」「しんどいなあ」「不安だよなあ」
という感情をシェアし合うことの方が多いかも知れません。
何か特別なことをしないと、「嬉しい」「楽しい」はなかなか得られなくて、
基本的には、「しんどい」「めんどくさい」「辛い」「寂しい」「不安」が圧倒的に多い、日常。
だから、どうしてもネガティブな感情のシェアが、コミュニケーションの多くを占めてしまうのでしょう。

だけどそれはそれで、案外楽しかったりするものです。
一人でクヨクヨしているよりも、苦笑いしながらでも、心許せる人とそのネガティブを少しでもシェアできれば、まだ救われます。
ストレスが絶えない人生を生き抜くために、これは必要なことだと誰もが知っていて、お互い、暗黙の了解でそうしているのかもしれません。

これは必要なこと。
それは間違いないことでしょう。
けれどあくまでそれは、生き抜くための「手段」
このことだけは、忘れずにいたいのですね。

生きていればどうしても、
厄介事、面倒ごと、切ないこと、悲しいこと、
こういうことは絶えませんから、
心の中でモヤモヤしている負の思いは、生きている限り拭い切ることは出来ないでしょう。

だから、それをたった一人で抱えすぎないように、
お互い、共感しあって、「一人じゃない」と思えることは必要です。
だけど、「そこにしか救いがない」のでは、私達は前へ進むことはできません。

「生きる」ことはあくまで「一人旅」って、なぜ?

「生きる」ことをよく「旅」に譬えられることがあります。
「旅」といっても、現代の「旅行」のような、気晴らしや楽しみとしての旅ではありません。
今のような交通やリゾートが発達する前の時代の、昔話に出てくるような「旅」です。
それは、山あり、谷あり、悪天候あり、トラブルありで、
険しく辛い旅路を、否応でも進まなければならない旅。
そんな旅路を歩んでゆくようなものが、人生だということですね。

しかも仏教では、ただ「旅をしている」ということだけでなく、
それは「一人旅である」ことを、よく自覚せねばならないと教えられます。

「一人旅」であるということは、その旅に「連れ」はいないということです。
そんな「一人旅」をしたことは、あるでしょうか。
何処へゆくのか、どんな手段で行くのか、そろそろ休むのか、まだ歩み続けるのか…
そういった選択を、全て「自分一人」で決めて、実行し続けるのが一人旅です。
もちろん、行く先で誰かと出会うことはあります。
しばらくの間、楽しく話したりして一緒に過ごすこともあります。
ちょうど行き先が一緒で、しばらく同行するようなこともあるかもしれません。
だけど「一人旅」ですから、それはあくまで「しばらく」です。
時期が来ればやがて、「じゃあ、お元気で」と別れて、またそれぞれの道を歩み始めます。

私達がこの世に生まれてきたのは、たった独りで生まれてきた、と言えます。
「生まれた時から親がいたじゃないか」
とも言えるかもしれませんが、あくまで親とは、生まれた瞬間に「出会った」のですね。
「私」がどこからやってきたのか?
それは謎だとしても、たった独りでこの世に生まれてきた。
そして「最初の出会い」として、親との出会いがあったというわけです。
人生の始まりから、ずっとそばで寄り添って、支えて、育ててくれた親ですが、
その親との縁も「しばらく」であることは否定できません。

それは、親に限らず、兄弟でも、友達でも、恋人でも、子供でも…
どんな「縁」も、しばらくの間のことで、「永遠」というわけにはいかないのですね。

そして最後にこの世を去ってゆく時には、やはりたった独りで、旅立ってゆかなければなりません。

このことを仏教では
「独生独死、独去独来」
と説かれ
「独り生まれ、独り死に、独り去り、独り来る」
「たった独りで生まれてきて、たった独りで死んでゆく。
独りでやって来て、独りで去ってゆくのが人生だ」
と言われます。
「他者との関わり」というのは、「しばらくの縁」であり、
「生きる」とはあくまで、「一人旅」だということです。

どんなに頼れる親がいても、先生がいても、
自分の人生を決められるのは自分だけです。
他の誰も、決めてはくれません。
「アドバイス」ならしてくれるでしょう。
時には「説得」してくれることもあるでしょう。
場合によっては「強制」すらしてくる人もあるかもしれません。

「本当は、こういう生き方をしたかった。だけど、親が許してくれなかった。」
そんなこともあるかもしれませんが、
「アドバイス」も「説得」も「強制」も、それは私にとっての「縁」であり、
自分の未来を開く「行動」という「因」は、やはり自分にしか造れません。
「反対」という強烈な「縁」を前に、「断念する」という「因」を造ったのは、紛れもなく自分です。
誰かが変わりに私の人生の「因」を造ってくれるということは、絶対にありません。

これを仏教では「自業自得」と言います。
「業(ごう)」とは「行い」のことです。
進みたい道を「選択」し、「実行」するのは、私の「業(ごう)」に他なりません。
そんな「自分の業」が、未来に自分が得てゆく結果を生み出してゆく。
これが「自業自得」ということです。
だから、「私の選択や行動」だけが、私の人生の「因」となり「種」となるのですね。

「一人旅」とはまさにこの、一人ひとりの「自業自得」の道理に従って、
一人ひとりの選択と行動で未来が開かれてゆくという「人生」を表しています。

悔いなき人生にするには「一人旅」を忘れない事

しばらくの気の許せる人との「縁」に触れて、
辛いこと、寂しいこと、嫌なことを共感してもらうことは、確かに必要なことですが、
どんな気の許せる仲間でも、私の人生の「種まき」を代わりにやってはくれません。

私が、この人生にどんな種をまくのか
これだけは、自己責任と言わざるを得ません。

仲間との「感情のシェア」は、とても心地よい時間となり、癒やしとなります。
だけど同時に、危うさも否めません。
「辛い」「しんどい」という感情をシェアしているうちは、まだいいのですが、
やがて、「こんなに辛いのは、この会社のせい、あの上司のせいじゃないか…」
という「共通の敵」を見つけ出して、一緒にその「悪者」を攻撃し始める、なんてことになりがちなのですね。

「共通の敵」を見つけたときの、人間同士の結束の固さは、誰もが実感していることだと思います。
「あの先生が本当にイヤだ…」
「あの先輩、本当に嫌いだ…」
「あの上司が、本当にムカつく…」
なんて話を、お酒でも呑みながら一緒にしている時の盛り上がりようは、凄いですよね。

TwitterやFacebookなんかで、政治家の批判の発言がなされた時の、コメントの盛り上がりようも凄いですよね。
「首相のあの発言は何だ、あの態度は何だ、国民をなめている…!」
そんな発言がなされては、
「そうそう、私も同じ事を思ってた…!」
という感情のシェアがなされた時、気持ちは高ぶって、同じような感情をコメント欄にぶつけます。
ネット上での感情の連鎖は、もう誰にも止められない勢いとなってゆきます。

…だけど、たいていは時間ともに冷めて、忘れ去られてゆくのですね。
半年前に、首相のどんな言動が、どんな波紋を呼んだか、なんて思い出せるでしょうか?
聞けば、「ああ、そんなこともあったなあ…」てなものです。

「感情のシェア」によって造られた結束は、一時的なもので、
やがてはそんな感情も冷めて、またそれぞれが、自分の人生を歩みだすことでしょう。

だけど、その間に蒔いた種は、消えることはありません。

それは必ず、未来の結果を生み出します。

それが「自業自得」の鉄則です。

「共通の敵」に対する攻撃的な言動。
それは、
「本当に必要な意見を、考えた上で述べた」のか、
「雰囲気やムードに乗って、感情にまかせて言ってしまった」のか、
どちらの人もいるでしょう。
だけどいずれも、「自分の蒔いた種」に違いありません。
「いやちょっと雰囲気に乗せられちゃって…」
なんて言い訳は、「自業自得」の道理には通用しません。

「負の感情」は、たいてい何かしらの「悪者」を探し当てます。
仲間内で感情をシェアし合った時はなおさら、さらに高ぶった感情が「共通の敵たる悪者」を造り出します。
そして、勢いに任せて、攻め立てることでその感情を処理しようとします。
そういう時はたいてい、「自業自得」という道理はすっかり忘れていることでしょう。
「今の辛さを、過去に自分の蒔いたどんな種が生み出したのか」なんて考えもしませんし、
「今こうして、誰かを責めている種蒔きが、未来の人生にどんな結果をもたらすか」も頭にはないことでしょう。
ただ、今こうして感情をシェアし合っている「ひととき」に夢中になります。

だけどそれは「ひととき」です。
もしかしたらその「ひととき」の中で、とんでもない遺恨を残す種蒔きをしてしまうかもしれません。
だけど、その責任は誰もとってはくれません。
自分が未来に刈り取ってゆく他ありません。

だから、忘れてはなりません。
「人生は一人旅」だということを。
ひとときの感情のシェアは、あくまでひとときの安らぎで、
自分の人生の未来は、自分の選択と行動が生み出してゆくのですね。