「壁」にぶつかった時の突破口の見つけ方〜「壁」は因縁生〜

立ちはだかる「壁」の正体は

「壁にぶつかって」
「壁に阻まれて」
もう、一歩も前に進めない…

そんな状況に陥ると、本当に辛いですよね。

本当は、行きたいところがあるのに、手に入れたいものがあるのに、なりたいものがあるのに、
その行く手を阻む「壁」が現れて、にっちもさっちもいかない。

そんな「壁」とは具体的にどんなものでしょうか。
難しい試験に阻まれ、なかなかそれを乗り越えられないとか
家族の反対があって、望む道を進めないとか
能力不足で、とても仕事が務まらないとか
病気で、思うように活動ができないとか

自分が進みたい道を阻む障害は、色々な形で行く手を阻みます。
そしてついに、
「もう前へ進めない…」
という絶望感に陥ることもあります。

確かに、とても乗り越えられなさそうな「壁」を前にしては、もう一歩も進めなくもなります。
ただその「壁」というのは、そこに現れている一つの「結果」なのですね。
そして一切の結果には、そうさせた「因縁」があると仏教では教えられます。
何の因縁もなしにただ「壁」という固定した存在が目の前にあるのではない。
その「壁」となっている「因」と「縁」とが、必ずあるのだということです。

立ちはだかる壁は、紛れもなく「私の人生」に引き起こった一つの結果です。
そんな結果の「因」とは何か、そして「縁」とは何でしょうか。

仏教では、人生に現れる「結果」に対する「因」を、「業因(ごういん)」と言われます。
「業(ごう)」は仏教で「行い」のことをいいますので、
「行い」が、人生に引き起こる結果の「因」となっているのだということです。
私の人生の旅のゆく手をさえぎる「壁」の出現は、
別に「神」が何かの試練として与えているものでもないし、
他の何かが私に「与えた」ものでもありません。
自分の「行い(業因)」が、生み出しているのが、目の前に立ちはだかる「壁」なのですね。

つまり、ぶちあたる「壁」はすべて、自分が造り出しているものだ、ということです。
これは、自分の未来はすべて、自分の行いが生み出すという「自業自得」の仏教の教えなのですね。
自分の未来、自分の行く先が、たどり着きたいところへ向かう「道」となるか、行く手を阻む「壁」となるか、
いずれも自分の「行い(業)」が生み出しているものだということです。

認識に関係なく積み重ねた「業因」

「生きる」ということは、「行い(業)」の連続と言うことができます。
今日の一日を「生きた」という事は必ず、絶えず何かしらの「行い」の連続だったはずです。
今日、朝起きてから今の瞬間までの間、どんな行いをしてきたでしょうか。
それは具体的には、
その「口」でどんな発言をしてきたか、
その「体」でどんな行動をしてきたか、
家の中では、通勤もしくは通学の途中では、友達や知人との会話の中では、どうだったか…?
その時その時の行動があったはずですよね。

今後の人生の展開の「因」となる「行い」を、絶えず何かしら積み重ねて生きている私達ですが、
そんな「業因」を、一つ一つ確かめながら私達は生きているかというと、
「確かめている」どころか、ほとんど「無意識に」なされているのかもしれません。
自分の「行い」は、自分の生きる姿そのものといえますが、「自分の姿」ほど見落としやすいものはないのですね。
「目」が外向きについて、外ばかりに意識が向けられるように、
私達の心の「目」も、外へ外へと向けられるばかりで、
日頃から考えることは、仕事のこと、上司のこと、部下のこと、家族のこと、友達のこと、お金のこと…
それらに囲まれた「自分」が、どんな行いをしているのか
そんな「自分の姿」については、ついつい見落としがちです。

それでも、自分で見ていようが見ていまいが、間違いなく「行動」という「因」を私達は常に造り続けています。
それらの「因」より、私達の眼前には様々な「結果」が展開してゆきます。
「楽しいこと」「嬉しいこと」「辛いこと」「悲しいこと」などなど、悲喜こもごもの「結果」は常に、
自分自身が造った「業因」が引き起こしているものです。
そして時に、人生の行く手を阻む「壁」という結果もまた引き起こされます。

そんな衝撃的な「結果」を目の当たりにすると、とにかくその「結果」に驚き、時に絶望するのですが、
そんな時こそ、
「その結果は、私の業因が引き起こしているもの」
という視点を持つことが大切です。
インパクトの強い結果を前にした時ほど、ついその「結果」ばかりに目を奪われ、そこからただ感情的になってしまいます。
そして、そこに「因果」があることに目が向きません。
そんな「結果」を引き起こした「業因」があることを見落としてしまうのですね。
だからこそますます、「どうにもならない壁」としか見えなくなってしまいます。

「どうしてこの状況を『壁』だと思っているのだろうか?」
「どんな行いの積み重ねから、この『阻まれている感』が現れてしまっているのか?」

自分の行く手を「壁」としてしまっている「因」を、つぶさに観察してゆくと、思わぬ活路が開けてくるかもしれません。

「因縁」をみる所から突破口は開ける

「因縁が揃ってすべての結果は引き起こる」
その「因」と「縁」のうちの「因」について、先程までお話しました。
それは私達が常に積み重ねている「行い」のことで「業因(ごういん)」と呼ばれるものです。

そんな「業因」に、「縁」が加わると、私達の人生の眼前に「結果」が出現します。
「縁」とは、「自分」以外の人やら物やらとのさまざまな関わりのことです。
「環境」と言い換えてもいいですね。

日頃からどんな「行い」をしているか、という「因」
どんな環境に身を置くのか、という「縁」
その「因縁」が合わさったときに引き起こるのが、私達の人生の「結果」です。

ただ何の原因も無しに、目の前に結果が現れているのではなく、
必ずそれ相応の「因縁」があってのことなのですね。
ということは、「結果」は、因縁次第でどうにでも変わるということです。

「この会社の仕事が…」
「この資格取得のための試験が…」
「この人間関係が…」
「この病気が…」

それらが今、私の「壁」として立ちはだかり、にっちもさっちもいかない、一歩も前に進めない。
そんな状況が「結果」として現れているなら、
それは、私の「因縁」が「壁」を造り出している、ということです。

「壁」というものが元々あって、それが私の目の前に降って沸いた、なんてものではありません。
初めから「壁」があるのではない。
私の「因縁」が「壁」を造っているというのが、道理です。

「縁」としての「仕事」「資格試験」「人間関係」「病気」「学校」などがありますが、
それらが「壁」になるのか「道」になるのかは、私の「因」次第です。
日頃から何を思い、何を言い、どんな行動をしているか、
その「業因」によって、「結果」はどうにでも変わります。

「立ちはだかる壁」だと思っていたものは、実は「最短距離の道の真っ最中」になるかもしれません。

「今の自分の上司が自分の仕事を評価してくれない」
そんな時に、その「上司の存在」が、自分の行くてを阻む壁となります。
そんな上司がいなければ、そして自分の仕事を高く評価してくれる上司がいたならば、
自分は、主任に、係長に、そしてゆくゆくは課長に…
そんな想像をするかもしれません。

けれど、そうやって「会社での役職と給与が上がる」ことが、自分の本当の望みなのか?
もしそこに、仕事に対する確固たる自信が伴っていなかったら?
仕事以外の、自分の大事な事がしっかりと整っていないまま役職と責任ばかりが上がっていったら?
実は「人生そのもの」のバランスが大きく崩れてしまう結果になりはしないか?
そんな、トントン拍子にいわゆる「出世」することが、「人生そのもの」を見たときに、「本当の前進」と言えるのか?

改めて、自分が本当に進むべき道を見直したならば、
今の上司の存在が、すべてを阻む「壁」のように思っていたけれど、そうではなく、
自分が本当に進みたい方向に、着実に前進している「道」となってくれている縁だと気づくかもしれません。

固定した「壁」が人生にあるのではない。
自らの「因縁」が「壁」を造っている。
常に「因縁」に目を向けるように、
特に逆境と感じるときはなおさら、「因縁」に目を向けるように、
因果の道理に立脚した視点を持てば、どんな壁を前にしても突破してゆける人生が開けることでしょう。