キリなく押し寄せる不安に負けない体質の作り方〜この「自信」の価値は、桁違い〜

「決断ミス」のリスクを負うぐらいなら…

疲れていると、どうしても決断力が鈍ってしまい、判断ミスをする事も増えます。
特に「人相手」の場面では、他人の心の中を確かめる方法なんてないわけですから、
どんな言葉をかけるのが正解なのか、どんな行動が的確なのか、直感に頼る面が大きくなります。

五感から得られる情報を元に、瞬間的に言葉を選ぶ、行動を選択する。
この決断の精度はコンディションによって大きく左右されます。
疲労が溜まると、大事なことを見落としたり、思い違いをしたり、判断を誤る可能性は増えてしまいますね。

いずれにしても、100%正しい決断なんて、出来ません。
だから、自分の責任の元に決断をするということは、常にリスクを伴います。
「決断をする」ということは、そのまま、結果に対して自分が責任を持つことの意思表明でもあります。
すると、必ずしも正しい決断が出来るとは限らない以上、判断ミスをして、マズい結果が自分の責任になってしまう事もあります。
だから不安なのですね。
だから、出来れば決断なんてしたくないのです。

「成り行きにまかせて行動しました」
「あの人が決めた通りにしました」

なるべくそういう形にしておきたい。
そんな気持ちは誰にでもあるのかもしれません。

会社で、みんなで仕事をしている時。
サークルなどのコミュニティで、話し合いをしている時。
友達同士のライングループで、何かを決めようと意見を出し合っている時。

そんな他人と一緒の場面ならなおさら、他の人を巻き込んでの「決断」をこの私がするなんてとんでもない、となってしまいます。

100%正しい決断なんて、誰もできない。
だけど、決断をしたら、決断した人がその結果に責任を持たなければならない。

「そんなの、決断をするだけ損」
「誰かが決めてくれるのなら、私は「ただの協力者」のスタンスを貫こう」
ついついそんな気持ちになってしまいます。

だけど、そういう場面にこそ、
「自分の責任の元に決断して行動してみる」
これをやれたならば、実はとても大きな収穫があることに気づくでしょう。

大ボケの決断の中にも見いだせる「収穫」

つい最近のことなんですけど、
仕事中に、パソコン上の「ある操作」が出来ないことに気づきました。
パソコン上のある画面に「色をつけての塗りつぶし」しようとしても、なぜか出来ない。
「あれ…?どうして、塗りつぶしできないの?」
これは、パソコンのシステム不具合が起きているのではないかと察知しました。

「だけど、もしかしたら自分の席の端末機だけの不具合なのかもしれない」
そう思って、隣の席の同僚に、同じ操作が出来るかどうか試してもらったら、やはり同様に、出来ない。
「やっぱりこれは、システム不具合でこの操作が出来なくなっているに違いない」
そう判断して、システム上の不具合対策の担当の方(上司に当たる人なのですが)に、この不具合を伝えて、対応をお願いしました。
私の説明を聞いたその方も、
「分かりました」と、対応に着手してくれました。

ところがしばらく経って、気づいたのでした。
「あれ…ていうか、この画面での「塗りつぶし」操作って、そもそもシステム上、出来ないのでは…!?」
そう、もともと「塗りつぶし」の出来ない画面について、なぜか「出来るはず」と思い込んでいたのでした。
その思い込みを元に、「この操作が出来ないなんて、不具合に違いない」と判断して、行動に出たのでした。

すぐに担当の方に、自分の思い違いだったことを伝えて、無駄な仕事をさせてしまったことを深く詫びることになったのでした。

今思い出しても、恥ずかしい事をしてしまいました。
何の問題もない状況なのに、自分の思い違いから「これはシステム不具合だ」と騒ぎ始めて、余計な仕事を増やして部署に迷惑をかけてしまったのでした。

久しぶりにそんな大ボケをやらかしてしまったのですが…
まあ、さすがに、何の問題もない状況なのに勝手に問題をでっち上げて他人の仕事を増やしてしまうのは中々の痛々しい迷惑ぶりでしたが、
ある意味、思い込みから問題意識を感じてそこからすぐに行動するぐらいに、自分は「決断」が出来るんだと、
そこだけは、自信を持つことができたのですね。

「他人に迷惑をかけておきながら、何を開き直っているのか」
と思われるかもしれません。
もちろん迷惑は迷惑で、それは深く詫びて反省するべき事です。
ミスの元となる「思い込み」をしてしまった原因はありますので、そこは自分で改善すべき点に違いありません。

だけど一方で、「問題」と感じた事を放置せずに、決断の上、必要な行動に出た。
この事だけは、やはり私の中では「自信」となっています。
「問題を前にして、自分の責任の元に決断をして行動できる」
この事に対する「自信」が、実は「正しい判断力があるか否か」以上に大切な人生の財産となります。

先程挙げた例は、ほんの小さな、くだらないことのようですが、そういう事をあえて自信の材料にする感覚は、何気に重要なことだと思います。

この「自信」の価値は、桁違い

「自分の責任の元に決断が出来る」
という事は、因果の道理に則った考えの元に行動できる、ということに他なりません。

因果の道理は、自分の人生に起きる様々な現実についての「原因」と「結果」を説き明かした教えです。
人生には、望ましい現実もあれば、とても歓迎し難い「問題」とも呼ぶべき現実も起こります。
どちらかというと、「問題発生」の方が多いかもしれませんね。

それらの人生の現実を引き起こす「因果」は、どのようになっているのか?
これを仏教は一言で「自業自得」と説きます。
自分がぶち当たる「現実」は全て、自分自身が生み出した「現実」以外にはない、ということです。
他の誰かが造って私に与えた運命なんてものは、無いということです。
私が立ち会う現実の全ては、私が造ったものに他ならない。
だからまた、その現実が変わるかどうかも、私次第ということです。

私たちには、「結果に責任を持ちたくない」という気持ちがどうしてもあります。
しかし、因果の道理から言えば、「責任を持つ、持たない」以前に、自分がぶち当たる現実はすべて自分の造っている現実なのですね。
「他人のせいにしたい、他人の責任にしておきたい」
というのは、自分の現実に対する、ただの迷いの心だということになります。

そして当然、その現実は、私が自分の責任の元に決断して行動しなければ、好転しようがありません。
それが「自業自得」ということです。

自分に起きた「問題」は、自分自身が生み出したもの。
自分が行動を決めて、実行しなければ、現実は好転しない。

このことを、私たちが「思う」「思わない」に関わらず厳然として成り立つ真理として説かれるのが、「自業自得」であり「因果の道理」です。

「目の前の問題に対して、自分の責任の元に決断して行動できる。」
これは、この自業自得の道理に則った行動ができるという事なのですね。

「自分は、道理に則って行動ができる、生きてゆける」
この事に対する自信こそが、まず根本的に大切な自信なのですね。

正しい状況判断ができるか。
いいパフォーマンスができるか。
他人の気持ちをどれだけ察した行動ができるか。
どれだけ場の空気が読めるか。
…いずれもいずれも大切なスキルに違いありません。
そして、その事に自信を持てれば、人生のいろいろな不安を解消することができるでしょう。

ですがこれは、キリのない問題でもあります。
どこまで知識をつけ、感覚を磨き、経験を積んでも、
「100%正しい決断」
などは叶いません。
自分の想定外の問題、未経験の問題、未知の問題は、どれだけ経験値を積んでも起きてきます。
それに対して
「自分は100%正しい判断が出来る」
なんて自信を持つことは不可能だし、そんな自信を持つのは逆に危険でしょう。
ということは、「判断の正しさ」に対する不安は、どうあっても消すことはできません。

そういう「判断の善し悪し」以前に大切な事は、
自分に起きた問題に対して、私は自分の責任の元に決断して行動できる。
因果の道理に則った行動を自分はできる。
この事に自信を持つことです。

なぜなら、このスタンスさえ持つことができれば、たとえ失敗しても、常に状況を好転させる方向へ動き続けることができます。
なぜなら、因果の道理に則って行動しているのだから。

だから、「最終的には上手く行く」
そういう自信を持つことにつながるのですね。
それは、人生の不安を晴らすための根本的な自信を育むことになることでしょう。