あなたが採用している「運命観」はどんなものですか?〜その結果「どう」受け止めるか〜

「自業自得なんて思えない」と言ったところで…

ついつい夜ふかしをしてしまって、
寝不足な状態で会社に出勤して仕事をしていたものだから、
頭の回転も鈍くて、うっかりミスをしてしまい、そのミスで迷惑をかけてしまい、叱られてしまった。
そんな時には
「あーあ、自業自得だなあ…」
と思いますよね。

この「自業自得」という言葉は仏教の言葉で、
自分が受ける結果は、自分の行いが引き起こしたもの、という意味です。
仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と言いますので、
自分の身に起きる出来事は、すべて自分の行い(自業)が原因となっているということなのですね。

この、
「『すべて』自分の行いが原因」
というのが重要で、
「自分の行い(自業)」という原因なしに自分に引き起こる結果など何一つないというのが「自業自得」ということです。

夜ふかしして、頭ぼーっとした状態で仕事してしまった、
そんな自分の行いの落ち度が明確にあって、その結果、会社で叱られたり評価が下がったりした。
こんな場合なら、誰だって自業自得だと思えます。
だけど、自分には何の落ち度もないとしか思えないのに、理不尽にも仕事上の問題を自分の責任にされて叱られる。
そんな時にまで「自業自得」とはなかなか思えないですよね。

理不尽極まりない。納得がいかない。そんな出来事が溢れる世の中です。
そんな中にあって、例外なく、全て、自分に引き起こる結果は自業自得だなんて、なかなか思えないかもしれません。
だけど仏教では、万に一つも例外のない道理として「自業自得」を徹底して教えています。

ある知人と、その「自業自得」の道理を話題にしていたところ、その人が、
「だけど…そう思うしかないなって思います。」
と、何気なく言ったのでした。

ちょっと聞くと、なんだか投げやりな印象を受ける
「そう思うしかないな」
という言葉。

だけども考えてみると確かに、
「そう考える以外にない」というのは、その通りかもしれません。
「じゃあ逆に、そうでないならどう考えるのか?」
と考えてみれば、どうでしょうか。

「運命観」持ってますか?

「自業自得」の道理は、仏教が教える一つの「運命観」とも言えます。
自分に引き起こった出来事を、どんな風に受け止めるのか。
どんな「運命観」を持って生きるのか。
これって、非常に大切なことですよね。

改めてそんなこと、考えたこともないな…
と思う人もいるかもしれませんし、
「私なりに、こう受け止めるようにしている」という「運命観」を持っている人もいると思います。
どんな「運命観」を持つかによって、日々起きる自分の出来事を、
「どう受け止めるのか」
が、大きく変わります。
そして、その「結果の受け止め方」次第で、次の行動にどう繋がるかが、大きく変わります。
大事なのはそこですよね。

限られた人生の中で、私が「どんな行動をするのか」
人生の最後の最後で振り返って、「私はどんな行いをしただろうか」
それによって、自分の人生に誇りを持てるかどうかは変わりますよね。

誰だって、誇れる行動で貫かれた人生にしたいと思います。
「人生」は、一日一日の積み重ねですから、
「今日一日、どんな行動をしたか。その行動に誇りを持てるのか。」
という問いの積み重ねが、自分の人生が誇らしいものかどうかを決定します。

会社で仕事をしている人であれ、
家で家事や育児をする事に専念している人であれ、
企業して自らの事業に打ち込んでいる人であれ、
学生として学校に通っている人であれ、
その環境ごとにそれぞれの「行い」があり、それらは自分の心の命ずるままに為されています。
その「行い」は、その人の心次第でどうにでも変わります。

そんな「行い」を決定づける「心」こそが、「運命観」によって大きく左右するのですね。
「自分に起きた結果を、私はどう受け止めるのか」
これは、自分の行動を決定づける「心」を、大きく左右するわけです。

ある意味、自分の人生そのものを左右するとも言える「運命観」
これを改めて自分に問うことは、極めて大切なことです。

数ある「運命観」、あなたはどれを採用する?

古来より様々な「運命観」が世に現れていますが、
「運命なんて何の法則もない、すべては偶然の産物だよ」
と言ってしまうのも、一つの受け止め方です。

ですがこれでは、ちょっと人生に対する方針の立てようがないですね。
結局どんな行動をしようと、それと自分の運命とは何らの因果関係もないという事なのだから、
考えるだけムダで、「思考停止」とならざるを得ません。

また、私の「運命」を決めて、私に与える、絶対的な「神」という存在がある、
と信じるのも一つの「運命観」です。
そういう「運命」を司る「神」を信じる信仰は世界中にあふれていますので、これはかなりの割合を占める「運命観」と言えます。

まあ世界的にはそうなのですが、日本人で本気でそのように信じて生きている人は、少ないかもしれません。
この「何かに与えられる」という運命観もまた、その与える主体が「神」という計り難い存在ですので、
それこそ「祈るより他ない」という事になります。
この考え方で、何か自分の行動の方針を立てることには、やはり繋がりにくいですね。

日本で生活していれば、自ずと「自業自得」の運命観を持って生きているのがほとんどではないかと思います。
日本人は「無宗教」だとよく言われます。
これは、日本人の「運命観」に起因するものとも言えます。
つまり、「運命」を支配する絶対的な存在を信じることなく、あくまで「運命」は自分の行動によって生み出されると思っている。
そんな基本的な考え方が日本人の多くにはあるのですね。

「基本的には」そうなのですが、
それでも時に、
「神」の恵みや祟りなんかがあるのではないか…
自分の行動とは関係のない、ただ「他人」から押し付けられただけの「運命」もあるのではないか…
生まれた時から決定づけられている、固定した「運命」なるものがあるのではないか…
そんな「思い」も、混じって来るのですね。

「自業自得」がベースだけれど、
時折「例外」を作り出す、
ざっくり言うと、そんな「運命観」が、かなり多いと思います。

すべては「自業自得」というのは、あまりにシビア過ぎるという事なのかもしれません。
「じゃあこんな場合、一体どんな私の『行い』が原因なのですか?」
という質問に、全て答えられるものでもありません。
「行い」なんて、これまでの人生に無数にやってきていて、それら全てを記憶しているハズもありません。
中には無意識にやってしまっている「行い」も、どれだけでもあります。
そんな、ほとんど把握の出来ていない「自分の行い(自業)」から、今の自分の結果に結びついた原因を全て見つけ出すことは人間には不可能でしょう。

「自業自得を全て確認する」というわけにはいきません。
そういう意味では、「完全な理解」として「自業自得」を把握し切ることまでは、人間の頭では出来ないでしょう。
そこは、人間の限界と言わざるを得ません。

とは言え、仏教ではこの「自業自得」の仕組みについて、詳細に説かれており、その仕組みを理解すればするだけ、
「自業自得」と理解することが本当に理にかなっていると確信することはできます。

そしてまた、
「神の祟りが…」と思ったところで、
「あの人のせいで…」と言って恨み憎んだところで、
「どうせ私の運命なんて…」と投げやりになったところで、
何も、自分の行動を向上させたり、改善させたりすることには繋がりはしません。
「自分に起きた結果の原因は、必ず自分の中にある。」
そう考えれば、完全に把握することは出来ないにしても、何かしらの原因を掴むことは出来るものです。

注意して欲しいのは、
「どうせ全部自分が悪いのだ」
と投げやりになるという事ではないということです。
自分を否定するでも、責めるでも、投げやりになるでも、ありません。
ただ、自分の中に「原因」を探るという事です。
そしてそれは、自分の「行い」をより洗練させてゆくためなのですね。

「自業自得」の道理の仕組みをより深く理解することは、とても大切なことです。
それと同時に、
「何か例外があるんじゃないか」「何かに祟られてるんじゃないか」「あいつのせいじゃないのか」
などと惑いを起こしても、仕方がないのではないか…
結局のところ、自分の中に原因を探っていくべきなのではないか。
そういう理解もまた、大切と言えるでしょう。

自業自得の道理に則った受け止め方が、もっとも自分の行いを洗練させてゆくことは間違いないのですから。