「心の動き」の本質を解明すると〜「五感」と「思考」と「執着」〜

「思考」は未熟でも「執着」は一人前

赤ん坊が、じーっと私の顔を見ている…
そういう場面では、なんだか不思議な感じがします。

この子は一体、私の顔がどんな風に見えて、何を思っているのだろうか…?
私達大人のように、まだ複雑なことを考えたりできませんから、
私が、その子の親とどんな関係で、私の表情は何を意味していて、
私と関わりを持つことが、今後の人生にどんな影響を及ぼすのか…
そんなことは考えてはいないでしょう、多分。

ただ、赤ん坊といっても、「目」「耳」「鼻」「舌」「皮膚」などの五感は十分に機能しているはずですから、
音も聞こえ、目も見えて、匂いも味も、暑さも寒さも感じてはいることでしょう。
ただ、「思考」がまだ発達しておらず、それらの刺激を受けても、
色々なことを記憶したり考えたり判断したり…といった事はまだ大人ほどはできないはずです。
(記憶に関しては、大人より優れているかもしれませんが…)

ただ一つ、「これだけはもう一人前だな」と思うのが、「執着」ですね。
お菓子でも、おもちゃでも、ガラクタでも、
興味を示して手を伸ばしはじめたら、なんとしても掴み取ろうとするのですね。
「『欲しい』と思ったものは、何が何でも掴み取る」
その強い意思は0歳児にしてすでに健在で、大人のそれにも劣らないような気がします。

面白いもので、大人からすれば、
「なぜこんなモノに執着を起こすのかな…?」
と思うようなものに対して、興味を示して、手を伸ばして掴み取ろうとします。
そして時には、掴んだらそれを誰にも渡すまいとします。
「これを無理やり取り上げたらもう、絶対に嫌われるだろうな…」
そんな空気をビンビン感じるほどです。
だけど、飽きればもうどうでもよくなって、ポイッと手放してしまいます。
そして今度は別のモノに興味を示してまた手を伸ばし初めます。

だけど考えてみれば、それは赤ん坊に限らず大人も本質的には同じようなことをしているのかもしれないですね。

人間が「生きている」ということは、
五感が(五体満足であれば)機能して外界の刺激を受け取って、
その刺激のうちのどれかに「執着」を起こして、
それを「自分のモノ」にするための行動を起こして、
それを手に入れれば失わないように、奪われないように、逃さないように、自分の元に精一杯留めて、
だけど飽きれば興味を失い、また新たなものに執着を起こしてゆく…

そんなことを、赤ん坊の頃から、大人になっても、そして死ぬまで、
ずーっと繰り返し続けていると言えるかもしれません。

常に「執着」ありきの「思考」

大人は赤ん坊と違って、もっと理性的な思考に基づいて行動しているはずではないか?

それは、確かにその通りで、
経験や知識を重ねて「理性」がどんどん発達してゆき、より合理的に、より広い視野をもって物事を考えることが出来るようになるのが、いわば「大人になっていく」という事ですね。

だけどそれは、「執着」が弱くなったり穏やかになってゆく、という事とは違います。
赤ん坊の頃から働いている「執着」は、成長しようが大人になろうが結婚しようが子供ができようが孫ができようが、
その時その時、様々なものに強く働き続けて、決して衰えることはありません。

私達のこの肉体は、五感が働いて、様々な情報や刺激を外界から受け取ります。
目は「色」という刺激を取り入れ
耳は「音」という刺激を取り入れ
鼻は「臭い」という刺激を取り入れ
舌は「味」という刺激を取り入れ
皮膚は「触感」という刺激を取り入れ
それぞれそれらの刺激・情報が脳へと送り込まれて、私達はこの世界を認識しています。

しかし人間は、ただ「認識」しているだけでは済まず、
それらに対して「執着」を起こすのですね。
ロボットならば、ただ情報を受け取ってそれらを処理するだけかもしれませんが、
人間は、何かしらの執着をいろんなものに起こしてしまいます。

「お、いい車だ…あんな車が欲しいな…」
「あれ、彼女が他の男と仲良さそうに話してる、クソッ…どんな関係なんだ…?」
「いい臭いがするな、そろそろお昼にしようかな…」
「この布団から、離れたくないな…」

客観的にみれば、ただの「色」「音」「臭い」「味」「触感」といったら5つの刺激・情報に過ぎないのですが、
私達人間はそれらに対して強烈な執着を即座に起こすのですね。
それらの刺激を認識した瞬間、それに対する「理性的な思考」よりも先立ってまず、「執着」を起こしている。
「なんか、いいなこれ…」
「気に入ったな…」
「モノにしたい…」
そんな執着の心が動く鋭さは、まさに「即座」の領域に達していると言えるでしょう。
そして遅ればせながら、その「執着」を前提とした、いわゆる「理性的思考」がボチボチと始まり、
「上品に…」
「紳士的に…」
「誠実に…」
という「大人の態度」が形作られてゆく…

なにせ、赤ん坊の頃からすでに一人前に発達している「執着」ですから、
遅ればせながら発達した「理性的思考」に遅れを取るような鈍いものではないでしょう。
まず「執着」が起こり、常に「執着ありき」で、それをいかに実現させるかという方向に「思考」は動いていきます。
私達の「理性的思考」は、「執着」によってすでに方向づけられていて、その流れに抗うことは困難極まるものでしょう。
この「執着」が、仏教で言う「煩悩」なのですね。

「執着」の真っ只中、私達は何ができるのか

「煩悩」の代表格が「欲望」なのですが、
五感から刺激を受けて即座に発動する「欲望」は、欲しいものを手に入れるために、様々な「思考」を巡らせます。
大人になった以上は、子供みたいに「欲しい欲しいー!」とわめいても叫んでも、欲しいものは手に入りませんし、
仮に無理やり手に入れても、きっと後に遺恨を残してしまいます。

この社会で欲しいものを手に入れて欲望を満たすためには、もっと考えなければならないわけですね。
まさにそのための「理性的思考」です。

「社会」といっても、それは「人」の集まりです。
つまり「他人」の集合体が社会なわけですから、
社会でお金を稼いだり、欲しいものを手に入れるということは、「他人」からそれらを貰えるような行動をするということです。
さもなくば、無理やり奪って、どんどん嫌われてゆくか、場合によっては犯罪者となり刑務所へ入れられてしまいます。

どうしたら、「社会」から、「他人」から、お金や物や好意や評価を貰えるのだろうか…
それをよく考えなければ「欲望」は満たせません。
そして、そのための「行動」を、精一杯実践あるのみです。

この複雑な現代社会で大人として生きる以上、私たちの「煩悩」も複雑な思考を用いる他ありません。
「より複雑で理性的な思考をし、行動をしている」
という形にならざるを得ないわけですね。
だけど、あくまでそれらを根本的に動かしているのは「執着」であり「欲望」なのですね。
あくまで自分の欲しいものを手に入れる方向へと思考も行動も向けられてゆきます。
そして上手くいけば、執着の対象を手に入れることができ、それをキープし続けることもできるでしょう。

しかし仏教で重きを置くのは、そんな「執着」の対象が手に入るか入らないかという事ではありません。
たとえその対象が手に入っても、私達の煩悩は決して満足することなく、新たな新たなものに執着を起こしてキリがありません。
「執着の対象が手に入ったかどうか」というのは、ただの「通過点」に過ぎないのですね。
それよりも、その過程において、私達がどんな「行い」をしているかという事の方がはるかに重要です。
ところが私達は、一度執着を起こせば、その執着の対象ばかりに心が奪われて、そこへ向かう間に自分はどんな「行い」をしているか、相当見落としがちなのですね。

しかしこの「行い」こそが、仏教では極めて重視されるものです。
行いのことを仏教で「業(ごう)」と言いますが、
私達が何かの「行い(業)」をするということは、未来の「幸」「不幸」を生み出す「原因」を造ることだと言われます。
だから「業」のことを「業因(ごういん)」とか「業種子(ごうしゅうじ)」と呼ばれ、
「結果」を生み出す「原因」であり、
「実り」を生ずる「タネ」であると説かれるのですね。

その「業」のタネが、自分の未来の結果を生み出す。
これを「自業自得(じごうじとく)」と言います。
だからこそ、仏教が常に問題にすることは、どんな「業」を造っているのか、ということです。
その「体」で、どんな行動をしているのか?
その「口」で、どんな発言をしているのか?
また、その体を口を動かす「心」でどんなことを考えているのか?
これらいずれも「業」となり、未来を生み出す「タネ」となるからです。

人間は常に「執着」を起こす存在であり、そのことを変えることは出来ないでしょう。
だけど、そうして「執着」の真っ只中にありながらも、
「どんな行動をするか」
そのことに目を向け、精一杯「行動」を律して、よりより未来を生み出す「行動」に努力することは出来ます。
そのためにも、成長と共に培ってきた「理性的思考」を、「自業自得」の道理を理解しその実践に向かうためにこそ、フルに活かしたいものです。

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