「ときめくようなドラマ」が起こらない現実をどう生きるか
「今は、マカロンをつまみながらコーヒーが飲みたい気分」
みたいな、ささやかに欲しているモノが、その時その時の気分でありますよね。
「とりあえず話し相手が欲しい」
「話を聞いてくれる人が欲しい」
「一緒に街を歩いてくれる彼女が欲しい」
「このローンを返済できるぐらいのお金が欲しい」
「推しメンのグッズが欲しい」
「願望」なんてキリがなく縁にふれ折にふれ出てきます。
そういうものは、外界の刺激に触発されたり、一時の感情で高ぶったりして、起きてきた欲望と言えます。
そんな一時的な欲望とは違って、
もっと長期的に、何年単位、場合によっては何十年単位ぐらい求めてでも、
どうしても得たい結果が私にはあるだろうか?
「私が心から願っている結果」
そういう強い願望を持って生きている人は、強い。
これはなんとなく分かると思います。
だから、
「夢を持つようにしよう」
「目標を持つようにしよう」
「未来に希望を持って生きよう」
と、声高に言われているのでしょう。
そんな、「自分が心から願っている結果」が明確であれば、
その結果に繋がっている、自分の歩むべき「道」も、自ずと見えてきます。
「自分の心から願う結果」が明確で、その結果に向かう「道」が明確に見えている人
こういう人は本当に強いです。
様々な人生の障害にも負けず、たくましく生きてゆけます。
生きていればどうしても、歓迎しない事態は次々と起きてきますよね。
「無常」の世の中と言われるように、この世はいつ、どんな変化が起きるとも知れない。
その「変化」は、私に都合のいい変化ばかりではありません。
というより、そんな変化は滅多にないですよね。
「隣に引っ越してきた、とても美人で素敵な人と急に仲良くなり始める」
「新任の学校の先生が、とても魅力的でかっこいい先生だった」
「急に、とても魅力的な異性の同僚が自分のことを気になり始めた」
「大企業の社長から、ひょんなことから気に入られ、新たな環境が始まって…」
「突然自分の中に、新たな能力が目覚め始めて…」
「異世界に転生してヒーローとしての生活が始まって…」
…だんだん現実離れしてきましたが。
漫画の中のときめくワンシーンのような「変化」は、現実では悲しいぐらいに起こらないもので(涙)
(起こらないけど心のどこかで期待している「変化」を漫画やドラマでは描かれるから、みんなそれに夢中になるのでしょうね)
逆に、うんざりするような「変化」は日常に満ちています。
(うんざりするので、例は挙げません(苦笑))
次々と起きる歓迎しない事態の数々も、
「歩む道」が明確な人にとっては、すべてが突破すべき通過点です。
場合によっては、自分の目的のために、そのような事態をも逆手に取って生かすことすらできます。
漫画やドラマで起きるような「ときめく変化」を期待するよりは、
自分の目指したい「結果」、歩む「道」を、明確にした上で、
良いにしろ悪いにしろ、あらゆる「変化」を全て、その道を歩む「通過点」にしてしまう。
こちらの方がよほど現実的で、実りのある現実への向き合い方だと言えるでしょう。
その鍵となるのが、先程から言っている
「私が心から願う結果」を明確にすることです。
「心から目指したい事なんてない」のは本当か?
実は、このブログでもそういう
「心から願う結果」を明確にしましょう
みたいなことは、いろんな所で書いているのですね。
だけど、
「そんな結果、私には思い当たらないよ」
という人だっていると思います。
そういう人にとっては、響かない内容となってしまいますよね。
だけど、本当にそんな人がいるのでしょうか?
と、改めて考えてみたいのですね。
もしかしたらこの、
「私が人生で心から願っている結果」
などと言うと、相当派手な「成功」をイメージするのかもしれません。
「いや、私は別に、ささやかに家庭を持って、平穏で温かい生活が出来れば、それ以上を望むつもりはない」
「年に1度くらい旅行に行けたり、たまに美味しいものを食べられたりできたら、
そんな贅沢な暮らしを望むつもりはない」
「金持ちになりたいとも思わないし、家族を築きたいとも思わない。
健やかで、ささやかな楽しみを時々味わえる人生を送れれば十分だ。」
「そんな「ささやかな安泰」しか、私は求めていません。
だから、私にはそんな「心から願う結果」と言えるようなものはありません。」
こんな思いなのかもしれません。
だけど…もう気づかれているかもしれませんが、
それら「ささやかな安泰」だって立派な「心から願う結果」じゃないか、
ということなのですね。
自分では「そんな大それたものじゃない」「ささやかな結果でしょう」と思っているかもしれません。
だけど、先程いくつか挙げたような願いは、
「ちょっとマカロン食べたい」
なんて程度の願望とは、訳が違います。
そりゃあ、
「年収何千万、何億ぐらいになって、一等地のタワーマンションの最上階に住んで、
外車を3台ぐらい持ってて、年に何回も海外旅行に行けて、
好きな人と、気の合う人とだけ関わって、
そして多くの人から感謝と尊敬を受けながら生きていきたい」
というような大きな成功と比べれば、その規模はずっと小さいものと言えるでしょう。
しかし、こういう「大成功」と、先程の「ささやかな安泰」との違いは、
いわば「程度の差」に過ぎません。
もちろん「大成功」の方が、他人や世間は「すごい!」と言うでしょう。
そして、そういう「成功」を収めた人の方が、他人への影響力を強く持つことでしょう。
「大勢の人に影響を及ぼしたい」という願望があるのであれば、大成功であるほど良いとは思います。
だけどあえて大勢への影響力を求めないのであれば、
「大成功」も「ささやかな安泰」も、相対的な違いでしょう。
「大成功」にしろ「ささやかな安泰」にしろ、
これらの「願望」の共通した特徴は何だと思うでしょうか。
それは、「継続的に結果を得続けられること」なのですね。
「単発の結果」ではないということです。
「マカロンが食べたい」
「借金を返済したい」
「きれいな人と街を歩きたい」
「アイドルのグッズが欲しい」
いずれも単発で終わるものであり、比較的短期に叶えることのできる願望でしょう。
だけど、
「家族との温かい生活を守り続けたい」
「たまに美味しいものを食べられる生活を続けたい」
「健やかでいられる日々を保ちたい」
これは、長期スパンの願望であり、生涯を貫くような願望とも言えます。
一度や二度や三度、結果を起こせれば良いという事ではありません。
継続的に結果を得続けたい。
「ささやかな願望」と言っていますが、とんでもない。
「ずっと、何度も何度も結果が欲しい」
と言っているのと同じなのですね。
そういう意味での「私が心から望む結果」ならば、誰だって抱いているのではないでしょうか。
誰だって、「単発の結果」が得られれば満足、だなんて思えないのですね。
口では、「一度でいいから〜したい」などと言いますが、
じゃあそれが叶えればいい人生だと満足できるかと言えば、そんなはずはありません。
誰だって、継続的に結果を得続けたいわけです。
そして、この無常の世の中でそれを叶えることは、それが「ささやか」であろうが「派手」であろうが、
いずれにしろ楽なことではありません。
「心からの願望」を叶えるたった一つの道
一回こっきりでいいなら、
少々強引な方法で叶えることもできるかもしれません。
「一度でいいから、きれいな人と街を歩きたい」
本当に一度でいいなら、なんとでもやりようはありそうですよね。
「一生のお願いだから」
と言って頼み込めば、もしかしたら情にほだされて一日くらい付き合ってくれるかもしれません。
お金なり、高級ブランド品なり、高級料理なりの見返りを用意すれば、
倫理、道徳的にどうかは別として、誰かしら応じてくれるかもしれません。
だけどこれを「継続的に叶えたい」となれば、そう単純にはいかないですよね。
自分自身に、他人が「一緒にいたい」と思うような魅力が備わらない限り、
継続的に何度も何度も、良好な関係としてその願望を叶えることは出来ないでしょう。
「継続的に結果を得続ける」
この願望を叶えるためには、どうしても「因果の道理」に則る他に方法はありません。
「原因」と「結果」の法則のことを、「因果の道理」と言います。
先程からお話している、私たちがこの人生で欲する「結果」を得るためには、
それ相応の「原因」が必ずあるということです。
その「原因」を的確に知り、その「原因」を着実に造り続ける事が肝だということですね。
米や野菜のような「作物」に例えると分かりやすいですね。
隣村からの援助で、米や作物をどっさり貰えれば、一時的に潤うことはできます。
しかし、継続的に永続的に米や作物を得るためには、その作物を実らせる「種」を自ら蒔き続ける必要があります。
作物の「因」となる「種」を的確に知り、それを継続的に用意できるようにすることが必要です。
人生で私たちが求めている「結果」とその「原因」との関係を教えている仏教の言葉が、
「自業自得」という言葉です。
「業」というのは「行い」の事なので、
自分が得たい「結果」に対応する私の「行い」というものがある。
これが「自業自得」ということです。
そんな的確な「行い」を、継続的に、重ねて重ねて実践し続けられる自分になること。
これが、「心から求める願望」を叶えるための「道」なのですね。
その「道」にショートカットは存在しません。
一回こっきりでいいなら、一時的でいいなら、
「因果の道理」をショートカットして強引に結果をかすめ取るような事はできるかもしれませんが、
そんな「結果」はまやかしであり、まして続くものではありません。
継続的に、何度も何度も結果を得続けるたまには、
「因果の道理」を無視しては、まず叶いません。
具体的な「結果」の内容は、人それぞれ異なります。
10人いれば10通り、100人いれば100通りの「願望」があるでしょう。
けれど、おおよそ共通していることは、
みんな、「継続的に結果を得続けたい」と思っていること。
そして、そのための道にショートカットは存在しないのであって、
その「結果」を生み出す「行い」を継続的に実践できる自分になる。
この道一つです。
だから仏教でも、一時的な結果に一喜一憂して振り回されるのではなく、
「今、自分はどのような業を造り続けているのか」
ここに注目せよと教えられます。
そんな「原因」と「結果」の道理に照らして、
「私が心から求めている願望」は何かを明確にしてみて欲しいと思います。
そうすれば、規模の大小を問わず誰もが、
「夢を持ち、目標を持ち、あらゆる障害はそこに至る道の通過点」
そんな展望が、人生に開けることでしょう。