満たされない日常の奥底に抱える私の本性とは~理由のない「尾行」をしてみた女子大生~

見ず知らずの他人の「尾行」にのめり込む女子大生

一人の女子大生が、無作為に選んだターゲットに「理由のない尾行」をする
という物語を描いた映画『二重生活』を「アマゾンプライム」のサイト内で見つけて、
にわかに興味が沸いたので観てみることにしました。

主人公は、門脇麦の演じる大学院生の「白石 珠(しらいし たま)」
現在、彼氏と2人で同棲中。

大学院で哲学の教授から論文の題材として提案された
「見ず知らずの他人を尾行してみる」
というアイデアを、ある日実行し始めたところから、彼女の日常は狂ってゆくのでした。

珠(たま)が決めた尾行の相手は、ある出版会社の優秀な編集部長。
近所の豪邸で、妻と娘の三人暮らし。
近所からも「幸せな家庭」と評判の「温かい家庭」を持つ、
ごく普通のサラリーマンでした。

そんな男を何気なく「尾行」してみることにした珠…

この映画は、主人公の珠が「尾行」をしているシーンが非常に多いわけですが、
個人的に「尾行」のシーンって、見ていて落ち着かないんですね。
なんだかやけにハラハラするわけです。
「バレないように…見つからないように…」
と緊迫しながら、こちらに気づいていないターゲットの周囲をうろついている
そんなシチュエーションに、どうしても
「あー、見つかるんじゃないか、バレるんじゃないか…!」
と、ついつい手に汗握って見入ってしまいます。
しかも、ド素人の下手な尾行なので、ものすごい挙動不審で、本当にバレないのが不思議なくらいでした。

さて、そんな風にハラハラさせながらも、順調に尾行を続けて、その男の行動を、
仕事中、仕事終わり、家族との時間、プライベートの時間とを問わず、追い続けるのですね。

そんな中、あるカフェで席に座っていたその男のところへ、若くてキレイな女性が座り、親しげに会話し始めます。
時折、手と手を絡めるような仕草をする二人は明らかに「愛人」という様子なのでした。
やがて、一緒にカフェを出てゆく二人を、珠はまた慌ててつけてゆくのでした。

二人は人気のない道へと歩いてゆき、突然に道の脇へと姿を消してしまいました。

不審に思いながらまっすぐその道を歩きながらふと横を見ると、
建物と建物の狭い隙間の中で、抱き合っている2人を目にします。

思わず息を呑む珠ですが、さりげなーく通り過ぎつつも、また引き返して、横目で「隙間」の中の2人をのぞき見する。
そんな風に、道を行ったり来たりして、その2人の「不倫」現場をじっくりと観察するのでした。

それからというもの、珠はその男の「尾行」に夢中になっていくのでした。
愛人と二人でホテルに入っていく場面
一方で家族三人で水族館へ遊びに行っている場面
愛人と険悪になってしまう場面
ついに不倫がバレて、男の妻が精神崩壊してゆく場面
そしてついに、妻が自殺を図ってしまう場面

珠はもう、その男の生活の裏も表も観察し続ける「尾行」にどっぷりつかってゆき、
自分の彼氏との生活などは完全に二の次となってしまいました。
彼氏は、いったい珠が何に夢中になっているのか知らないまま、
そんな珠にだんだんと違和感を感じ、気持ちが離れてゆくのですが、
珠は、そんな変化に気がつく様子もなく、「尾行」に夢中になるのでした…

一度も満たされなかった「何か」が満たされてゆく

さて珠はどうして、この「全くの他人」をターゲットとして尾行に、こんなに夢中になっていったのでしょうか。
あなたは、そんな珠の気持ちに共感するでしょうか。

別に好きな男というわけでもない、嫌いな人というわけでもない、
「たまたま」目についた、どこにでもいるサラリーマンだったわけです。
そんな平凡な男の尾行に、どうしてそこまで…?

いや、平凡な男だったからこそ、なのかもしれません。

私たちが他人と関わる時は、当然ながら他人は「私」という人を意識した振る舞いをしています。
つまり私たちが普段見ている「他人」は、私に「見せている」人物像なのですね。
それは私自身だってそうです。
家族に対しては、家族に見せている「私」がいるし
仕事の同僚に対しては、仕事の同僚に見せている「私」がいるし
友達に対しては、友達に見せている「私」がいます。

それはあくまで「見せかけ」の表面部分の関わりと言わざるを得ません。
いくら「本音で話し合える仲」だと言っても、その「本音」だって、あくまでその人に「言える範囲内」でのことです。
その先の「これだけはどうしても言えない」事を、誰でも持っているものです。
そんな「秘密の蔵」を、私たち一人一人が心の奥底に持っていて、
私たちは上手に「取り繕った」表面の姿で、「秘密」を侵されないように他人と関わっていると言えるでしょう。

そんな人との関わりの中に、私たちは一定の安心感を覚えながら生きていると同時に、
満たされない「何か」を感じて生きているのかもしれません。

この映画の主人公の珠も、
同棲して一つ屋根の下で一緒にいる彼との生活にも「満たされなさ」を感じていると語っていました。
そして、印象的だったのは次のこのセリフでした。

「尾行をしていると、今まで一度も満たされなかった「部分」が、満たされていくような気がするのです」

まさにこれが、珠が見ず知らずの他人を尾行することに夢中になってのめり込んでいった理由だったのですね。

人間は、どんな幸せそうな環境で生きていても、本当は誰も「満たされて」なんかいない。
どんな順調でも、他人から羨まれるような生活をしていても、「現状」に満ち足りて幸せを感じられるほど、
私たちの心は単純ではないのですね。

どんな「絵に描いたような理想の環境」に身を置いて生きていても満たされない。
そんな私たちの心のことを、仏教では「煩悩」と言います。
そんないわゆる「理想」にさえも満足できずに、もっとディープな、もっとドロドロした「何か」を、求めずにいられない。
それはとても他人に言えるものではない。

それは、煩悩がその奥底にギラギラさせている本性であり、誰もが抱えている「秘密」です。
自分だって他人だって、そんな誰にも言えない「秘密」を抱いて生きているのですね。

そんな「秘密」に、「尾行」を通して珠は触れてしまった。
そしてその「秘密」に、異常なまでに心惹かれてしまった。
これまで、どんな人と、どんな関わり方をしても満たされなかった「何か」が満たされるのを感じてしまった。
お互いに持っている「煩悩」の深い部分に触れてしまった瞬間です。

「自己の秘密」に目を向けた生き方

仏教ではもちろん、「尾行」を推奨などされていません。
私も、決してお勧めしませんし、やりません。
(映画では女子大生だったからまだ良かったのかもしれませんが、私がやったらその日に警察に事情を聞かれるハメになるでしょうね)

けれど、自己を、自己の煩悩を、深く深く見つめてゆくことはとても大切なことと教えられます。
私とは何者かを、「他人向け」の表面部分だけではなく、もっと深く本質に至るまで、
徹底的に見つめてゆくことが、最も大切なことだと説きます。

自分の煩悩を見つめることは、
自分の醜さ、弱さ、危うさを知る事であり、正直いって見たくないものを見つめることでもあります。
そんなものをあまりに見ていたら、自分の事が嫌いになるのではないかと思えるかもしれません。

だけど、好きであろうと嫌いであろうと、
欲望がたぎり、怒りが燃え、恨みやら妬みやらが渦巻く「煩悩」の姿そのものは、
私の中のどうにも変えられない性質です。
人間である以上、「煩悩」を無くすことはおろか、減らすことも、静まらせることも、できません。
だから、私たちのすべきことは
「それをごまかさずに見つめる
このこと一つなのですね。

「他人にはとても言えない気持ちが出てきた」
「こんな行動、他人にはとても言えない」
普段は他人との折り合いをつけて上手に「演出」している、その隙間を突くように、
誰だって時に、「誰にも見せられない自分」が表面化する時があります。

そんな時こそ、そこから目をそらすのではなく、
「今まさに自分の本性が表れている」
と、その源を静かに探ってみてください。
そしてそんな「自分」をよく、覚えておいてください。
自己の奥底の「秘密の蔵」に目を向けるチャンスは、日常の中に多々ありますから。

「尾行」は、他人の秘密に触れ、知ってしまうことですが、
仏教に触れて「煩悩」を知ることは、自分の秘密を、これまで自分でも知らなかった秘密を、
解き明かしてゆくことです。

そうして初めて、自分が心から何を求めているのか。
そんな私がどう生きていけばよいのか。
自分が真に満たされる道を模索してゆくことになります。

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