「複雑な思考」をスッキリ紐解く視点〜人間の「真実」を観る〜

「ふと浮かぶ思考」は何処から来るのか

自転車をこいでいる時や、
電車に乗ってぼーっとしている時や、
何か単純作業をしている時など、
ふと、頭の中でいろんなことを考えることがあると思います。

そんな、ふと始まる「思考」というのは、どうにも不思議なところがあります。
「いや、不思議も何も、ただ頭の中で色々考えているだけなんだけど…」
と、思われるかもしれません。
もちろん、頭の中の「思考」自体は、
自分でもその「考えている内容」はよく分かっていると思いますし、
きっと「脳科学」なんかでも、その思考の最中で脳内ではどんな化学反応が起きているかも説明できるのでしょう。

ただ、不思議なのは、
どうして、その思考は始まるのだろうか?
という事です。

日頃、色々なきっかけで始まる色々な「思考」
その「思考」は、いったいどうして始まるのだろうか?
その「思考」を、始めさせている「元」はどこにあるのだろうか?

実はこの問題は、れっきとした「謎」なのですね。
「思考」自体についてはよく自覚できていても、
「思考」を動かす「元」については、全くの闇といってもいい状態です。
本当に「いつの間にか」思考が始まっている、というのが正直な実感だと思います。

時々、自分の思考をコントロール出来なくなる時は、ないでしょうか?
「今、そんなことを考えなくていいのに、どうして考えてしまうのか…」
「もうあの人のことは考えないようにしようと思っているのに、気がつけばやっぱり、あの人の事を考えている…」
そんな具合に、自分の意思とはうらはらに、「思考」は始まってしまってます。
それだけ力強く、いわゆる「理性」でも御しがたい力で、 が、どうも私の中にはあるようです。

思考を始める「きっかけ」なら、色々あるでしょう。
何かを見たからかもしれないし、
誰かの声を聞いたからかもしれないし、
ある匂いがしたからかもしれないし、
暑かったり寒かったりしたからかもしれない。
いわば「五感」で入ってくる情報をきっかけに、私達は何かしらの思考を始めます。

そういう「きっかけ」があったとしても、「私の思考」を始める「元」は、やはり私の中にあるはずです。
結果には必ず、原因がある。
色々な五感の刺激を「きっかけ」として、どうして私にそんな「思考」が起きたのか?
その「原因」が必ず私の中にあるのですね。
その「元」というのが、
私達の「意識」とか「理性」と読んでいるような、自分で自覚できている「心」の、
もっと底にある私達人間の「本性」とか「本心」と言われる心です。

「正体不明の支配者」の恐怖

仏教では、「心」といっても、
私達が普段自覚している「意識」や「理性」といった、様々な思考を働かせる「心」と、
そのずっと底にある「本心」と呼ばれる、「思考」を起こす根本となっている「心」と、
大きく2つに分類して教えられます。

とはいっても、これは非常にざっくりとした分け方で、
仏教は、もっともっときめ細かく、「人間の心」を分析して教えられます。
「人間の心の構造を知る上で、仏典が比類なきテキストとなる」と言う学者までいるぐらい、
仏教が教える「心の構造」は、非常に奥深いものがあるのですね。
私達が普段自覚している「心」の、もっと底にある闇の領域まで踏み込んで、仏教では明らかにされています。

そういう「本心」について理解することは、考えてみると、こんな大切なことはありません。
それが元になって私達の「思考」は始まり、
その「思考」から私達の「行動」が始まり、
その「行動」の積み重ねがいわば私の「人生」そのものを生み出してゆきます。
自分の人生を動かす「元」と言ってもいいわけです。
私の人生において、これ程大切なことはありません。

それなのに、その「本心」が、まるで真っ暗闇の中なのですね。
これはある意味、とても恐ろしい事です。

国の政治を動かしている「権力」を持つ人がいますよね。
日本なら「安倍首相」
アメリカなら「トランプ大統領」
民主主義とは言っても、「強大な権力を持っている」というのは、やはり「怖さ」もある事は否めません。
だけど、「安倍首相」や「トランプ大統領」は、テレビでよく出てきて、みんなが知っている人ですよね。
「ああ、こういう人間が、国を動かしているんだな」
という事が、一応、分かります。

だけどもしも、
「実はこの安倍首相やトランプ大統領をも、実質的に動かしている黒幕が存在する」
なんて話を聞いたらどうでしょう。
(実際、そういう都市伝説はけっこうありますよね。事実かどうかは別として。)
素性も分からない、どんな人なのかも分からない。
だけど、いわゆる「国のトップ」よりも遥かに強い権力を持って、世界を動かしている者がいる。
そんな者がいたら、あまりに不気味ですよね。不安でたまらないですよね。

ちょうどそのように、
私の行動を根本的に動かしている「元」となる存在が、闇に包まれていて分からない。
実にこのことが、あらゆる不安の元となります。
たとえその「元」の実態が綺麗でなくても、おぞましいものであったとしても、
その正体がハッキリわかっていれば、ある意味安心なのですね。
「正体がわからない」という事が不安なのです。

人間の「真実」に基づく不動の視点

仏教では、私達の心の底にある本性を「我利我利(がりがり)の心」と教えます。
「我利我利」というのは、
「自分さえよければ、自分さえよければ…」と、ただ己を満たす事ばかりに動いている心のことです。
この「我利我利」は、私達の「欲望」の本性だといえます。

私達の「行動」も「思考」も、その前提に何か欲するものがあってこそ、動くものです。
それが「お金」なのか、「名誉」なのか、「刺激」なのか、「異性」なのか…求める対象は、様々です。
「私は多くを望まないから、平穏であってくれればいい」
という人は、その「平穏」を強く求めているという事です。
それもまた、「何かを強く欲している姿」にほかなりません。
そういう様々な「欲望」があって、「思考」や「行動」は始まると言えます。

そういう意味では、「思考」や「行動」の元は「欲望」だという事は確かに言えます。
ただその「欲望」の本性をさらに深くえぐり出せば、それは「我利我利」です。
「欲」である以上、それは他でもない「己」を満たそうという心なのですね。
決して満たすものは「他人」ではありません。「自分」です。
一見、他人の為、周りの為、みんなの為と見える動きのようでいても、
最終的には「自分」を満たす方向へ、欲は動いています。

人間が持つ、複雑な思考力は、「我利我利」の本性をなす「欲」を、実に巧妙に満たすために発達しているものと言えます。
というのも、この複雑な人間社会で「欲を満たす」には、
ただ直接的に「欲しい、欲しい」とあからさまに主張しても、それは周囲との色々な摩擦を起こすだけです。
人間同士が関係し合うこの社会で生きている以上、「他人の欲望」と触れ合うことは避けられません。
それら他人の欲望と、ぶつかったり、摩擦を起こしたりしては、余計に自分が生きづらくなります。
たとえ一時、自分の欲をとことん通して満たすことができたとしても、他人の欲望との摩擦や衝突を起こしたことが、
後々に遺恨を残すことになって、結局、自分を満たしづらくなってしまいます。

そんな人間社会の中で、長い目でみても、自分を満たし続けるためには、
必ず他人の欲望との摩擦をなくす努力をしなければなりませんし、
時には、他人の欲望を満たしてあげる事も必要になります。
そういう必要な様々なことをクリアしていくために、私達の「思考」は、ますます発達してゆくというわけですね。
時には「自制」に努めることもあれば、
時には「強く主張」をすることもあれば、
時に「他人を満たす」ために動くようなこともあります。
これら全ての思考が、他ならぬ「自己を満たすため」に必要な事なのですね。

「我利我利の本性」が確かに奥底にあって、この「人間社会」を縁に、実に複雑な「思考」が起こされている。
これが私達の心の実態なのです。

この「人間の本性は我利我利」という教えは、
何も、
「どうせ親切そうにしているあの人も、本当は自分のことしか考えていないんだ…」
と他人に不審を抱いたり、
「どうせ私も、自分のためにしか行動できないんだ」
と自己嫌悪に陥ったり、
そういう事を思わせたいわけではありません。

「我利我利」とは、人間の「真実」を言ったものです。
「真実」とは、何時でも何処でも変わらない普遍的なもので、人間の力でも誰の力でも、変えようのないものです。
もちろん「我利我利」という真実は、「醜く」「あさましい」自己の真実に違いありません。

けれどその「真実」を、ごまかすことなく観つめることを、仏教では教え勧められます。

それは、
特定の誰かに不審を抱くことでもありませんし、
自分のことを嫌悪することでもありません。
「人間は、普遍的にそういう存在なのだ」という人間観をしっかりと持つ事です。

そういう「人間」の真実に対する深い理解があれば、むしろ冷静になれるのですね。
逆に、そういう真実に暗いからこそ、
他人や自分に、表面的に現れて垣間見る「醜さ」を前に、感情が浮き沈みしてしまいます。
「不審」も「自己嫌悪」も、それは感情なのですね。
そんな感情に振り回されている事自体が、「真実」を見失っている姿でもあります。

「我利我利」という人間の真実を深く理解すること。
これは、何物にも勝る宝となります。
不安、不審、嫌悪、惑い…
その感情をゼロにはできないまでも、それに支配されない冷静さを持つことを、「真実の理解」が必ず助けてくれます。
その冷静な視点に立ってこそ、最善の思考や行動に近づくことが出来るのですね。