「結果」を急かされる世の中をどう生きるか〜「努力主義」か「結果主義」か〜

「結果主義」か「努力主義」か

「結果を出さなければ意味がない」
という「結果主義」か、
「結果が出るか出ないかよりも、それまで努力することに意味がある」
という「努力主義」か、

これは、ずっとぶつかり合っている価値観の対立と言えるかもしれません。
「ウチの上司はどっちに当たるかな?」
「ウチの会社の方針はどうなのかな?」
「私自身は、どちらの価値観が強いだろうか?」
考えてみれば、どちらの場合も有り得そうですよね。

ここで言う結果というのは、
「仕事」で言うなら、
「売上が上がった」
「契約数を伸ばすことが出来た」
「多くの製品をミスなく生産できた」
など、その仕事その仕事で「目標」としている事であり、
いずれも「利益」に直結する事と言えます。

「仕事」に限らなくても、
打ち込んでいるスポーツで何かの大会を目指しているなら、その試合に勝つという「結果」がありますし、
ジムに通ってトレーニングをしている人は、ダンベル何kg上がるようになるとか、体重がどれだけ落とせるかといった、健康上の「結果」がありますし、
恋愛なら意中の人とめでたく恋人同士になれたという「結果」がありますし。
スポーツ、トレーニング、恋愛…などにおいて、それらの「結果」にとことんこだわるのか、それとも「努力」や「プロセス」を大切にするのか。

「結果主義」か「努力主義」かは、仕事に限らず、
「人生」そのものに何を求めるのかという価値観とも言えます。

ただ、これを
「あなたはどちらですか?」
と聞かれると、「どちらも重視しているような気がするな…」という人が多いと思います。
「いや、私は完全にこちらです」
という人もいるかもしれませんけど、ちょっとこれは割り切れないところがあるのが大抵ではないかと思います。

またこの2つは、「目的」と「手段」の関係にあるのですね。
普通に考えたら、
「結果」を出すという目的のための、「努力」という手段ということになりそうなのですが、その逆もあります。
本気で「努力」をするという目的のための手段として「結果」にとことんこだわる。
こういう「目的」と「手段」の関係も成り立ちますよね。

そうすると、
「結果主義」なのか「努力主義」なのかという二者択一よりも、
どちらを「目的」とし、どちらを「手段」としているだろうか、という問題とも言えるでしょう。

満足は先延ばしにした方がいい

私達が「仕事」でも「スポーツ」でも「人間関係」でも、
いろんな場面で求める「結果」というのは、
仏教で言えば、「欲望」が求めている「結果」ということになります。
「欲望」は、仏教が教える「煩悩」の一つであり、実に筆頭にあげられる代表的な「煩悩」です。
「煩悩」は、文字通り人間を「煩わせる」もの、「悩ませる」もので、私達はとことんこれらに振り回される宿命にあります。
その「代表格」が「欲望」なので、その振り回され度合いは大変なものとなります。
「欲望に振り回されている」
という事実に対して、
「いえ、私は違います!」
と堂々と言えた人を、私はいまだ知りません。

その「欲望」の特徴として、とかく「結果」を強く求めてしまう傾向にあります。
「欲望」が強まれば強まるほどそうですよね。
飢餓状態になっている人に食べ物を与えた時に、
「ゆっくり、味わって食べなさい」
と言っても、とにかく腹に入れて満たそう満たそうとしたくなりますよね。
欲望が強ければ強いだけ、「結果」に向けて突っ走ってしまうものなのですね。

ただ、「欲望」によって私達が感じられる幸せは、「結果にたどりついた」先にあるものではないのですね。

先程の、「空腹が満たされる」という食欲の例なら分かりやすいですね。
本質的な「欲望」の幸せは、満腹した後ではなくて、むしろ満腹するまでの過程で、「飢え」が癒やされてゆく所にあります。
あの「一口の瞬間」が、幸せなわけですね。
「満腹したい」と思って、食べて食べて、その過程で「満たされてゆく」幸せを味わうのですが、
「満腹してしまった」後には、もうそれ以上幸せを感じることはできません。
もし、満腹後もさらに無理して食べ続ければ、それは単なる「苦行」でしかありません。
「不満が満たされていくプロセスの中でのみ、幸福感を感じられる」
つまり、
「相対的な変化の中でのみ、幸福感を感じられる」
これが欲望によって感じられる幸福感の本質です。

「満腹したい」という「結果」を求めて欲望は「食」を求めるのに、
「満腹してしまった」という「結果」の先には、もう「食」では幸せを感じられない。
食事の楽しみには、常にそういう葛藤があるのですね。
え、そんなこと、食事ごとにいちいち考えない…?
そりゃあ、毎日毎日欠かさずしていることですから、ある意味「当たり前」の状態ですよね。
だけどたまに、高級な食事にありつける時なんかには、この葛藤は普段よりも強く現れないでしょうか。

「肉を食べたい!」
その衝動的な欲求を、今日はとにかく徹底的に満たそう。
友達とそんな企画をして、「肉」専門のお店で、結構な額をはたいて、「肉料理」のコースを注文した事があります。
いや、本当に幸せなんですよね、一つ一つ、素敵な肉料理が乗ったお皿が出てきて、食してゆく…
メインの大きな肉が出た時にはもう、
「キター!」
という心の叫びを、控えめな言葉で表現しつつも、ナイフとフォークをその肉へ向けてゆく。
一切れ口に運ぶ、この瞬間の幸福感は、そりゃもう大変なものですよね。
「その料理の写真を撮る」
なんて、一ミリも脳裏をよぎる余地はありませんでした。
そんな楽しみを味わいながら腹を満たしてゆく。
だけど「満たしてしまう」ことは、その楽しみの「終わり」を意味する。

「満たされる幸せ」が大きい程、そうしながら「終わり」に近づいてしまっているという侘びしさもまた際立ってきます。
もちろんそんな事を口にはしませんよ。
友達とはただ、「料理の美味しいこと」「この時間が楽しい事」そんな会話ばかりでした。
ですが、その料理が美味しい程に、私の心にその葛藤があることは、否定できません。

「相対的な変化の中でのみ、幸せを感じられる」
そんな欲望による幸福感の本質を知れば知るほど、
そんな欲望が求めている「結果」には、欲望が「思わせている」ほどの価値があるわけではない。
この事実が見えてきます。
「満足」は、むしろ先延ばしにすればする程良いのですね。

人生の「通過点」に幻想を見すぎないように

人間の「欲望」が、「満たしたい」と求めている結果である以上、
その「結果そのもの」に価値を置きすぎることは、危ういと言えます。

「試合で勝利を収めた」という結果
「ダンベル何kg上がった」という結果
「恋人関係になれた」「結婚できた」という結果

世の中で求められる様々な結果は、いずれも「通過点」であることは冷静に考えれば誰だって分かります。
それが「ゴール」であって、その先に「幸せ」という境地が待っている、
なんていうモノではない、ただの「通過点」に過ぎない。

私達の欲望が、「相対的な変化の中でのみ幸福感を感じるもの」である以上、それは明らかなことです。

ところが「欲望」は、とにかく「満たす」ことを重視してしまいます。
「プロセスをもっと楽しもうぜ」と思うのですが、それ以上に「結果」に突っ走ってしまいがちです。
そしてその「結果」の向こう側に「幸せの境地」が存在するかのように錯覚させてしまいます。

その「錯覚」を、「錯覚」だと教える仏教の言葉が、
「有無同然(うむどうぜん)」という言葉です。
「有」というのが、私達の欲望が求めてやまない結果を手に入れた状態ですね。
その「結果」に、まだ至らない状態が「無」です。
結果に至った後(「有」)も、その結果に至る前(「無」)も、
「幸福感」の面では、別にさほどの違いはない。
その結果はただの「通過点」に過ぎない。
その「通過点」に、幻想を見てしまうのが、欲望の引き起こす「錯覚」なのですね。

仏教では、そんな表面的な「点」でしかない「結果」よりも、
努力という「因」を造り続けるプロセスを重視します。
「因果応報(いんがおうほう)」という仏教の教えからすれば、
「幸せ」という「果報」は、一日一日、着実な「行い(因)」の積み重ねをしてゆく事で、自ずと生み出されてゆくものです。
それは、目指した「目標」に到達した時に限らず、
私達の思わぬ形でも、縁にふれ折にふれ、果報として恵まれてくるもの。
その為の「因」は、日々の努力という「行い」以外の何物でもない。
そんな「因」さえ造り続けていれば、果報に対する心配など無用。
この「因果応報」という道理からすれば、
「結果」よりも、「原因」に注目しなさい、という教えとなります。
「行い」にこそ、重きを置くのが仏教なのですね。

ただ、その「行い」に全力になるためには、「結果」にこだわることがまた有効な手段となります。
欲望が「結果」を求めてやまない気持ちをエネルギーの源として、その活力をフルに「行い」に注いで、全力で「因」を造り続ける。

それは因果応報にかなった「結果主義」、「努力主義」の活かし方と言えるでしょう。