自分の「素」を出しきれない原因は〜「欲」への抵抗感〜

「欲」を出すことに抵抗がありますか?

「欲を出す事は悪いこと」
こういう価値観を、持っているでしょうか?

そう尋ねたならば、
「いやいや、欲がなければ生きていけないのだから、
別に悪いことでも恥ずかしいことでもないでしょう」
と答えられるかもしれないですね。

欲のない人なんていない。
欲がなければそもそも生きていけない。
だから、欲を追いかけて生きているなんて、当たり前。
それが「悪い」とか「恥ずかしい」とか、言っているのは人間を否定しているようなもの。

そんな意見がほとんどではないかと思います。

だけどじゃあ、
あなたのいま抱いている「欲望」を、そのまま他人に晒せますか?

となると、
抵抗ありますよね。
いや、そんなの絶対ムリという人も多いと思います。

お金をこれくらいは稼いで、これくらいの水準の生活がしたい。
こんなタイプの人が好きで、そんな素敵な人と食事に行ったり、旅行に行ったり…
もっと自分を格好良く見せたい、有能に見せたい、頼れる人と思われたい、これくらいに評価されたい…
自分をバカにしている同僚を見返してやりたい、グウの音も出ないくらいに実力を示したい。
本当はこれくらい自分は出来る、結果も出せる、そのことをもっと多くの人に誇示したい…
本当はこんな面倒くさい細々したことなんてしたくない、全部誰かに任せて、もっと楽しいことだけしていたい。

こんな具合に、胸の内には色々な欲望を人それぞれ、今この瞬間にも抱いているハズですよね。
もしかしたら、目の前にいる人が欲望の対象になっていたりするかもしれません。
いま上に列挙したのは、まだまだ「言える範囲」ぐらいのものだと思います。
これぐらいの「欲望」だったら、まだ他人にも晒せるかもしれないですね。
さらにコアな、さらにハードな「欲望」はまだまだ渦巻いていて、
「さすがにこれは、言えない…」
というモノが、きっとあるでしょう。

そんな「言える範囲の欲」「言えない範囲の欲」がそれぞれあると思うのですが、
基本的には、それらの欲を隠して生きているのが実態ではないでしょうか。

基本的には、
「私はそんなに多くは望みませんよ」
という姿勢を周囲に示して生きている人が多いのではないかと思います。

本当は、そんなことはないはずです。
もっともっと多くを望んでいる欲が胸のうちにはあるはずですよね。
もっともっと、自分を満たしたい、自分のモノにしたい、思い通りにしたい…
そういう強烈な欲望が、本当はあるはずです。

そんな強い欲を抱いておりながら、それをおくびにも出さずに、
「そんなガツガツした思いなんて、私は持っておりませんよ」
というフリをして生きているのが実態だったりします。

それは紛れもなく、
「欲は、汚いもの、醜いもの、いやらしいもの。
 それを他人に晒すのは恥ずかしいこと。」
こういう価値観があるからこそ、なのですね。

理屈の上では、
「欲なんて誰でもあるのだから、何も恥ずかしいことなんてないでしょう」
と言えるのですが、
一方でそれをひた隠しにせずにいられない思いもあるのですね。
「欲」に対する、恥ずかしさ、抵抗感があります。

「欲」を抵抗無く示す方法

「将来、何がしたいですか?」
と質問されて、
「○○という仕事がしたいです」
「こんな家庭を作りたいです」
「○○という賞を取りたいです」

「自己紹介をしてください」
と言われて
「○○の会社でエンジニアの仕事をしています」
「映画を観るのが好きです」
「フットサルをたまに仲間としています」
「△△の小説が好きです」

こんな会話なら、何の抵抗もなくできますよね。
初対面の人であろうが、同性であろうが、異性であろうが、
こういう発言なら、別に恥ずかしく思うことも、まして罪悪観を覚えることもありません。

だけど、これらの内容も自分の「欲」を話しているのと同じですよね。
やりたいこと、好きなこと、欲しいもの
自分の満たしたい欲を、他人にさらけ出しているわけです。
だけど、こういう答え方なら普通にそれを出すことができます。

それは、その答えが「常識的」だからなのですね。
「仕事」「資格」「家庭」「賞」「スポーツ」「映画」「小説」…
今なら、「漫画」「アニメ」「ゲーム」なんかも、特に話題に出すのに憚ることはないですよね。

私の感覚では、何年か前までは、
「いい年をして、漫画やアニメが好きってのは、恥ずかしいのでは…?」
という感覚があったように思います。
ですが今はむしろ、明らかに「大人」をターゲットにしているクオリティの高い漫画やゲームやアニメが、
どんどん出されていて、大勢の大人が夢中になっていますから、もはや「常識」の範疇になっているような気がしますね。

これらの「常識的な概念」「常識的なジャンル」「常識的な表現」
それらに乗せて自分の欲望を表現すると、とても無難なのですね。安心感があります。
だから、初対面の時や、まだ知り合って日が浅い時は、そういう常識的な会話からお互いを少しずつ知っていく、
というのが、ある意味賢明なやり方と言えそうですね。

「常識」の力というのは、凄いものですね。
その枠組みの中で語っていれば、「間違いなく」「ちゃんと」他人から認められる。
だけど、言っていることは、
「お金が欲しい」
「いい男が欲しい」
「いい女が欲しい」
「周囲に自分の実力を認めさせたい」
「好きなものに囲まれて生きていたい」
という、私達の激しい「欲望」そのものです。
私達が心のどこかで、「汚いもの」「醜いもの」「隠したいもの」と思っているものに違いありません。

だけど、そんな欲望でも、
「世間で認められている、常識にそったやり方」
ならば、「汚さ」も「醜さ」も見えなくなり、ただ「立派な生き方」「安心できる人」との認識ばかりが残ります。

そんなすさまじい権威のある「常識」って何なのでしょうか。
それは「みんなと一緒」という事ですよね。

生活のためにお金を稼ぐ方法は、
「会社と雇用契約を結んで、会社の利益から回される給与を受け取ること」
なんて、考えてみれば、それはただの一手段です。
「お金を手にれる方法」なんて、他にもいくらでもあるはずです。
だけど、ほとんどの人は、高校か大学を出て、どこかの会社に就職する道を選びます。
それがもっとも「常識的」と認識されているわけですね。

「好きな人と一緒に過ごしたい」
その願いを果たすための手段は、
結婚して、一緒に生活を始めて、子供をつくって、「家族」というものを作る。
これも、その欲望を満たすための一つの手段にすぎません。
「結婚もせず、子供もつくらず、同居もせず、だけどいつも会って仲良くする関係」
なんて形もあるでしょうし、
「ずっと独身で、その時その時に仲良くなった人と恋することを楽しみ続ける」
という形だってあります。
いずれも、「好きな人と一緒に過ごしたい」という欲望の手段で、そこに優劣はないはずなのですが、
「結婚して家庭を作って…」
これが「常識的」なのですね。

つまり「より大勢の人が歩む道」だという事です。
その道以外の道を歩むことに、恐怖すら覚える。
まして、常識と異なる道で、「自分の欲望を満たしていく」という行いが、まるで「悪いこと」のように認識されかねません。

だけど本当は、その道が「常識的」であろうと、「常識外れ」であろうと、
「自分の欲望を満たそうとしている」
ことに何ら変わりはありません。

それが、「みんなと一緒の道」というだけで、
「欲望を満たそうとしている」
という感覚すらも薄れて、ただ「立派な道」と認識されているわけですね。
それくらいに人間は、「みんなと一緒」という事に安心感を覚えるものです。

真の問題は「常識的かどうか」ではなく…

仏教では、「欲望」のような人間を動かしている心を「煩悩」と言います。
常識的であろうと、なかろうと、
人間の行動を動かしているものは常に「煩悩」であり、煩悩の塊のようなものが人間だと言われます。
これを「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」と言います。
「煩悩」で、出来上がっているものが人間、ということですね。

ということは、「欲を出す」のが善いとか悪いとか言う以前に、
人間のあらゆる行動は「煩悩」の現れでしかない、というのが仏教の人間観なのですね。

そして、大切なことは、「常識的かどうか」よりも、
「煩悩」に動かされている、「欲望」に動かされている
そんな人間の本質をごまかさずに観ることです。
その上で、自分の「欲望」を、いかに周囲との摩擦を少なく出していくかという事なのですね。

「欲を出すのが悪い」と言ったって、出さずにいられないものが人間ですから、
私達の考えることは、「欲を出さないように」という事ではなく、
いかに、周囲との摩擦の起きない形で欲望を出すか、という事なのですね。

確かに、常識に添った形で欲を出している限りは、抵抗や恥ずかしさを覚えずに済みます。
だけど、それではあまりに常識に縛られた生き方をせざるを得ません。
時に、その常識から外れた形で自分の独自を欲を出すことで、絶妙なインパクトを周囲に及ぼすことができます。
決まりきった言葉や言い方ではない、より素直な自分の言葉で自分の欲を語れるからこそ、
自分の「人間味」を、率直に人に伝えることができます。
そういう所に、人は「魅力」を感じたりするものですね。

社会的な会話、常識的な言葉、そんなものばかりに埋め尽くされた会話は、どうしても魅力は感じにくいですね。
安心感はありますが、「惹きつけられる」というものではありません。

私達自身も、本当は、そんな素の自分を、素の自分の欲を、時にはさらけ出したいはずです。
だけど、社会の決めたテンプレート以外の形で「欲」を出す事への恐怖が拭えないわけです。
ここにジレンマがあるのですね。
だからこそ、観るべきは、「煩悩具足」の人間の本質です。
本当は、誰もが欲を出して生きているという真実です。

その上で、考えるべきことは「欲を出さないように」「欲を隠すように」ということではなく、
「いかに周囲との摩擦のない欲の出し方をするか」
ということです。
自分は、どんな欲を抱いているのか。
他人は、どんな欲望を持っているのか。
その両者をしっかり見つめて上手に調整することが出来たなら、それはあなたにしかできない、絶妙の魅力的なコミュニケーションとなることでしょう。