「欲」をとことん知ることで視点が成熟してゆく〜「本性」と「演出」〜

「綺麗な欲」だって、あるのではないだろうか…?

「欲」というのは、醜いもの、汚いものなのだろうか?

この点仏教では、「欲」は人間の持つ「煩悩」の一つとして教えられています。
「煩悩」は、あらゆる人間が持っている、己を煩わせ悩ませる108つの心の事ですが、
その筆頭に挙げられるのが「欲」です。

「煩悩」の代表格が「欲」ですから、「欲望」は人間の心の本質を為すものとみるのが仏教なのですね。
その点は私達も、さほど異論はないのではないかと思います。
今日も一日、私を動かしていたものはやっぱり「欲」だよな…という事は、誰も否定できないことでしょう。

朝起きれば、まだ眠たいし、だけど遅刻して恥はかきたくないし…
髪型も服も、ちょっとでも見栄え良くしたいし…
仕事ぶり、勉強ぶりも、「出来る人」と周囲に見せたいし…
お昼になればお腹が空いてくるし、美味しいものを食べたいし…

一日中色々な欲に引きずり回されて、心は忙しかったですよね。

そんな「欲」は、醜いものなのか?汚いものなのか?
もしそうだとすれば、私は一日中、醜く汚いものの奴隷となって動き回っていたということなのか?
いやいやいや、そんなネガティブに考えたくはない…
ですよね。

仏教では、「欲」は紛れもなく「汚れたもの」と説きます。

あえて空気を読まずに断言してみたわけですが…
私に石を投げる前に、ちょっと聞いてください。

この「汚れたもの」と言われているのは、欲の「本性」を言われたものなのですね。
それもあらゆる人の、あらゆる欲の「本性」を、「汚れたもの」と説くわけです。
つまりこれは、万人共通の「人間そのものの醜さ」を言われているわけです。
なので、決してあなたを個人攻撃しているものではありません。

私達の日常の目線では、「欲」と言っても、格好いいもの、綺麗なものもありますよね。

「この大会、絶対に優勝してやるぞ!」
「この勝負、必ず勝つぞ!」
そんな「欲望」を宣言しているアスリート達を見て、
「うわあ…醜い」
「うわあ…汚らわしい」
そんな事は思わないですよね。

大好きな彼氏のために、
手作りのお弁当を作ったり、おしゃれをしたり、プレゼントを考えたりしている姿を見て、
「うわあ…そんな欲を出して、汚らわしい…」とか
…もう、ただのひがみの言い草ですよね。

格好いいじゃないか、美しいじゃないか、いじらしくて、いいじゃないか。
別に「欲」がそんな「醜く」「汚れた」ものなんて、必ずしも言えないのではないか。
そんな感覚が普通だと思います。

ですがこれは、私達の「欲望」の、一種の演出なのですね。

「欲望」に支配されて生きる
その枠組みからは離れられない「人間」として、出来ることは、
いかにその「欲望」を美しく演出するか
これが「人間」として出来る、精一杯というわけです。

だけど、よく考えてみてください。
「欲望」って、どういうものでしょうか。
文字通り「欲しい、欲しい」と望む心のことですよね。
世の中にある、お金や物や名誉や他人の心や…
限りある世の中の資源を、「自分のモノにしたい!」と強く望み続ける心が「欲望」です。

「そこは、Win-Winの精神で…」
とは言いますけど、どれくらいの範囲でWin-Winに出来るのでしょうか。
それは、私に都合のいい人間関係の範囲内に限ってのことであって、
その範囲外におびただしいWin-Lose(搾取状態)を作ることは避けられません。

先進国で高い生活水準を保って、私達の欲を満たし続けるために、限りある資源を自分を含む限られた範囲に集中する状態を、良しとしてしまっているのが実態です。
「人間の文化」なるものを保つために、人間以外の桁違いの数の生物には多大な犠牲を甘んじてもらうより他ありません。
もちろん、そんな大きな規模を見なくても、格差を、優劣を、どれだけ容認して、自分の欲を満たし続けているか知れません。
他の犠牲を見ようともせず、ただ自分が満たされることだけを求める心。
これを仏教では「我利我利(がりがり)」と言われ、これが欲の本性だと教えるのですね。

「出来ること」と「出来ないこと」の明確な区別

綺麗に演出していようが、
そのまま素で出そうが、
我慢して抑え込んでいようが、
その「欲」の背景には常にこの「我利我利」の本性が渦巻いています。

そんな都合の悪い背景を無視して、都合のいい範囲内だけでWin-Winを演出して、「綺麗なもの」「美しいもの」と言って憚らないのが人間の実態なのですね。

その、私達が基本的に目を向けない「欲の奥底に潜む本性」をえぐり出して、
その本質を指して「汚れたもの」と説くのですね。

「本性をひた隠しにして、ただ演出している」
なんて、すごく嫌な感じがしますよね。
「あなたのことを大切に思っている」
「誰よりも愛情を注いでいる」
なんて、調子の良いことを言っていて、
それが全部ただの演出だった。
そしてその本性は、自分のことしか考えていないのが実態だった。
…なんてことを知ったら、幻滅を通り越して許せない気持ちになるかもしれません。

ですが、「欲」の本質だけは、どうあっても変えることは出来ないものなのですね。
「欲」が「欲」である以上、それは「自分を満たすこと」に終始するものなのですね。
どうしてもその本性は「我利我利」となってしまうものが欲です。

「地球が、北極と南極と通る線を軸として回転している」ことを、いち個人ではどうあっても止められないように、
「人間の欲が自分を満たすためだけに動い続けている」という事実を、人間の力で変えることは出来ようのないことです。

だから、人間の力で出来る限界は、
せめてその欲の表し方を上手にコントロールし、演出して、出来る限り周囲と摩擦を産まないようにすること。
これに尽きるわけですね。
それはある種、人間のどうにもならない悲しい姿とも言えます。

「幻滅」が起きる原因は…

仏教は、そういう人間の本性について、
「それを変えろ」という教えでも
「それを無くせ」という教えでもなくて、
「その真実をごまかすことなく観つめなさい」
と説くのですね。

とうことは、どれだけ上手に演出しても、その「我利我利」の本性だけは常について回ります。
ですから、自分についても他人についても、どこかで必ずその「本性」が見えてしまう瞬間があるのですね。
その時に、「欲の本性はどういうものか」を知っているか、知っていないかで、その垣間見た「嫌な面」の受け止め方が全く変わります。

人間の「我利我利の本性」を全く無視して、
「自分の大好きな人に限ってはそんな本性はない」
と信じ込んでしまうのは、危ういですね。

その人に近づけば近づくほど、まだ付き合いが長ければ長いほど、どこかでその人の「人間としての本性」の部分を垣間見る確率はどんどん上がっていきます。
ところがその本性を垣間見るまでずっと、
「そんな我利我利の本性なんてあるはずがない」
と、信じ込んでいた場合、どこかで「裏切られた!」という思いをしなければなりません。

これまでの、周囲を配慮してのすばらしい演出も、自分がせっかく「大好き」と思えていた部分も、一切に対して、
「この態度に騙されていた…!」
という思いを抱いてしまいます。
これはある意味、「自分で勝手に幻想を抱いて、自分で勝手に幻滅する。」と言わざるを得ないかもしれません。

ここでもし、
「どんな人間にもその本性には『我利我利』という性質があるものだ」
という理解をしていたならば、
「やっぱりこんな素敵な人でも人間である限り、こういう本性があるのだな…」
そんな冷静な視点に立つことができるのですね。

誤解のないように言っておきたいのですが、
別に、立派な言動をしている他人に対して、
「腹底では我利我利の心が渦巻いているクセに、どうせ自分を守り、自分が得するためのただの演出だろう」
という不審を向けていたらいい、という話ではありません。
そんな事は、自分も他人も「お互い様」なのですから。

「欲の出し方をコントロールして、演出している」と言うと、騙しているみたいで悪い事のように思えますが、
「本性」が変えようがない以上、「演出する」しかないわけですね。
だから、素晴らしい「演出」に、好意や敬意を抱くことは当然のことです。
それをわざわざ「騙されている」と思う必要はないわけですね。
何度も言うように、それは「お互い様」なのですから。

「演出」は「演出」として、ちゃんとその素晴らしい所を見る事ができる。
それと同時に、
「本性」は「本性」として、それもちゃんとごまかさずに観ることができる。

このいずれをもバランス良く見られる視点こそが、大切なのですね。

他人のすばらしい所はもちろん尊敬できる。
だけど同時に、どんな素晴らしい人格者であっても変えようのない「人間の本性」もちゃんと理解している。
ことさらにネガティブに他人を見るわけでもなく、
近視眼的に素敵な部分しか見ようとせずに危うい盲信をするわけでもなく、
相手を一人の「人間」として、きちんと尊敬できる。

仏教で教える「汚れた欲」の理解は、そのような成熟した視点を養うとても大切な学びなのですね。