「どうしても思い詰めてしまう」辛い思考から脱する鍵は〜自業自得を真に理解したとき…〜

抗い難い「思い詰め」モード

「思い詰めてしまうタイプ」の人、って結構いますよね。
嫌なこと、辛いこと、上手くいかなかった事があっても、
「あ〜あ…まあいいや。忘れよう。」
と、カラッとしてすぐに切り替えられる人もいれば、
その事を何度も何度も思い出しては、何度も何度もため息をついて、
そんな状況を造り出した「自分」がつくづく嫌になって、
「私って本当に、つまらない人間だな…嫌な人間だな…こんな私を誰も好きにならないだろうな…」
そんなことをグルグル、グルグルと思い続け、
そんなことを思えば思うほどにまた、どんどん心が沈んで、どんどん心がしんどくなって…
こういうのを「思い詰めすぎ」と言うのでしょうね。

しかも、そういう「負」の思いを、またいつまでも引きずってしまうのですね。
事あるごとにそんな風に思いつめるものだから、
どんどん自分が嫌いになってゆく…
自分の首を絞めてゆくような思考に陥ることは、決して珍しくありません。

誰だって、「自分のこと」が一番気にかかり、一番興味があるものです。
「好きな人」ができれば、ついついその人のことばっかり考えてしまうように、
誰よりも気にかかる「自分自身」については、何度も何度も考えてしまいます。
良くも悪くも、その思考は深みにハマりがちになってしまいますから、
マイナス方向の思考が始まると、相当思い詰めてしまいます。

自分のことが気にかかり、自分のことが大事だからこそ、
感情は自分へと向き、そして自分を責め続けてしまう。
この感情に抗うことは、けっこう難しいことなのですね。

「あまり自業自得と思いすぎない方が…」に潜む誤解とは

仏教には「自業自得(じごうじとく)」という教えがありますが、
人によってはこの言葉、
ますます自分のことを思い詰め過ぎる考え方ではないかと思うかもしれません。

この言葉自体、だいたい「自分が悪いんだ」という事を言うときに使われますから、
ただ自分のことを責めている言葉であり、自分を思いつめることを助長させる言葉のように思われます。

ですが「自業自得」とは、一人一人が善い未来を切り拓くための教えであって、
他人を責めたり、自分を責めたり、まして貶めたり存在価値を否定してりするような言葉では決してありません。
誰だって、幸せな未来が欲しいわけです。
ただ「お金が欲しい」のではなく、そのお金を持って幸せに過ごせる未来が欲しいのだし、
ただ「恋人が欲しい」のではなく、その恋人と共に幸せに生きられる未来が欲しいわけだし、
ただ「仕事が欲しい」おではなく、その仕事を持って、充実した幸せ未来が欲しいのですね。

一人一人が求めている「幸せな未来」はどうしたら得られるのか、
この切実な説いに答えられている言葉が「自業自得」です。
自分が受けてゆく「幸せな運命」も「不幸な運命」も、それを生みだす種(因)は、自分の業(ごう)である、
と教えているのが自業自得です。

「業」とは仏教で「行い」の事をいいます。
何かを「為す」ことを「業を造る」とも言われます。
政治家や有名人が「失言」問題一つで、自らの立場を失うことがよくありますね。
「たったの一言なのに…」
ということで許してもらえる事はありません。
「言ってしまった」ものはもう取り消しようがありません。
その事実はもう消しようがないのですね。
そしてそのたった一つの「発言」は、周囲の人たちにはとても重く扱われてしまいます。

それが酒の勢いで出てしまった言葉であっても、
色々と問い詰められて焦った余りに言ってしまったことであっても、
「その人が言った」以上、それはその人の「行い」であり「業」なのですね。

一度造った「業」は、取り消せない。
「業」は、間違いなくそれを造った本人の未来を大きく左右する。
そんな強い力を持ったものが「業」です。

過去に隠蔽していた「業」が明るみに出てしまった、とか。
長年、ずっと問題される事なく行われていた「業」が、にわかに問題視されて糾弾され始めたとか。

過去の事であろうと、直近の事であろうと、
自らの為した業は、忘れようが隠蔽しようが、消しようのない不滅のものであり、
その業の力(これを「業力(ごうりき)」と言います)は、抗いようもなく自分の未来の運命を生み出してゆきます。

仏教で、私達の「行い」を問題にするのは、
その「行い」が、自らの未来を生みだす「種」だからです。
自らの「業」を変えてゆくことこそが、未来を好転させることの直結するからこそ、
「業」が重要視され、そこに目を向けることを教え勧めるのですね。

思考の方向が大きく変わる土台は

そうすると、
嫌なこと、辛い事、上手く行かない事
そういう結果が自分の身に起きている時も、その原因は「自分の業」という事になります。
仏教ではそういう時にも、「自分の業に目を向けなさい」と教えられます。

その点は厳しいようですが、
同じ「自分に目を向ける」でも、
「自分はダメだな…つまらない人間だな…嫌われて当然の奴だな…」
と、思い詰める事とは全く違います。

「自業自得」とは、
「あなたの『行い』には、すごい力があるのだよ」
と教えられているのであり、私に無限の可能性を示唆する教えです。

「自業自得」の教えから、
「私なんて、ダメな奴…どうせろくなことはない…」
なんて「自己否定」の発想は出てきません。

今の結果がどうであれ、これまでの人生がどうであれ、
それはそうなった「因果」があったのであって、
これからの「因」を変える一つで、これからの「結果」は、いくらでも変わってゆくのですね。

そんな「因果の道理」を前提として「自己」を見つめるのであり、「自己の業」を見つめるのだから、
ただ自分に対して思い詰めて、自己否定の気持ちへと沈んでゆくのではありません。
自業自得の道理をよく理解して上での、自己反省は、自己否定でも自己嫌悪でもありません。
「即実行」となるものです。

反省は、太く短く。そして、即実行。
大事なことは、次にどんな「種」を蒔くのか、に尽きるのですね。
そうすれば、間違いなく未来は好転するのだから。
だからこそ、「自業自得」の道理の理解から現れるスタンスは、
自己の業を見つめて、からの、即実行、なのですね。
そうすると、考えるべきことは、
「いかに自分がダメか」
などではありません。
「自分は次にどんな『行動』をすべきなのか」
ということ一つです。
そういう思考に切り替えれただけで、もう未来は明るい方向へと好転しているのですね。

少しずつでも、そんな思考へとシフトしてゆけるよう「自業自得」の道理を深く理解してゆきたいものです。