「バーチャルな楽しみ」溢れる世の中をどう生きるか〜「現実」を彩る「空想」〜

「空想の楽しみ」クオリティが半端ない

アニメやゲームに対して
「そんなの子供の遊びだ」
なんて意見を、もうほとんど聞かなくなったような気がします。

昔は、
「いい年してアニメなんて」
「いい年してゲームに夢中だなんて」
という事はかなり言われていたような気がします。
もちろん、今でもそう思う人はいるでしょうけど。

しかし、今は明らかに「大人」をターゲットとしたアニメやゲームが数多く出回っていますし。
大人同士でアニメやゲームの話題で盛り上がっていても何の違和感もありません。
スーツを着たいい年の男性が電車の中でスマホゲームをしている光景にも、もう違和感はありません。
一緒にゲームやアニメを楽しむカップルも大勢います。

そんな大衆のニーズに応えるように、アニメもゲームも、そのクオリティは増すばかり。
昔のアニメと今のアニメの「差」たるや、失礼ながら昔のがまるで「紙芝居」です。
躍動感、立体感、そして並み居る声優たち。
ストーリーやシステムは練りに練られ、「夢」のような世界を、限りなくリアルに近い形で、どんどん展開させていきます。
そんなエンターテインメントに、ますます多くの人が夢中になって行くのも分かります。

それだけの「リアルに近い」クオリティの「世界」が、しかも手軽に味わえるものだから、
もうできるだけ、この世界に浸っていたい…
「現実」は、とりあえず最低限生きていられたらいいから、後の楽しみはこの「空想」の世界でいい…
そんな人が増えていっても不思議ではありません。

だけど一方で、
「そればかりにハマるのも、どうなんだ…」
という思いもありますよね。

人工的な「リアルに近い空想の楽しみ」が、どんどんその質を増していくこの時代、
「現実」と「空想」の折り合いというのが、大切なテーマになっているような気がします。

確かに、今の人工的な空想の楽しみは、
手軽に、質の高い楽しみを、何度でも、低コストで
味わえる。
苦労や思い通りにならない事だらけの「現実」よりも、人工的な「空想」の世界に浸っていたくなるのも分かります。

だけど、一時の楽しみが終わるとまた、五感で感じる「現実世界」が始まってしまいます。
その「現実」と「空想」の格差があまりにも大きすぎると、やはりそこにストレスや劣等感を感じてしまうのも否めませんね。

どうしても叶わない夢を叶えてくれる

「空想」を楽しむこと自体は、決して悪いことではないと思います。
私も正直なところ、「空想」の世界を楽しむのは大好きです。
さらに言えば、大金持ちや、大実業家たちも、物語や空想は大好きだったりするのですね。

なぜなら、「空想」や「物語」は、どうしても叶わない夢を、叶えてくれるからです。
「現実」世界では、どうしても限界があって、叶う見込みのないことが無数にあります。
それは、一般庶民に限らず、いわゆる成功者や大金持ちだって同じです。

今のところ、現実に手から「エネルギー波」を撃った人の話はまだ聞きません。


きっと、どんな大金をはたいても、修行を積んでも、これはまだ出来ないことなのでしょうね。
(もしかしたら知らないだけで、出来るという世界があるかもしれませんが)

「曲がり角で、食パンをくわえた登校中の美少女とぶつかる」
という体験も、リアルに経験することはどんな頑張っても難しいと思います。


お金を払って依頼すれば「演出」くらいはしてもらえるのでしょうけど、
そんな作られたシチュエーションでぶつかっても、ロマンのかけらも感じられません。
本当に偶発的にぶつかるからこそ、そこにロマンがあるわけで、
だけどそんな奇跡的な出来事を狙って登校時間にあらゆる曲がり角を走り回っても、
おそらく何年かかっても叶わないでしょう。

どんなに努力しても、どんなに富を築いても、現代のリアルな縁の中ではとても叶わない事は当然あります。
「物語」や「空想」は、擬似的にではありますが、そんな私たちの夢を叶えてくれるのですね。

だから、子供から大人まで、庶民からセレブまで、サラリーマンも、実業家も、
みんな、物語や空想が大好きなのですね。
「空想」を楽しむのは、「現実」が他人よりもショボイから、なんてことではありません。
誰だって、どうしても叶えられない夢がある。
だけどそれに対する憧れは止まない。
そのとめどない私たちの思いを叶えててくれるのが「物語」や「空想」です。

さらに言えば、その「どうしても叶わない夢」と言ってもそれはあくまで「現時点では」のことです。
かつては「空想」だった「夢物語」でしかなかった事が、今では現実になっている、なんてことはいくらでもあります。
いま実現されている素晴らしい技術や文明も、かつては「空想」だったものばかりでしょう。

「スマートウォッチ」という商品がありますね。
スマートフォンと連動させれば、LINEやSNSの通知を手首に装着させたスマートウォッチで確認できるそうです。
こんなの、子供の頃によく観た戦隊モノのテレビでヒーローが使っている、
「腕につけた通信機で仲間と連絡を取り合うシーン」
そのものじゃないですか。

人が何度も何度も「空想」していたものを、誰かが本気で目指して、現実に変えてしまうというのが「進歩」というものでしょう。
そういう意味で「空想」は、新たな「現実」を造る第一歩であって、それがなければ「進歩」もありません。

つまるところ「空想」は、がんじがらめの「現実」に生きる私たちにとっての、
「自由な楽しみ」であり、「自由への可能性」でもあります。

「空想」では補完できない「糧」

「空想の楽しみ」ではどうしても得られないモノって何だと思いますか?

最近はVRという商品が出て、「ただ画面を見る」だけでなく、周囲がその世界そのものになってしまう。
そんな体験を個人で出来てしまうようですね。
(まだ装着したことはないですけど…)
今のところ「視覚」と「聴覚」と、若干の「触覚」で作られたバーチャルな世界がもう実現されています。
きっとこういう技術は進歩して、ほとんど五感で感じるリアルと区別のつかないバーチャル世界だって、
実現する日も遠くないような気がします。

そう考えると、リアルで経験できる「楽しみ」のほとんどを、バーチャルな空想で「体験」できてしまいます。
人工的に作り出せない「楽しみ」なんて、もう存在しなくなるのだろうか、とさえ思いますね。

それでも、現実でしか得られないモノがあるとすれば、それは何だろうか?

色々な答えが出てきそうですけど…
それは、「自信」なのですね。

「自信」というのは、
自分が現実に行動し、努力し、その結果求めていた現実を得ることが出来た。
そのことに対する、
「自分はやれるんだ」
という確信であり、みなぎる喜びでもあります。

これは、「因果の道理」に則って結果を得るからこそ、手に入る喜びであり確信です。
先程から「空想」と対比して述べている「現実」とか「リアル」というものは、
この「因果の道理」という法則に則って展開しているものです。

自分の「行動」を「因」として、自分の「現実」という「結果」が生まれる。
私たちが生きてゆく中での「行動」一つ一つが起こしてゆく「結果」の連続が、私たちが生きる「現実」です。
だから、「因果の道理」から言うなら、「現実」を変えるには「行動」の積み重ねしかありません。

勉強して知識をつけるとか
一生懸命働くとか
人を喜ばせるコミュニケーションに努めるとか
何か作品を作って提供するとか

「現実」に望む結果を求めるならば、そのための「行動」は決して楽なものではありません。
だけど、その「行動」を積み重ねた末の結果としての「現実」を手に入れるからこそ、
自分の「行動」に対する確信が、自信が、私の中にみなぎってくるのです。

このみなぎる「自信」という幸福感は、やはり格別なものですね。
そしてその「自信」は、さらに次の新たな「行動」に繋がります。
それが、「現実」そのものに希望をもたらしてくれます。

私たちは、
こういう「自信を伴った喜び」が欲しい。
この気持ちを多かれ少なかれ、持っているのですね。
この幸福感だけは、
「画面を眺めて没頭している」
「人工的な世界に没入する」
そういうことで得られる楽しみでは、補完できないものです。

だからこそ私たちはやはり、人工的に作られた空想の「楽しみ」だけでは、満たされないのですね。
因果の道理に則って、自分の行動で「現実」を勝ち取って、自分の中に「自信」というエネルギーをみなぎらせてゆく。
このことが私たちの生きる力となります。

そういう喜びを糧として生きてゆく中で、
現時点での因果ではどうしても叶わない楽しみを「空想」の世界で味わう。
このバランスをどのようにとってゆくかは、個人差はあるでしょうけど、自分にとってのベストを模索してゆきたいものですね。