映画『白ゆき姫殺人事件』の主人公が見せた生き様〜「意業」の描く世界〜

徹夜覚悟の映画鑑賞で得たもの

最近、4年くらい前の映画「白ゆき姫殺人事件」をAmazonの視聴アプリで観ました。

というのも、何人かの友人から
「あれは良かった」
「いい映画だった」
「人間の怖さがよくわかる」
「現代社会の闇みたいなものがよく描かれている」
という興味深い評判を聞いていたので、いつか観なければと思っていたのですね。

Amazonのアプリでこんなにも簡単に映画を視聴できるなんてと驚きました。
DVDを借りに行って、返却して、というのが面倒だったので、これはとても助かりますね。

観始めるのが夜遅い時間になってしまい、深夜3時、4時まで及ぶ観賞だったのですが、寝不足覚悟で観る値打ちはありました。
しかもこれ、観終わったらすぐにもう1回観返したくなる類なんですよ。
一度、結論を知った上でもう1回観ると
「ああ、なるほどね、そういうことか…」
と、また違った感動を味わえるのですね。

ただでさえ寝不足で、朝から会社に行かなきゃいけないのに、それでももう一回観返すという暴挙に及んでしまった…
そのくらい、とても魅力ある映画でした。
あと個人的に、主演の井上真央がとても好きになりました。

さあここまでして観たからには、これはコンテンツにせずばおくまいと、今回はこの映画を題材にお話したいと思います。
ネタバレ感満載なんですけど、4年前の映画なので、ま、いいでしょというわけで。

さてこの映画、「白ゆき姫殺人事件」という題名の通り、
殺人事件に始まり、そしてその解決までの出来事が主なストーリーになっています。

観る前は、名前からして推理系の話かと思っていたんですけど、全然違いましたね。
「探偵」はおろか警察すらほとんど出てこない。
犯人は普通に警察が捜査の末に逮捕していましたし。
「犯人はお前だ!」
みたいな場面はありませんでした。

さてどんなストーリーかというと、
白雪姫を思わせる美人OL「三木典子」が全身メッタ刺しにされた上、火で燃やされたという事件が長野県のしぐれ谷という国定公園で起こるところから始まります。
そして、被害者の同僚の「城野美姫」という女性が、現在行方不明となっていることからも犯人ではないかと囁かれ始める。

この美姫という女性が、この映画の主人公でした。
被害者の美人OLとは対象的な「地味な」女性というキャラクターでした。

犯人として疑われる美姫の生い立ちや人間像が、この映画での主なストーリーとなっていました。

心で描く自由

とても印象的だったのが、美姫の生き方なのですね。
美姫は小学生の頃から、見た目も性格も地味で、いじめに遭ったりもし、辛い人生を送っていました。
彼女が何度も口にする言葉が、
「きっと、いいことある。いいことある…」

そして彼女は、空想に耽りがちな少女だったのですね。
「赤毛のアン」の「アン」に自分をなぞらえて、この辛い現実世界を自分の中で空想の世界に当てはめて、半ば空想世界に生きていたのでした。
そんな彼女を周囲の友達や大人は「変わった子」とか「不気味な子」というように映っていたのでした。
そしてその印象がまた、美人の同僚を惨殺した犯人像にすり替わってゆき、疑いを助長してゆく結果になっていたのでした。

だけど彼女は彼女なりに、自分の力ではどうにも動かせない辛い現実の中で、精一杯幸せを求めて生きるためにそのようにしていたのですね。

こういうことって、誰だって、多かれ少なかれやっていることじゃないかなと思います。
空想の種類は人それぞれ色々でしょうけれど。
特に子供の頃は、みんなそういうことをしていたと思います。

テレビやマンガや小説に出てくる理想のストーリーに、自分の人生をなぞらえていく。

この映画の美姫は、赤毛のアンの恋愛や親友とのドラマによく浸っていたようでした。

ちなみに私なら、
「強さを追求するヒーロー」
というキャラクターに憧れていましたから、勉強したり、スポーツをしたりして自分を高めていくことを、そんなヒーローによく自分の中で当てはめていたものでした。

誤解を恐れずに言えば、私は今もそれをやっていると言えます。
「子供っぽいなあ」
「中二っぽいなあ」
と、思うでしょうか。

だけど、憧れ理想って、子供の頃から大人になっても、変わっていなかったりしません?
私でしたら、「強さを追求していくキャラクター」は、子供の頃から今まで一貫して変わらない理想です。
基本的にそういう路線の中で自分は生きているような気がします。

もちろん、やることは今なら仕事や勉強会や、このブログの発信だったりします。
現代社会の大人としてやることを、やっているには違いありません。
だけどそれぞれの分野での自分のレベルアップは全部、空想の中の「強さを追求するキャラクター」に当てはめることができるわけです。

そんなキャラクターに当てはめ、ストーリーに当てはめて生きるのが、いろんな場面で楽しめて、熱くなれて、努力できる生き方なら、子供じみていようが、私の勝手、というわけですよね。

自分の心で、自分の人生に理想のストーリーを描くというのは、誰もが許された自由だと言えます。

だから美姫のああいう生き方には、私はけっこう共感するのですね。

そして印象的だったのが最後の場面で出てくる美姫の親友のセリフ
「お前が辛い時に頭の中で想像したことは、誰も奪うことはできない」

これまでの人生、学校でも会社でも「弱い立場」にならざるを得なくて、失ったり奪われたりがどれだけあったか知れない。
だけどそんな中でも精一杯、心の中で幸せに向かうストーリーを描いていた。
その想像だけは、誰も手を出せないものですよね。

どんな環境に生きていても、このことだけは誰もが許された自由だといえるでしょう。
そしてその心の種まきが、実際に現実を作っていくということも言えます。

心が生み出すそれぞれの世界

仏教では、心の行いを「意業(いごう)」と言って、それは紛れもない行いなのですね。
身体でやっていなくても、口で言っていなくても、心の中で強く思う、想像する、ということも紛れもない「行い」です。

その行いが、自分のが生きる現実を作っていくのだから、心で想像する「意業」の努力も、自分の現実を変えていくための立派な行いと言えます。

美姫の「幸せになろう」という思いは、とても強かった。
「いいことある、いいことある…」
大切なものを失ったときも、目を閉じて強く「思って」いた。

最後には、自分を犯人扱いして追い詰めていたマスコミ関係の人間にも
「いいこと、ありますよ。きっと。」
と笑顔で言うまでに。

心で自由に理想を思い描いて生きる。どんなに辛い中でも。
このことを貫いた主人公の生き様には、とても感じるものがありました。

さらに言ってしまえば、「空想の世界に浸って生きている」のは、美姫だけではないのですね。
少なくともあの映画に出てくる人物は全員、そうだったと思います。

映画でこんなセリフが出てきました。
「人は自分の記憶を捏造する。自分の都合のいいようにしか、記憶を語らない。」
「記憶」どころか、現在進行形のこの世界をも、自分の思いで自分の都合のように展開させているのが人間の姿だと言えそうです。

というのも、マスコミの取材を受けて、被害者の周囲の人物が、その事件の前後の事実をそれぞれが語っている場面が多く描かれていたのですね。

面白いことに、同じ事実なのに、語る人によって、全然違う場面として描かれているのですね。
例えば、美姫が好意を持つ男性に弁当を作って渡すシーンがあるのですが、
ある人が語る場面では、まるで美姫がストーカーのようにかなり強引に弁当を渡して、その男性が困惑していると描かれており、
またある人が語る場面では、男性がとても喜んで弁当を受け取り、「もっと欲しい」と求めて、どんどん美姫にアプローチしているように描かれています。

どっちが本当なのか、分からなくなりますね。
だけど、考えてみると、どっちが本当かなんて、完全に確認できる方法なんてないわけですよね。

だとしたら、それぞれ現実が、それぞれの人にとっての現実で、
「どっちが本当か」
を探ることに、実はあまり意味はないのかもしれません。

ただ、一人一人にとっての現実があり、世界があり、それぞれがその世界に生きている。
ただそれだけのことだとも言えます。
仏教では、そんな一人一人の世界のことを「業界(ごうかい)」と言います。
一人一人の行い(業)が生み出している一人一人の世界ということです。
もちろんその中には「意業」も入ります。

客観的な現実はどうなのかということを確かめる術なんて、ないのですね。

なら、大切なことは、一人一人がどんな「思い」を抱いて、その思いで自分の世界を造っていくかどうかということです。

主人公、城野美姫の生き様から学んだことでした。

前評判として聞いていた
「人間の怖さ」や「現代社会の闇」とは、だいぶズレた内容になってしまいましたね。
他にも思うことは色々あったのですが、また機会があれば書くかもしれません。
今回はこれくらいにしたいと思います。

最後まで読んでくれて、ありがとうございました。

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