子供の頃によく描いていた「絵」を描いてみた〜子供の煩悩と大人の煩悩〜

渾身のイラストを描いてみた

最近、ふと思い出したのですが、
子供の頃って、よくいろんな「絵」を描いていたのですね。

漫画のキャラクターの絵や、
ゲームに出てくるモンスターの絵や、
大好きだった恐竜の絵や、
多分、家族や友達の顔の絵も描いていたと思います。

らくがき帳なんかに描いていたと思いますが、
学校の給食の牛乳瓶についているキャップに絵を描いて、コレクションにしたりもしていました。

言うまでもなく、イラストの心得なんてのは全くなくて、
下手な絵を、恥ずかしげもなく描きまくっていました。
そしてそれがとにかく楽しかったのですね。

あの頃を思うと、最近は全然描かなくなりましたね。
何かを説明するために必要な「図」を描くことはあっても、
「絵」を描くことはなくなりました。

というより、人の顔とか動物とか、一体どうやって描いたらいいのかさっぱり分からない。
だから描きようがない。
そんな感覚なのですね。

いや…しかし、昔は描けていたのだから、その気になれば描けるのではないか…?
そう思って、ちょっと描いてみました。
昔、大好きでよく描いていた恐竜「トリケラトプス」の絵を。
もしかしたら、いろんなセンスが磨かれていて、昔と比べて驚くほど上手に描けるようになっているかもしれない。

で、描いてみて驚いたのですが、昔描いていたようなのと全く同じような絵になりました。
ここまで進歩がないと、逆に関心するというかどこか安心するというか…

だけど、描きながら気づいたことがありました。
昔はこの同じようなトリケラトプスを、ただ楽しく、「とにかくコイツが好き」っていう気持ちで描いていて。
自分の手を動かすことで、大好きなトリケラトプスの形が紙面上に現れることがとにかく嬉しかったのでした。

だけど、今は描きながらいろんなことを考えるのですね。
「こんな所に角があったかな…どこから生えているのが正しいんだっけ…?」
「この膨らみは、耳なのか?何なのか?ちょっと不自然かな…」
「目はこれくらいの大きさ?真っ黒でいいのか?」
「足の太さ、ちょっと不自然だな…」
「ていうか、恥ずかしい。ここ、ファミレスなんだけど、周りの人に見られたら絶対変な人だと思われてしまう」
…もう、全然楽しくないのですね。描いてても。

つくづく、
「考えすぎるようになったなあ…」
と、苦笑いするばかりです。

いつからか「考えすぎ」というブロックが…

これ、けっこういいエクササイズかもしれませんね。
自分がいかに、「考えすぎて楽しめなくなっているか」が、とてもよく分かります。
よければあなたも、昔、好きで描いていた絵を描いてみてください。
子供の頃と比べて、いかに自分が「考えすぎる」ようになっているかが分かるかもしれません。

当然のことなのかもしれませんが、大人になるにつれて、思考がどんどん複雑になっていきます。
「常識的な視点」
「友達の要求からみた視点」
「後輩たちが自分に対して期待する視点」
「上司が自分に対して求める視点」
いろんな視点から「見られている」を意識し、意識しすぎて、それにことごとく応えなきゃ、応えなきゃと思って、
自分で自分に無意識的にいろんな要求やハードルを、何事に対しても課すようになっているようです。

そんな習慣がついたものだから、
必要ない場面にも、必要ない視点を持ち込んで、自分の振る舞いをいちいち考えすぎていることも、多々ありそうですね。
そんな、複雑すぎる多くの視点を持ち込んで、自然に出てくるいろんな行動をがんじがらめにブロックしてしまう。

絵が描けないのと同じですね。
たとえ描き始めても、スラスラとペンが進まないのと同じです。
「こういうのはダメかな…
こんなのは余計かな…
かっこ悪いかな…
不自然かな…」
そんな「考えすぎブロック」で、筆がすすまないような現象が、いろんな行動でも起きているのかもしれません。

「考えすぎブロック」がなければ、
友達との会話でも、もっともっと話したいこと、聞きたいことが一杯出てきて、
もっと楽しい会話の時間を過ごせるかもしれない。
だけど、ちょうどパソコンの動作が鈍く、ウェブページがなかなか表示されないみたいに、
考えすぎて、たどたどしく、無難で、形式ばった会話ばかりになっていたり…

もちろん、あまりにも思慮のない、デリカシーのない行動や発言もマズいでしょうが、
持ち込む必要のない視点を持ち込んで、必要以上に複雑な思考を混ぜて会話したり行動したりしているのも、
「つまらない」時間にしてしまうことになってしまいます。
自分が楽しめていなければ、相手だって、楽しめないのは当然でしょう。

本当に、「この人」の前で、そんな視点を持ち込む必要があるのか?
と考えてみれば、いらない視点が多すぎるのかもしれません。
もうちょっとだけ、子供になっても良いのかもしれないですね。

子供の「煩悩」大人の「煩悩」

大人になって、思考が複雑になるという変化は、
欲望丸出しの子供だったのが、理性が発達し、欲望を抑制できるようになってきていること
…なのでしょうか?

仏教が説く人間観は、子供であろうと大人であろうと、変わらず「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」です。
煩悩に満ち満ちて、煩悩によって動かされているものが、年齢問わず人間の実態だということです。
その煩悩の代表格が欲望です。

子供であろうと大人であろうと、私の突き動かすものは「欲望」に他ならないということです。
ただ、その欲望の現れ方が、子供と大人とでは違うのですね。
子供の頃の欲望は比較的シンプルで、ただ楽しみたい、満たされたい、面白くしたいと、
その気持ちのままに行動できます。
もちろんそれにも個人差はあるでしょうけど。

それが大人になると、「嫌われたくない」「認められたい」という名誉欲が複雑化してきます。
他人から、社会から、認められたいセンサーが発達して、色々と顔色を伺うことを覚えてくるのですね。
「考えすぎる」ということを先程お話しましたが、
その内容も全部、「名誉欲」の現れですよね。

楽しく行動しよう、会話しようと思いながらも、
「これは余計かな…」
「これは不自然かな…」
「これは格好悪いかな…」
との思考がブロックしているのは、
ただ楽しみたいという欲望と、複雑化した名誉欲とが自分の中で摩擦を起こしているようなものですね。

シンプルに、楽しいと思うままに行動する「子供」も、
複雑な思いで摩擦を起こしながら行動している「大人」も、
「欲望」という煩悩に動かされている姿には変わりありません。
それを「煩悩具足」と言われるのですね。

どちらも「煩悩具足」なら、どちらが「良い」でも「悪い」でも「優れている」でも「劣っている」でもありません。
なら、「子供」みたいにシンプルに楽しんでみるのも全然アリだということですね。

煩悩具足の、現れ方の違いに過ぎない。
この視点を持つ所から、気遣いと遊び心の絶妙なバランスで、大人なりの楽しみ方を見出してゆけることでしょう。