便利すぎる現代で本物の価値を求めるには〜欲を釣る構造〜

ピンポイントに配置された魅力に私達は…

「GAFA」というと、
Google
Amazon
Facebook
Apple
の略だそうで、アメリカに拠点を置く世界の代表的なIT企業を一括にした言葉だそうです。
この4企業の影響力の強さはもう言うまでもありません。

スマホなりパソコンなり携帯電話なりで、
私達はこれらの企業と日常的にアクセスしていますね。

インターネットとつながらない生活なんて、もう考えられないと思います。

そしてそのネット世界を、この4つがほぼ独占しつつあるのが現代で、
これらがインターネット環境を激変させている感がありますね。
その動向をみるにつけ、今後ますます、
インターネットを通した情報の中で私達は生きていくことになりそうですね。

テレビは、スイッチを入れてチャンネルを回さないと、アクセスできません。
ラジオも、自分で操作して情報を取り入れます。
新聞も、購入し、広げて読まないと情報に触れることはありません。

だけど、スマホをはじめとする電子端末は常に私の手元にあって、
ものすごい頻度で私達はアクセスしていますね。

誰かと連絡を取り合うときはもちろん、
写真を撮るとき、
何かメモを残すとき、
スケジュールをたてるとき、
音楽を聴くとき、
本を読むとき、
何をするにしても、電子端末でほとんどのことが出来てしまうものだから、
圧倒的に生活での出番が多くなります。

いや、そんな用事がない時でも、
何もすることがない時の「とりあえず」
なんだか疲れたときの「とりあえず」
現実逃避したいときの「とりあえず」
友達と一緒にいて気まずくなったときの「とりあえず」
気がつけば私達はスマートフォンを手にしています。

もはや、スマホをはじめとする電子端末は、体の一部みたいな感覚になっているような気がします。
近い未来には、文字通り体の一部になる日も遠くないような気がします。

そうやって電子端末に触れている以上、IT企業を通した情報が、どんどん私たちに流れ込んできます。

「通知」という形で積極的に入ってくるものもあれば、
ネット世界に入り込んだ拍子に「広告」を見かけたり、
そしてそれらの「通知」や「広告」は、
企業によって把握されている情報からAIによって導き出された、
私達の心を動かす絶妙の内容が送られるようになっているようですね。

食べ物や、グッズや、ゲームや、漫画や、出会い…

「面白そう」「良さそう」「楽しそう」「満たされそう」
と、私達が反射的に感じるような情報が、ひっきりなしになだれ込んできます。

それらに引き込まれはじまたらもう、端末画面から目が離せません。
ピンポイントに満足を感じられるモノが一人一人に提供される世の中。
考えてみれば、ものすごい世界ですね。
これを、素敵なことと感じるか、恐ろしいことと感じるかは、人それぞれなのでしょうか。

どんな代償を払ってでも欲しいモノとは

私達の欲望は、満たされていないものが「満たせる!」と感知した時、強烈な勢いで求め始めます。

食べ物であれ、グッズであれ、遊びであれ、出会いであれ、

いろんなものに私達の「欲望」は向かってゆきますが、
一度その「欲望」が掻き立てられると、その制御は困難を極めます。

もちろん、私達は何にでも欲望が動くというわけではありません。

すでに私達にとって「日常化」してしまっているものには、そんなに心動かされはしません。
いつもの定食屋、いつものショップ店、いつもの友達との予定
もちろん心地よさはありますが、「どうしても手に入れたい」という程に心動いたりはしないと思います。

また逆に、あまりにもかけ離れた世界に対してもまた、そんなに心は動きませんね。
お城のような豪邸…といってもそんなに実感沸きませんし、
高級ブランドの何百万円もするスーツといっても「わーすごいね」って感じかもしれませんし、
自家用ヨットに乗ってクルージングといっても、あんまり現実味がないかもしれません。

「日常」過ぎても、魅力を感じないし、
「かけ離れ」過ぎても、ピンと来ない。

私達の欲望が動くのは、絶妙に「日常」との距離を置いた地点にあるモノだと言えます。
そんな絶妙に自分に対して調整されたモノに対して、
私達は最高に心動かされるのですね。
そしてそこに、私達は大きな価値を感じます。

自分の欲望に対してピンポイントに調整されたモノ。
そんなモノを差し出されたならば、私達はどれだけの対価を払っても惜しくないとさえ思ってしまいます。

これが私達の欲望の性質なのですね。

これはある意味、欲の恐ろしい特徴とも言えます。
その対象そのものに、本当に価値があるのかどうか、という考慮がそこにどれほどなされているか…
「欲」は、そんなことを考えてはくれません。
絶妙に満たせそうなモノに対しては問答無用で「Yes!」です。

「いや、そこは理性をもって…」
と思うかもしれませんが、
いくら理性で緻密に考えているとしても、その思考の方向性を決めているのは、
やっぱりなのですね。
緻密なようでいて、「欲」を満たせるよう、満たせるよう、バイアスがかかっているため、
「欲」を満たす正当化の役割を果たすばかりです。

「欲」が動けば、全知全能がそれを満たす方向へ総動員されてしまう。
これが仏教で「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」と言われる人間の本質です。
欲望に代表される「煩悩」で、満ち満ちているのが人間、ということなのですね。

ということは、AIによって絶妙に調整されたモノが、次々と差し出される、
私達が接するネット環境は、煩悩にとっては、虜にならざるを得ない代物です。
人々があれだけ、スマホ画面を常に覗いているのも、煩悩の性質を考えると、頷けます。
周囲の外界を探すよりも、手元のスマホ画面を見たほうが、
自分の煩悩にとって絶妙の情報が入ってきますから。

本物の価値を見つけるために

問題は、
「煩悩が惹きつけられる」ことと
「本当に価値あるモノかどうか」ということとは、
別問題だということです。

だから、実際に手に入ってしまうと「あれ?こんなものか…?」なんてことは幾らでもあります。

欲が夢見ている間と、本当に手に入った現実とは、大きな隔たりがあるのですね。

自分の人生に後悔を残したくない。
本物の価値を手に入れる人生を送りたい。

煩悩は、こういう願望に決して沿ってはくれません。
「絶妙に満たせそう」なものに反応して、時間も金も惜しげ無く投入させてしまいます。
それにただ振り回されるばかりでは、私が心から望むものを求めることなく、
人生は瞬く間に終わっていってしまいかねません。

だからこそ、自分の煩悩の性質を、よくよく理解している必要があるのですね。
「煩悩」という言葉はあっても、自分の煩悩をよく見つめて理解する、というのは中々出来ないことです。
「心」という目に見えない部分のことですし、
私達の目は、とにかく「満たしてくれる何か」の方向へばかり向いてしまいます。
「己に目を向ける」こと、「己の心に目を向ける」ことは、そう簡単にはいきません。
仏教の教えは、如何にそこに目を向けさせるかに注力しています。

「煩悩」そのものを無くすことは、出来ません。
人間の本質をなすものですから、人間として生きている以上、「煩悩」そのものを変えることはできません。
それでも、
「その煩悩の性質を理解し、煩悩一杯の自分であることを理解している」
このことで、人生の結果は全く変わります。
得体が知れず、自覚なく動かされるのと、
自分が何に動かされているかを明確に知っていることとでは、
対策の立て方も全く変わります。
そこから、自分が本当に求めるモノへと向かう足がかりが出来てきます。

悔いのない人生にするための第一歩は、「己を知る」ことなのですね。