「私」の始まりを問うと大切なものが見えてくる〜記憶と肉体と「私」〜

私の人生はいつから始まったのか

「私」の記憶を、どこまでさかのぼって思い出せるかな…
と、自分の過去をたどってみたところ、私の場合は、幼稚園に通っていた頃が限界です。
それも、幼稚園へ通う通学路を歩いていた記憶。
あの、松ぼっくりがよく落ちてくる長い「道」を、毎日毎日歩いて通っていた記憶、ぐらいです。

余談ですけど、電車通学した高校を除いては、幼稚園への通学路が一番距離があったんですよね。
「なんでこんな遠い…?」
と、もっと近くの幼稚園があったのに、わざわざこんな遠い幼稚園に通っていることに多少なりとも疑問を感じていたような気がします。
そんなこともあって印象的だった幼稚園へ通う道を歩く記憶は、今でもまだ残っています。

その前の「私」に関する記憶は、何一つ思い出すことが、今はできません。当時の自分の写真を見せてもらっても、全然思い出せないのですね。

こういう話を知人にすると、
「え、もうちょっと過去まで思い出せないのですか!?」
という反応を受けたります。
みんなは、もっと過去まで思い出せるものなのでしょうか。

幼稚園に通う前といったら、なんでしょうね。
近所のおじさん、おばさんとの出会い?
公園デビュー?
兄弟喧嘩とか、両親と色々なところに出かけて思い出とか?

きっと、幼稚園に通う前も色々なことがあったのでしょうね。
だけど、残念ながらもう何一つ思い出せないようです。

私の「記憶」における私の「人生の始まり」は、「幼稚園の通学路」ということになります。
だけど、もちろん実際はもっと過去から始まっているわけですね。

「自分の過去」を遡れば、
幼稚園時代、そしてその前の時期、そして「生まれてきた瞬間」にまで遡りますね。
正確には、母親のお腹の中に宿った瞬間なのかもしれません。

いずれにせよ、その時をもって、
「私が生まれてきた時」
であり、
「私の人生の始まり」
ということになります。

この「生まれてきた瞬間」が、
「私」が、両親からこの「肉体」をもらった瞬間
と言うこともできますね。
物質的に、私が今動かしている「手」や「足」を含め、全ての「肉体」は全て、
この「生まれてきた瞬間」に、両親から貰ったものですよね。

「いや、自前です」
なんていう人は、異空間から物質を発生させて来たということになりますが、
それはちょっと考えにくいでしょう。

親という、他者から「受け取った」ものが、私の肉体です。
そしてその持ち主が「私」というわけですね。

一番大切なパートナーは…

「じゃあ、そんな「私」は一体どこから来たのか?」
という話につっこむと、ちょっと収拾つかなくなりそうなので、そこには踏み込まずに、
この「肉体」の持ち主である「私」とは一体何者なのか?
ということを掘り下げてお話したいと思います。

先程、「肉体を親という他者から受け取った」という話をしましたが、
この感覚は、もしかしたら違和感があるかもしれないですね。
それほどこの「肉体」は私に馴染みすぎて、もう「私そのもの」であるかのような感覚を持つに至っているのかもしれません。

今、私はキーボードを打ってこのブログを書いていますが、
目の前にある腕や指先が、自分の思うままに動いて、打ちたい文字をこうして打っています。
あまりにダイレクトに腕や指が自分の意思の通りに動くものだから、「自分そのもの」という感覚が染み付いているのも無理のないことです。
だけどこの腕もこの指も、生まれてくる瞬間に親から貰ったものに違いありません。
そして、思い通りに動く期間は限られています。
この腕が、この指先が動かせなくなる日が来るなんて、考え難いのですがいつか来るでしょう。
もしかしたら、腕そのものを、指そのものを失う日が来るかもしれません。

だけど仮にそうなっても、「私」という存在は続いていきます。
指を失った「私」として、腕を失った「私」として、「私」の人生は続いていきます。
この肉体のどれを失おうと、「私」という存在が途切れる道理はありません。
あくまでこの「肉体」は、生まれた瞬間から受け取った、私の持ち物だということですね。

この、「肉体は持ち物」という感覚は、「自分の肉体を大切にする」という点でかなり大切なのですね。
この肉体が自分自身、という感覚だと、この体を客観的な対象としにくくなってしまいます。
つまり「大切にする」という感覚が持ちにくいのですね。

だけど、それが「自分自身」ではなく、自分の大切な大切な持ち物である。
あるいは、それは親友のような、恋人のような、家族のような、いや、それ以上に親しい大切な存在である。
しかも、いつまでも「私」に伴ってくれるものではなくて、いつか失っていかなければならない存在。
そんな風に自分の肉体を認識できたなら、もっと大切にできるはずなのですね。

肉体は「私そのもの」ではなくて、「私」に伴って存在していてくれる、とても大切なもの。
「私」と、このあらゆる世界とを、「五感」や「記憶」や「思考」などでつなぎとめてくれる、とても大切な存在。
それも、しばらくの間だけ「私」と共に存在してくれる、貴重な存在。
だから、大切にしなきゃいけないし、フルに活かさないと勿体無い、というものなのですね。

記憶を失った喪失感はあれど、「私」は…

最初に、「私の記憶がだいたい幼稚園ぐらいから」、という話をしましたね。
幼稚園に入る以前の私の記憶は、もはや無いと。
だけど、たとえ今、記憶に残っていなくても、
当時の「私」と今の「私」とは、別人であるはずもありません。
紛れもなくいずれも一貫して「私」に違いありません。
「記憶」もまた、「私自身」ではなく、私の持ち物のようなものだからです。

幼稚園に入る以前に私と縁のあった人もいたことは間違いありません。
その中には、私のことをとても可愛がってくれたり、とても親切にしてくれたりした人もいたでしょう。
恋してくれた人は、さすがにいないでしょうけど…

もし今、そんな人とばったり出会って、
「わー、久しぶり!こんなに大きくなったんだね!…て、さすがに覚えていないよね?」
と言われたとしても、覚えていなくても、私にとって縁のない人とは、もちろん言えないですよね。
記憶はない。だけど縁はあった。
確かに私とその人との間で関わりがあった。
その事実さえあれば、それは間違いなく「私」と「その人」との縁です。
「記憶している」ということは確かに、「私」と「その人」とをつなぐ強い縁の一つには違いありません。
だけど「記憶している」ばかりが縁ではありません。

「袖触れ合うも多生の縁」
という言葉があります。
道端ですれ違ったり、電車の座席で隣同士となって、袖がほんの少し触れ合った。
ただそれだけでもそれは、「私」と「その人」との縁に違いありません。
それも、仏教では「それはただならぬ縁である」と教えられます。
「多生の縁」というのは、長い長い過去からの深い縁だということです。

たとえ未来に記憶を残すことのできない「私」であっても、
その「私」に声をかけてくれた人、可愛がってくれた人、親切にしてくれた人、まして恋してくれた人…
そんな人は紛れもなく「私」と深い縁を持った人です。

もしかしたら、私がやがて認知症になったりして、今、縁のある人との記憶を失うことがあるかもしれません。
だけどそのことで、「私」と「その人」との縁がなくなるわけでは決してありません。

もちろん、それは寂しいことです。
「私」はもちろん、「その人」にとっても、たまらなく寂しいことでしょう。
それぐらい、「記憶している」ことは、強力な縁となっていたということなのですね。
「記憶」や「思考」に、私達はそれほど依存しているということですね。
それが「私そのもの」とさえ思っているかもしれません。

だけど、「記憶」があろうとなかろうと、「私」には違いないのですね。
大きな損失だけど、たとえ記憶を失っても、記憶を失った「私」として、「私の人生」は続いていきます。
「記憶」よりも「思考」よりもずっと深いところに、一貫して続いている「私」という存在があるからです。
「記憶」さえも「思考能力」さえも、「私」の持ち物だということです。

たとえ「記憶」を失ってしまっても、「私」と関わってくれた大切な人は、紛れもなく、私と縁のある大切な人に違いありません。
「記憶」ばかりが縁ではないからですね。
私と話をしてくれている、私を気にかけてくれている、私のことを大切に思ってくれている、そして、私もまた、大切に思っている。
そんな関わりを重ねていていること自体が、記憶の有無に関わらず、深い縁だということです。

やがて「記憶」すらも失う日が来るかもしれない。
だからこそ、「私」と「その人」との縁そのものを、大切にしたいものですね。

「私」とは、何者なのか?
このテーマを掘り下げて理解すればするほど、明確にすればするほど、
「私」との関わりのある全てを、もっともっと大切に思えることでしょう。