縁切り願望にみる人相手の怨念~愛欲の本質を知る~

縁切り願望と怨念

縁切り神社って知ってます?」
と友人から聞いて、

「へー、そんなのがあるの!」
という驚きと同時に、
「あー、ありそう…」
という納得の思いも湧いてきました。

案外、「縁結び」よりもそっちのほうが切実な願いなのかもしれませんね。

特に有名なのが、京都の東山にある「安井金比羅宮」と呼ばれるもので、
その境内に掛けられている数々の「絵馬」には、「縁を切りたい」という切実な願いが綴られているようです。

「息子の婚約が破断になりますように。」
「離婚できますように。どうかお願いします。」
「○○さんの不倫関係の縁が断ち切られますように。」
「ストーカーの○○との縁が切れますように。」
「元カレとの悪縁が切れますように。○にますように。○んでくれますように。」
「○○との縁がまもなく消えそうです。本当にありがとうございます。トドメ、お願いします。」
「○○と△△が死ぬより辛い目にあいますように。」

最後のはもう恨みの余り「縁切り」の願いの範疇を超えているような気がしますが…
ネットで検索すれば、こんな内容の絵馬の画像がわんさか出てきます。

「ああ…邪魔だ……」

こう思ってやまない存在が、きっと誰にでもあるのでしょうね。
「この人が、私の幸せを妨げている。」
「この人がいるから私の願いが叶わない。」
「この人がいるからこんなに苦しまなければいけない。」
「この人がいるから自由が奪われてしまっているのだ。」
「この人さえ、いなければ、この人さえ…」

こんな願いが世の中にどれほどあるだろうかと考えれば、おびただしい数になることでしょう。
そんな「邪魔者」に対する凄まじい怨念がまた、世の中には溢れているのですね。
そして、その怨念の対象の多くが「人間」であることがまた、興味深いことです。

もちろん、人間以外でも、遭遇したくないものはたくさんあります。

嫌いな昆虫
花粉
台風
地震
集中豪雨

単純に「被害の大きさ」から言ったら、自然災害なんて、
いち人間が引き起こす害とは、桁違いの規模の被害になるでしょう。
そして、その災害のために大切な人を失ったり、大切な物を失った人にとっては、
恨んでも恨み切れないものがあることは、想像に余りあります。

ただ、相手が「自然」となると、その恨みもどこか「やり場のないもの」という感じがしますね。
そんなこともあって、自然災害のようなものは、「恨み」の対象というイメージは弱いような気がします。

それよりも、なんといっても「人」ですね。
「人間」に対する人間の怨念は、すさまじいものがあります。
それが「縁切り神社」の絵馬を見るとよく分かります。

愛欲の感情は海の如く…

人間の、人間に対する「好き」「嫌い」の感情のことを仏教では「愛欲」と言います。

「愛欲の広海に沈没して」

と表現までされるぐらいに、それはすさまじい強さなのですね。
「愛欲という強い感情を持っている」
なんて程度ではありません。

「愛欲が、大きな海ほどあって、その海の中に私が沈み切っている」
これは驚くような表現です。
いくらなんでも、
「大きな海ほどある」
「そんな愛欲の中に、私が沈み切って浮かぶことがない」
なんて、そこまでには思えないと思います。

ということは、私達が日頃から
「これが愛欲という感情だな」
自覚しているのは、ほんの一部だ、ということなのですね。
自覚していないところでこそ、激しい愛欲が渦巻いて、私の行動を支配しているのだと仏教では教えられます。

時折、人に対して「好きだ」という感情、「嫌いだ」という感情が、力強く湧いてくることが私達にはあります。
それももちろん「愛欲」に違いありませんが、
そんな、自分で気づくぐらいに表面化している時ばかりが「愛欲が動いている」というわけではありません。

日常のさまざまな行動が、突き詰めてみると、
好きな人に近づけるように、
嫌いな人から遠ざかれるように、
他人とのいい関係を作れるように、
という思いに突き動かされた行動だったりするのですね。

「なんとなく、人恋しい」
「こんな人に囲まれた生活がしたい」
「他人からこんな思いを向けて欲しい」
「こんな風に人を想うことができたら」
「人とのこんなやりとりがしたい」
などなど…
私の奥底で、人知れず、いや、自分でさえも気づかない間に、
人に対する色々な欲望が渦巻いていることでしょう。

それに、一つ、また一つと気づいてゆけば、
これも「愛欲」、これもまた「愛欲」…
と、これまで気づいていなかった「愛欲」があっちにも、こっちにも溢れかえってゆき、
最後には「愛欲の広海」に沈んでいるのが私だったと気がつくというわけです。

可愛さ余って憎さ百倍のドロ沼

「欲望」というものは言うまでもなく、
他でもない「自分が」満たされたい、という気持ちです。
何かに対して、
「私が」満たされるように
「私の」思い通りになるように
と、動く心が欲望の本性です。

ということは、「愛欲」というのは「人」に対する、
「自分の思い通りにしたい」
という欲望のことなのですね。

この欲望の本質は、決して見落としてはならない大事なことです。

欲望が「人」に向けば当然、
「人を自分の思い通りにしたい」
という心となります。

これが満たされている間は、その人は私にとって大好きな人、大切な人と感じることができます。
相手が、自分の思いを満たす方向に動いてくれている間は、
その人の存在そのものが、私を常に満たしてくれる存在と言えます。

言って欲しい言葉を、一番言って欲しい時に言ってくれる人…
大好きですよね。

して欲しいことを、いつも自分にしてくれる人…
可愛くて仕方ないですよね。

「こうなってくれたらいいな」という自分の思い通りの変化を見せてくれる人…
ずっと見守っていたくなりますよね。

ところが悲しいことに人間の「心」ほど無常なものはありません。
自分を満たしてくれたはずの相手の心が、別の方向へと動き出すと、そこから悲劇が始まります。
思い通りになってくれていたはずの人が、意に反した行動をし始めたならば…

その人に強く向いている愛欲が、
「自分の思い通りにしたい」という強烈な欲望が、
他ならぬその人によって、阻害されてしまうのです。

そうすると、
「裏切られた…」
「許せない…」
「どうして…」
「こんなに、愛情を注いでいたのに…}
言いようのない感情の波が逆巻いてきます。

「可愛さ余って、憎さ百倍」
とはよく言ったものです。
まさにこれこそ、
「自分の思い通りにしたい」という愛欲が強烈に向いている相手が、
思い通りにならなくなった時に起きる人間の感情です。

肉親同士の争いや
夫婦の離婚騒動のもつれや
恋愛のもつれ
これらを、かくも凄惨なものにしてしまうのもまた「愛欲」なのですね。
縁の深い相手ほど、「思い通りにしたい」という愛欲が動いてしまう。
その心が強いほど、その心に逆らう相手が憎くなる。
そんな思いをお互いがお互いに抱けば、それはさながらこの世の地獄です。

その地獄から逃れたい、という思い一杯が、あの「縁切り神社」の絵馬に現れているというわけです。

なぜこんなにも「人」に対する怨念は強烈なのか。
その原因を仏教は明確にします。
原因を明確に知っていれば、それだけ早く冷静になることができます。
その原因すら「得体が知れない」というのが、余計に惑いを深めることとなるのです。

私の奥底に、「愛欲」が無自覚に渦巻いている。
「他人を自分の思い通りにしたい」心が、気づかない所で、強烈に沸き立っている。

他人に対する強烈な憎しみが起きたとき、
こんな「愛欲の広海に沈没している自分」を思い出すことができれば、
必ず、冷静になる助けとなるでしょう。

怨念の地獄から脱する第一歩は、まず「己を知る」ことなのですね。