「人間は罪深いもの」のイメージと現実〜私の業(ごう)を観つめてゆくと…〜

「性悪説なのか」と言われると…

「仏教って、性悪説なのですか?」

時折そういう質問を受けることがあります。
「性悪説」とは、中国の思想家である旬氏の教えの内容ですね。

私は中国思想に明るいわけではありませんので、素人見解になりますが、
人間のもともとの性質は弱さ、愚かさ、自分勝手さといった「悪」であって、
環境や努力によってこそ、それを乗り越えて「善」に向かうことができるのである。
こういう、人間が善い方向へ進むための前提となる考え方を示したものなのですね。

仏教では、人間の本質を「煩悩」と説きます。
「今日一日生きた」ということは、「今日一日、煩悩に振り回されて時を過ごした」ことだと言われます。

「面倒くさいなあ…」が口癖だってことはよく聞きますが、
出来れば寝ていたい、面倒くさいことをしたくない、
面倒ごとは他人に押し付けて、自分は楽にしていたい、
というのは、「睡眠欲」という煩悩です。

「口を開けば、自慢話か他人の悪口」
なんて言葉もありますが、自分がしゃべっている事の真相は、どうでしょうか。
他人のことを褒めているようで、どこかけなしている…
自分のことを謙遜しているようで、どこか誇らしげ…
表面上の見せかけとはうらはらの「本音」が、言葉の端々や語気に含まれていることに気が付きます。
これが、人間の奥底で動きづくめの「名誉欲」という煩悩です。

大きな災害や、悲惨な事故や事件をテレビで見るたびに、
「気の毒に…」
「なんて酷いことを…」
と言いながら、「もっと見たい、もっと詳しく知りたい、もっと生々しい内容に触れたい」という、
野次馬根性というか、興味本位の血走る眼はウソをつけません。
他人の不幸を、心のどこかで楽しみのタネにしているようなおぞましい心は「愚痴」と言われる煩悩です。

常識、礼儀、思いやり、人としての道…
などの「心がけ」はあってでも、奥底では、浅ましく、醜く、恐ろしい「煩悩」が人間の本性をなしている。
仏教ではそのように教え、そんな自己の「本性」を、ごまかさずに観ることをとても重視しています。
そして、人間の抱えている煩悩がどういうものなのかを詳しく教えられています。
それはそのまま、人間が犯す「悪」を明かしているとも言えます。
それで「性悪説」との印象を受けるのでしょう。

乗り越え難い、想像を絶する「巨悪」

ただ、仏教が教える「悪」の底の知れなさは、とてつもないものがあります。

たとえば、土を耕そうとして桑を振っていると、地中に埋まっている大きな「石」に桑が「ガキンッ!」と当たったので、
この石をどけようと思い、その石の周りを掘っていると、その「石」が思いのほか大きいことに気がつく。
「これは、どけるのに骨が折れそうだなあ…」
と思ってさらに掘っていると、それは「石」どころか、「岩」…どころか、何平方キロメートルにも及ぶ範囲の大盤石が、
地中に広がっていたというのが実態で、どかそうと思っていた「石」は、そのほんの一部だった…

仏教の教えを通して知らされる人間の「悪」の有様は、ちょうどそのように想像を絶する巨大さなのですね。

「人間の性質は、悪なのですよ。それは、こんな弱さや、こんな愚かさや、こんな自分勝手さ…それを正していくのが教育なのですよ。」
そんな風に「教えられて」分かる「悪」は、先程の喩えではちょうど、表面に出っ張っている「石」ころのようなものです。
それを自覚するのも大切なことですが、
仏教が本当に問題とし、私達に知らせようとしている「悪」は、
知識や説明や理解ではとうてい及ばない、とても「言葉」などでは言い表せない規模と内容の「悪」なのですね。

「私の本質は、そんなに巨大な悪なのか?」
そこは誰もが問わずにいられない事だと思います。

これは、知識や説明の上だけでいくら「論じて」いても、机上の空論でしかありません。
このことは、「人生をかけて」確かめてゆくべきことなのですね。
「『生きる』ということは、そんな『自己』を掘り下げてゆく事そのものである。」
一日生きたことが、
一ヶ月生きたことが、
一年間生きたことが、
それだけ、「得体の知れない自己」の正体と向き合い、それを明確にするための一歩一歩を歩んだ事となる。
そのような「生きる道」を示している教えが仏教と言えます。

ゾッとする程の巨悪に「向き合う」生き方

仏教という教えはちょうど「鏡」のようなものだと言われます。
「鏡」というのは、自分の姿を映すものだということです。
世の中に「鏡」がなければ、私は生まれてから死ぬまでずーっと、自分の顔を知らずに過ごすことになります。
(スマホで写真を撮ればいい、とか言わないでくださいね(苦笑))
自分の「手」ぐらいなら直接自分で見ることはできますが、「肩」ぐらいになると、ギリギリですかね。
「首」になると、もう無理です。
まして「顔」は、絶対に見ることが出来ません。
そういうことを考えると、ちょっと、もどかしくなります。
自分の顔なのに、それを自分で「見る」ことができないなんて…
他人は見えているのに…
ちょっとした絶望なのですが、こればかりはどうしようもありません。

肉体を物理的に「見る」という話でも、その困難性は分かりますが、
自分の心の奥底に渦巻く「私の本性」を見ることは、また非常に難しいことなのですね。
「お腹がすいたなあ…」
「今日はあの人に会えるかなあ…」
「会社に行きたくないなあ…」
「もっと勉強しなきゃ…」
そんな自分の「心の声」をいろいろと聞くことは、できると思います。
だけでそんな明確な「声」として自分で確かめられる心は、「私の心」全体からすればほんの一部なのですね。
これらの「思考」一つ一つを掘り下げると、そんな思考を生み出す根本的な「本心」があります。
そんな「本心」そのものは、とても自分で確認することはできません。

「自分自身」は、自分で見ようがないから「鏡」を使う。
そんな「鏡」の役割を持つものが仏教なのですね。

「自業自得(じごうじとく)」という仏教の教えがあります。
行いのことを「業(ごう)」と言い、
「私が生きている」その姿は、「業(ごう)」をひたすら、常に積み重ね続けている姿といえます。
この「体」でする行動、
この「口」でする発言、
「心」の中で様々なことを「思う」こと、
それらの「行い(業)」が絶えることはありません。

それら一つ一つの「業」に対して、私達はほとんどスルーして流しているものなのですね。
それは「行い」は、やり「終えた」瞬間にもう、目に見えないものとなってしまいますから。
もし「行い」一つ一つ、やるごとに色でもついて、目に見える形で残ってゆくならば見逃すこともないのでしょうけれど…
時が過ぎ去れば、私の「行い」は、夢幻のごとく跡形もなくなってしまいます。

じゃあ「行い」は、やり終えたなら消滅するものなのか?
仏教では、
そうではない、行いは消滅などしないのだと教えます。
行いは、目には見えなくとも消滅することなく残り続けて、自分にその報いをもたらすものだと教えられているのが「自業自得」です。

今している「行い」は、やり終えた後も、目には見えずとも残り続け、必ず自分の報いとして返ってくる。
このことを深く理解すればするだけ、だんだんと自分の「業」が見落とせなくなります、スルーできなくなります。
つまり、「自己」と自ずと向き合うことになってゆきます。
そうしてはじめて、奥底に潜む「本当の私」に向き合ってゆく「生き方」が現れてきます。

「私の業は、決して無視できないもの」
この気持ちが、「自業自得」の道理を知れば知るだけ深まって、
「業」と向き合える生き方
「己の巨悪」と向き合える生き方
が、実現してゆきます。

「己の巨悪を心得て、向き合えている生き方」という道を歩む時、
他人と向きあうにしろ、
精一杯努力するにしろ、
自分の様々な結果を受け止めるにしろ、
実にこのことが、とても大切な土台となっていることに、気がつくことでしょう。