パワフルな「欲望」が私の味方であり続けるために~「欲」と「恩」~

どうしても「足りないこと」ばかり目について…

「足るを知る」
という言葉があります。

「足るを知りなさい」
と言うのは、
ついつい「自分に足りないもの」ばかりに目が行ってしまって、
もっと収入が高ければ…
もっといい仕事はないものか…
もっといい車に乗りたい…
キリのない欲望が、無限に「足りない、足りない…」と、求め続けて煩わされて疲弊してしまうのだけれど、
そんな欲望に振り回されずに、
「今の自分は十分に恵まれているんだ」
という事に目を向けるだけで、本当は「幸せ」は感じられるのだ。
そういう教訓を言った言葉ですね。

これは実際に、とても大切な心がけですね。
どこかで「足るを知る」とならなければ、私達は「幸せだ」と感じられる所がどこにもないことになってしまいます。
ところが「欲望」というのはどうしても、「足りている」ことよりも「足りない」ことにばかり向いてしまいます。
だから、どれだけお金に恵まれていても、人に恵まれていても、仕事に恵まれていても、
もうちょっと増やせないか…
もうちょっと良くならないか…
もうちょっと恵まれた生活になれないか…
「ここが足りない」「あれが足りない」と、不足や不満の方が沸き立ってしまい、
「もっと、もっと…」とどこどこまでもキリなく求めて、煩悶が絶えません。

そんなことから仏教では「欲望」は、私達を「煩わせ悩ませる」もので、「煩悩」であると教えられるのですね。
どこかで「足ること」を知れば幸せを感じることができるのに、
私達の「欲望」がそうさせてはくれずに、「足りない、足りない」ということばかりに心が向いてしまう。
「足る」という満足を妨げて、「足りない足りない」と求める煩いばかりを生み出しています。
まさに「煩い」の元である「煩悩」そのものが欲望なのですね。

だけども一方で、
「欲望」があるから、もっと頑張ろうと思えて努力できる。
「欲望」があるから、自分を高めようと意欲的になれる。
「これでいいや」
と、満足してしまったら、成長も進歩もないのだから、
その「欲望」で、果て無く求め続けることを「煩い」と言ってしまうのはどうなのか…
こういう意見も多いと思います。

人間が努力して、自分が満たされてゆくと同時に、世の中をもっともっと良くしてゆく
その源となるのは他ならぬ「欲望」です。
「お金や物に恵まれた生活をしたい」、「他人から自分のことを認めてもらいたい」、
こういう「欲望」は、「世のため、人のために頑張ろう」、という行動のモチベーションとして極めて重要なものです。
この「欲望」があるから、
自分を高めようとするのだし、
他人の喜ぶことをしよう、
みんなを楽しませよう、
みんなの役に立とう、
と、人生により意欲的、より積極的になれるのは間違いないですね。
そんな欲望をどうして「煩悩」と言われて、煩い悩みの元だと言われるのでしょうか。

努力の方向を狂わせる欲望の本性

私達の欲望が、
「自分を高めよう」
「他人の役に立とう」
「他人を喜ばせよう」
とするような行動に結びついている間は、欲望は私達の味方になってくれていて、
行動への貴重な原動力となってくれることでしょう。

ところが「煩悩」の危うさは、ただ努力に向けられるばかりではなく、
それが色々な「惑い」を起こしてしまうところにあるのですね。
「欲望が満たされない」
というこの不満状態が、
「満たせる努力をしよう」
という行動にばかり向けられればいいのですが、
「ああ…どうして私はこんなに満たされないんだろ、ダメなんだろう…」
と、ただ悶々と煩い苦しませるストレスにもなりますし、
「クソッ…あいつはあんなに恵まれて、幸せそうにして…」
と、満たされない自分の欲求を目の前で満たして満喫している他人に対して強烈な嫉妬心を抱かせることもあります。
「オレの邪魔をしたな、あいつ、許せない…」
と、その欲求が、誰か他人のために妨げられるともなれば、妨げた相手に対して許せない気持ちが爆発して、
怒りにまかせた言動を引き起こしてしまうこともあります。

「欲望」は、必ずしも「努力」ばかりに結びつくわけではないのですね。
欲望は、「失望」、「嫉妬」、「怒り」の元にもなり、煩わせ悩ませる事は絶えないものです。
さらに言えば、「欲望」に突き動かされた「努力」も、
常に「自分の向上」と「他人への貢献」に向けられるとは限りません。
最初はそのように努められていても、知らず知らずに、他人を貶めたり、他人に自分のエゴを押し付けたりと、
「努力」の方向性が怪しくなってくることもあります。

「欲望」の本性を仏教では「我利我利」と教えられます。
文字通り「私さえ得すれば、私さえ満たされれば…他はどうでもよい」という心が「我利我利」です。
「欲」という心は本来、あくまで「自分の」何かを満たそう満たそうとするものであって、満たす対象が「他人」になるものではありません。
ただ、そんな「本性」をあからさまに丸出しにしていては、自分から人がどんどん離れてしまうだけですから、
長期的、継続的に自分の「欲」を満たすためには、
他人の利益を損ねないように、
他人もちゃんと満たされるように、
いわゆるWin−Winとなるように、
という努力が必要なので、結果的にそのような行動となっているわけですね。
だけどあくまで欲の本性は「我利我利」である以上、その欲望に任せた行動はどこかで「本性」をあらわにし、
破壊的な言動に一転するリスクを常に孕んでいます。

そんな「煩悩」の性質を知ればするほどに、自分の欲望の原動力が正しく機能するものと過信するのは、危うきに失することとなります。

「本性」が暴走しないように、大切なこと

欲望という「煩悩」に、先に述べたような危うさがあるとしても、私達は今更、欲望から離れて生きることはできません。
基本的に私達は日々、「欲」に動かされて行動し、生きている。
この性質を変えることは、人間である以上は不可能なことです。
食べたい、飲みたい、いい家に住みたい、いい服を着たい、いい人に囲まれて、大切にされたい、
生身の人間には、これら抑えきれない欲望が常に動き続けて行動を促し続けるのを止めることはできません。

そんな欲望に突き動かされてゆく前提で、
そんな中でいかに大きな「惑い」を起こさないようにできるか、
そして、欲望を努力の原動力として「味方」とし続けられるか。
これが現実的な、私達の問題です。

そこで重要なことがやはりこの「足るを知る」という事なのですね。

ただ、欲望にまかせて「足りない、足りない…」の心のまま突き進み続けることは、
大きな「惑い」に陥ってしまう危うさを増す一方となってしまいます。

事実を見れば、本当に「足りない」ことばかりではないわけです。
「満たされている部分もあるし、足りない部分もある」
基本的にはいつもこうです。
「完全に満たされている」
もないし、
「全くゼロで枯渇し切っている」
もありません。
こうして生きている以上は、ある程度の「恵まれた結果」を享受しているのであり、ただそれが「当たり前」となり、「無い」かのように思っているだけです。
そんな現状の「恵まれた結果」を有り難く感じるという心も、あって然るべきなのですね。
この感覚が全くゼロで、ただ
「足りない、足りない、もっと…」
の心だけで生きているのは、かなりバランスを欠いた精神状態と言わざるを得ません。

私達の「欲望」からすれば、「まだまだ足りない」というのも事実でしょう。
だけど同時に、こうして「生きていられる」という事から、「恵まれた結果が現存する」のもまた事実です。
それを「足りない」事実だけに目を向けてしまっているのが、大きな惑いを起こす要因となるのですね。

「恵まれた結果を受けている」という現実にも目を向けること。
そしてその「恵まれた結果」の原因にも目を向けること。
これは、私達が「恩を知る」ための大切なプロセスです。
「こうして食事がちゃんと摂れる」という結果
「家でゆっくりと眠ることも出来る」という結果
「体がまだまだしっかり動いてくれる」という結果
「信頼できる友人がいる」という結果
いつしか「当たり前」となってるけれど、間違いなく受けている「結果」
それをしっかり捉え直して、さらに
「それは、どんな原因によって起きているのだろう…」
という原因にまで思いを馳せたときに、色々な「恩」が見えてくるのですね。
親がいつも心をかけ、心配して、支えてくれている
仕事をいつも円滑に支えてくれている同僚がいる
自分の話を聞いてくれる友人がいる
支えとなっている今の環境を築いてくれた様々な先人たち
数知れない「恩」の存在にちゃんと目を向けることができ、
その「恩」を「有り難いな…」と感じることが出来たなら、
「それに応えよう」という「努力」の源泉が沸いて来ます。

仏教ではこれを「知恩」「感恩」「報恩」と言われますが、
このプロセスで生み出される行動の源泉は、とても力強いものです。

ただ、「不足」に目を向けた「欲望」に任せた原動力だけではない、
「足る」に目を向けた「知恩」「感恩」「報恩」から湧き出る原動力をも同時に活かす。
この絶妙のバランスが、道を誤らないための大事な秘訣と言えるでしょう。