「もう私は、人間に疲れた…」この思いにどう向き合えばよいのか

人の世に疲れ切った時の救いは…

「人間世界に疲れた。」
みたいなことを、思うことはあるでしょうか。

え、しょっちゅう思います?

誰しも「人」として生きることに心底疲れてしまうことは、きっとあると思います。
「人間世界」だからこそ、疲れ果ててしまうことが余りに多すぎるのですね。

人間として、人間たちの中で生きていくことが、もう嫌で嫌で仕方がない。
そんな心境になっても、決しておかしくはないでしょう。

そう考えると、「猫」のような動物は、本当に救いになりますよね。


無垢で、気ままで、ウソついたり変に干渉してきたり無理な要求をしてくることもない。
深く傷つけてくることもないし、自分の立場を脅かしてくることも、恥をかかせるようなこともない。
ただ、無邪気に自然に、のびのびと生きている。
その姿を見ているだけで、癒やされる…

「カピバラ」っていう動物を知っています?

「カピバラさん」というキャラクターがわりと有名で人気なのですけど、
「生」のカピバラもまた、とっても魅力的なんですね。
たぶん、好きな人はとことんハマる。猫好きよりもディープな愛を抱くこともあるようです。

すっごいカピバラ好きの友人に、
「どのへんが好きなん?」
と聞いたら、即答。
「ぜんぶ」
え?
「ぜ ん ぶ」
それはまるで、「言葉」なんぞ人間の勝手なツールで表現すること自体が、その魅力を貶めることに他ならない…と言わんばかり。
「どのへんが好き?」なんて質問自体、愚問でしたね。

何をやっていても、可愛い。
「ぼーっ」としていても可愛い。
草を食べてても可愛い。
寝ていても可愛い。
赤ちゃんも可愛い。
いい年してても可愛い。
温泉に入っていても可愛い。
もう…すべてが許される。

存在そのものが、癒やしというわけですね。

きっと「人間」と接していて疲れさせる要素のすべてがごっそりと抜き取られた、ただ「救い」でしかない存在…
そんな感覚なのかもしれません。

こういう「動物」好きの気持ちには意識する・しないに関わらず、「人間」との比較があるのかもしれません。
なにせ、私達が日常的に一番接しているのは、やっぱり人間ですから。嫌でも比較してしまいます。
動物と接している時間は、ある意味そんな「人間世界」から解放されている時間という意味合いもあるはずです。

どうして人の世は疲弊させられるのか

「どうして、自然の中にいると落ち着くか、分かります?」
何年か前に職場の同僚との会話の中で問われたことですが、その時に聞いたのは

「何も要求して来ないからですよ。」

…なるほど、と思いました。

ということは、「人間」は常に何かを要求して来る存在ということですね。
様々な「欲望」が心中に渦巻いているのが人間ですから、その欲望が求める「要求」を、自分に対してもどんどん向けて来ます。

「セールス」を受けることが好きっていう人は少ないと思います。
もちろん、初めから欲しいものがあって、店に来ているときに受けるセールスは、逆に助けになるでしょうけど、
街で歩いている時に突如仕掛けられるセールス。
急に知らない番号からの着信があって、出たらセールス電話。
そういうのは、ほとんどの人にとってはストレスでしかないでしょうね。

だけど考えてみると、「セールス」をかけてくる人は、とっても愛想よく、とても気遣いを持って接して来ますよね。
苦虫を潰したような顔で、嫌味たっぷりの口調で、セールスを仕掛けてくる人なんて、いません。
なるべく機嫌を損ねないように、なるべく楽しんでもらえるように、褒め所があればとことん褒めてくれる。
そういう人ですよね。

ならば文句なしに歓迎できるかというと、そうはいかないのは、
「結局、最後には何かを要求してくるのだろう」
という暗黙の認識があるからですね。
その笑顔の底に、愛嬌の底に、褒め言葉の底に、
「お金を出して買って欲しい」
という「要求」を見てしまうからでしょう。

「お金を出せ」「自分を敬え」「もっと労力をかけろ」「自分の話を聞いて欲しい」「褒めてほしい」「優しい言葉をかけて欲しい」…
「人間」である以上、その内側には「欲望」が渦巻いていて、それが自分に向けられたならば、何らかの「要求」となって自分にのしかかってきます。

そんな「要求」があらゆる角度から自分に向けられる世界が「人間世界」とも言えます。
だからどうしても、ただ生きているだけで疲弊してしまうのですね。

ところで、「動物」だって、欲望を持っていますよね。
本能的な、さまざまな欲望を彼らも持っているはずです。

そうなんですけど、やっぱり「人間」のそれとは、違いますよね。

「人間」から、お金なり気遣いなり労働力なり何なりを要求されるのと、
「猫」から、餌をせがまれるのと、
…全然違いますよね。

餌だって、お金かかりますよ。用意するの面倒ですよ。
自分から何かが削られるに変わりはないですよね。
だけど、「人間」から受ける、「要求」の嫌な感じが、動物からは感じないのですね。

なぜでしょうね。

どうして、特に「人間から」の要求に、私たちは嫌悪感を覚えるのでしょうか。

それは、人間が向けてくる要求の方が、自分が抱いている「それ」と似ているからだと言えるでしょう。

「自分」と似ているから、
自分と同じだから、
嫌で仕方がないのですね。

私の中に抱く、醜くて嫌な「欲望」を、他の「人間」の言動の中に見るのです。
そこに、言いようのない嫌悪感を抱いてしまう。

ということは、より自分独特の欲望に近いものであるほど、気になって仕方がない。
まして、そこに摩擦が生じたらもう、嫌悪感を抱かずにいられないのですね。

同じ人間でも、欲望のタイプは様々です。
子供が、ドラゴンボールのカード集めに夢中になっている姿を見たり、
友達が、自分にはちょっと理解できないマニアックな趣味に夢中になっているのを見たり、
そういう、自分とは全く違うタイプの欲望に触れた時には、なんだか「微笑ましく」見ていられる感じがしますね。
「そうかそうか、良かったな…」
みたいな感じでニコニコしていられます。そんなに気持ちがザワつくことはありません。

だけど、自分のこだわりを持っている事柄に関しての、他人の「ああして欲しい」「こうして欲しい」という要求には、敏感に反応してしまいます。
自分に似た欲望ほど、私の神経を逆撫でしやすいと言えるでしょう。

動物の「要求」は、自分と全く違う生き物の「要求」なわけで、さほど私の心のザワつく要素はないのですね。
その要求も欲望も、その全部が「微笑ましい」対象となります。

だから、よく言われるのですね。
自分に強い嫌悪感を抱かせる人がいたら、それは「自分と似ている人」だと。

「嫌悪」の底に「自己」を観たときに

仏教では、「人間」のことを「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と言われます。
先程からお話している、人間の心中に渦巻いて、「要求」を発さずにいられない「欲望」とは、この「煩悩」の一つです。
「凡夫」というのは、仏教で「人間」のことを言いますので、
そんな「煩悩」に満ち満ちているのが人間だと教えられているのが「煩悩具足の凡夫」という言葉です。

このことを「私のこと」として、ごまかさずに見つめることを、仏教では非常に重視します。
「私の中」に、様々な要求を周囲に放つ「欲望」が、どれほど強く深く渦巻いているか。
それを知れば知るほど、周囲の見え方は変わってきます。

他人にも自分にも、同じ「煩悩」が激しく渦巻いていると知れば、
嫌悪を抱かずにいられない数々の周囲の他人の要求は、他ならぬ「私そのもの」だと理解できます。
「自己を知る」
というとても大切な課題の貴重な材料となっていきます。

そんな、嫌悪を抱かせる他人の「要求」を、
「自分の欲望そのもの」
だなんて、考えたくもないことかもしれません。
それこそ「悪夢」ではないかと、思えるかもしれません。

だけど実は、そう理解できれば楽になれるのですね。

むしろ逆に、
「周囲は、私に理不尽な要求を仕掛けてくる悪者ばかりで、私はそれらの犠牲となる被害者」
という構造を自分の中で造ってしまうと、モヤモヤして心はいつまでもいつまでも続きます。

ついつい、
「私は被害者」
という構図を作れば、どこか安心できるように思いがちですが、これは大きな落とし穴です。
モヤモヤから抜け出せず、イライラが継続し続けて、人の世をより生き辛くさせてしまう構図に他なりません。

周囲のさまざまな「欲望」や「要求」の中に、「私の本性」を見る。
「これらは、私の心中に渦巻く煩悩に他ならないのだな」と理解できる。
そんな自己に向き合った時に、冷静になれて、そして楽になれます。

他者と向き合うと同時に、己と向き合うこと。
これが「要求」渦巻く人の世を生きる上で、仏教が勧める指針です。

そしてその鍵が、「煩悩具足の凡夫」という自己を知ることです。