「大切なものを守りたい」の願いを叶える唯一の道〜「保身」と「惑い」の正体〜

「保身」が身を滅ぼすという皮肉

会社にとって頭の痛い問題の一つが「社員の不祥事」のようで、
コンプライアンスについての研修は、わりと頻繁に行われています。

私も会社で何度も、ケースを通しての学習ということで、コンプライアンス違反のケースを収録した映像を見ました。

そのストーリーの中で、不祥事を起こしてしまう社員が出てきて、もれなくみんな、身を滅ぼして後悔にくれています。
まあ、「だからコンプラを守りなさい」という研修なのだからそういうストーリーになるのは当然ですね。

会社のお金に手をつけてしまったとか
架空の契約をでっちあげて営業成果を捏造したとか
意思能力の危ういお客さんに、十分の理解の無いまま契約を締結してしまったり
書類紛失といった重大なミスを報告しなかったり

そういった不祥事を起こしてしまった社員には、懲戒処分が課されたり、会社や同僚への迷惑から立場を失ったり、
ひどい時には解雇となり退職金も出ず、また「不祥事による退職」という事実がネックとなり次の就職先も中々見つからない。
家庭は崩壊し、大事なものをことごとく失い、人生が大きく狂わされてしまう…

実際に起こっているケースとして、色々な場面が紹介されていました。

このような「身を滅ぼす」事例に共通しているのが、
そういう不祥事に手を染めてしまった動機は「自分の身を守りたい」という気持ちだということです。

膨れ上がった借金で生活が圧迫され、家庭にもヒビが入りそうな危機から逃れたいために、会社のお金に手をつけてしまうとか、
去年度は優秀な営業成績を高く評価されていたのに、今年度に入って営業成績が全く伸びず、自分の立場が危うくなってしまい、その危機から逃れたい余りに架空の成績をでっちあげてしまうとか、
ミスによって上から叱責されたり評価が下がったり責任と取らされたり、ということが怖くて、報告せねばならないことを報告できないとか、

何かしら自分に危機が迫っており、何かを失う恐怖が起きたときに、
「保身の気持ち」が、とんでもない行動を掻き立ててしまう。
「バレなければ、大丈夫だろう…」
という心の囁きと共に、「やってしまえ」と、反社会的行動を起こしてしまう。

やがてその行動が明るみに出て、結局、危機を逃れるどころか、「決定的な身の破滅」を招いてしまっているわけです。

考えてみたら皮肉なことですよね。
必死に「身を守りたい」という思いから起こした行動が、全く逆の、最悪な形での「身の破滅」を引き起こしてしまうなんて。

「保身」が引き起こす「惑い」の正体

「何かを失う」ことに恐怖を感じて、「身を守りたい」という気持ちが極まった時に、
どういうわけか、余計に身を滅ぼすような行動に出てしまうことが、非常に多いのですね。

これは、「保身」の気持ちというのは、「惑い」を引き起こしやすい性質を持っているからです。

「保身」の気持ちの正体は、人間の「欲」の心から出たものと言えます。
仏教では、人間の持つ「煩悩」の中の筆頭として挙げられるのが「欲」です。

「欲」と言えば、お金や物や名誉や異性を、「欲しい、欲しい」と積極的に求めてゆく心が分かりやすいですが、
今、自分が持っている(と思っている)ものを「失いたくない」と守ろう守ろうとするのもまた、「欲」ですね。

儲け話に目を光らせてる人も「欲深い人」と言われますが、
1円も出さずに済むように済むようにと常にケチる人もまた「欲深い」と言われます。
欲しいものを、自分の手元に置こうとする心には、変わりありません。

しかも、どちらかと言うと、いま自分の物となっている(と思っている)物を「失いたくない」という気持ちは、
新たに何かを「欲しい」と求める気持ちよりも、強いような気がしますね。
だから「守りたい」という欲の発動は、必死な思いとなって行動を駆り立てます。

せっかく手に入れた今の立場を失いたくない
彼女を彼氏を自分のもとに繋ぎとめていたい
今の仲間の輪から外されたくない
苦労して稼いだお金を失いたくない

それらを失う痛みは、耐え難いほどひどいもので、その苦痛から逃れたいために本当に必死になるのが人間です。
その必死なほどに極まった「欲」は、人間にある「惑い」を引き起こします。

その「惑い」とは、
「因果の道理を無視する」
という惑いです。

「因果の道理」は、仏教で教えられるとても大切な道理で、
自分の行いの結果は、必ず自分に報いるという法則のことです。
これを「自業自得(じごうじとく)」とも言います。
自分のやってしまった「行い」は、絶対にごまかせない。
バレるとかバレないとか、みんながやってるとかやっていないとか、そんな小賢しい理屈など全く通用しない。
否が応でも、蒔いた種は生えてくるように、行いの報いは自分に現れます。

基本的にはみんな、この道理に従って、
欲しい結果があれば、それ相応の苦労の伴う行動をしますし、
やってはいけない行動は、人が見ていようといまいと関係なく控えるものです。
また、自らの不注意で招いた失態は、自分の責任として受け入れます。

ところが、強い「欲」からでた「保身」の気持ちは、この因果の道理を真っ向から否定する行動を起こさせます。
蒔いた種は必ず生えるのに、それをなんとかウソで塗り固めて生えて来ないように取り繕ったり
「バレなきゃいいだろう…」「結構、他の人もやってることだし」などと理屈をつけて、
やってはいけない行動を、「報いは来るまい」とタカをくくってやってしまったり。

道理に照らせば、自分に恐ろしい結果を招くこと必然の行動に
「まあ、そんな道理もちょっとくらいごまかせるだろう…」
という「惑い」から、踏み込んでしまいます。

因果の道理は、そんな人間の都合や願望でどうにか曲げられるものではないのに、
いついかなる時でも、自分の行いは、必ず自分に報いをもたらすのに、
「ちょっとくらいはごまかせるだろう…」
という心の囁きが、横車を押すような無茶苦茶な行動を駆り立ててしまいます。

仏教で言う「惑い」とはまさに、
この「因果の道理」を無視する心のことです。

「惑い」はさりげなく心中にすべり込む

危機に陥って「保身」の気持ちが強く現れる時ほど、この「惑い」に気をつけなければなりません。
本当にさりげなく「惑い」の心は甘い誘惑となって、
「まあ…ちょっとぐらいごませるよ」
「まあ…これは結構みんなやってることだよ」
と囁きかけてきます。
そんな囁きに「なんとなく」心が動かされ、行動が掻き立てられて、気づいたらとんでもない事に手を染めてしまう。
俗に「魔が差した」というものです。

これは誰にでも起こり得る、人間の持つ「欲望」の発現です。
その「欲望」は、追い詰められたり危機に陥ったり、自分の何かが失われそうになった時に、
特に強く、本性丸出しで動き出します。

それまで築き上げてきた教養や倫理を上手に出し抜いて、恐ろしい行動に自らを駆り立ててしまいます。
だから、誰もが油断できない大敵が他ならぬ自分の中に潜んでいることを自覚することが大切です。

保身から出た甘い囁き=身を滅ぼすサイン

この公式を自分の中に刻み込んでおくことが、何より自分の身を守ることになります。

「あれ?この気持ちは、因果の道理に反しているような…」
と、自分の「惑い」に気づく感覚を養うことがとても大切ですね。
そんな「惑い」の予感が起きたら、即座に立ち止まってください。

本当の「身を守る行動」とは、因果の道理に則って、自分の責任のもとに、なすべき行動を断行することです。
絶対に逃れられない「道理」から逃れようとする行動は、自分の危機をただ深刻なものにするだけです。

自分の心がその「道理」から外れてゆくことが、本当の危機だと理解することで、
「大切なものを守る」ための、真になすべき行動が見えることでしょう。