誰もが「生きている」だけで最も価値ある探求ができる〜「探究心」の向かうべき先〜

「知る」ことを「愛してやまない」人たちの凄さ

「哲学」のことを英語で「フィロソフィー」と言いますが、
これは「フィロ」と「ソフィー」という2単語の組み合わさった言葉で、
「知を愛する」という意味なのですね。

「知る」ことをこよなく「愛する」
そういう学問が哲学だということです。
いまだ自分の知らないこと、分からないことを、
とにかく知りたい
とにかく探求せずにいられない
それはもう「何のため」とか「どんなメリットがあって」とか、そんな事は問題にならない。
知りたいから探求する。
そこに意味や理由など必要ない。
そういうのが「知を愛する」ということなのでしょう。

「好き」という感情はこの上ないモチベーションかもしれません。
好きな漫画の事だったら、キャラクターの名前はもちろん、特技や性格やセリフに至るまで、とても正確に記憶できてしまいますよね。
私も子供の頃、とにかく漫画のセリフをやたら正確に覚えている事を、親に呆れられたことがあります。
「あんた、ようそんなに一言一句覚えてるな…」
これは「好きだったから」これに尽きますよね。

これが、学校で習う歴史の人物や理科の元素記号だったりするとこうはいきません。
残念ながらこれらには愛着を抱くことはできませんでしたから、そんな知識を頭に詰め込むことは苦痛でしかなかったわけですね。
だから、一夜漬けで覚えて、一夜で忘れてしまう…
そんな残念な勉強になっていたような気がします。

ところが純粋な「哲学者」たちは、凄いわけですね。
純粋に「知を愛する」人たちですから、知らない真理の探求が好きでたまらない。
「覚えられない」とか「すぐ忘れてしまう」なんてことで悩んでいる学校の勉強とは、まるで違います。
強烈に「知りたい」と求めて、その結果「知り得た」ことなのだから、それを「忘れてしまう」なんてちょっと考えられないでしょうね。
「知る」ことを「愛してやまない」
これ以上に学問に打ち込むモチベーションはないでしょうね。
だから、哲学者たちは本当に頭が良かった。
そしていろんな分野の知識に通じていることが多かった。
それは、「記憶力」や「理解力」が凄かった、という事もあるかもしれませんが、
きっとそれ以上に「愛してやまなかった」「好きだった」という要因の方が大きいような気がします。

「好きになれたら強い」
これは、仕事でも勉強でも家事や掃除でもファッションでも、何にでも言えそうなことです。
成果を出したければ、好きになれ。
「哲学者」たちから学ぶ事の一つかもしれませんね。

飽くなき探究心の向かう先は…

そんな飽くなき「探究心」は、いろんな分野に及んだでしょうが、
そんな「哲学」の大きなテーマが、
「汝自身を知れ」
という古代ギリシャの有名な格言が示す通り、
「『自分』とはどんなものか」
このことを、徹底的に追求して知ろうとすること。
なんといってもこれが重要なテーマとなります。

ここがまた、仏教と深く通ずるところで、
「仏道を習うは、自己を習うなり」
という言葉もあるぐらいに、
仏教はまた、「自己」を徹底して知らしめる学問だと言えます。

この「自己を知る」を、もっと掘り下げて言えば、
「よもすがら、仏の道を求むれば、我が心にぞたずね入りぬる」
という古歌が示す通り、
一心不乱に仏道を求めて、勉学に励んでゆくと、行き着いた先は「我が心」
「己の心」に向き合う事となったのだと言われるのですね。
私の「心」とは、人間の「心」とは、どんなものなのか。
このことを徹底して探求してゆくのが仏教だということです。

「知りたい」と思うことは、人それぞれ色々あって、
スポーツの分野に興味があったり、
科学の分野に興味があったり、
微生物の分野に興味があったり、
アイドル業界に興味があったり、
共通の興味がある人同士だったら、心から共感できるのでしょうが、
「一体それの何が面白いのか…」
と思う物事への探求には、共感のしようがありません。

ですが、
誰もが共通して「知りたい」と求めずにいられないのは「自分自身」である。

この事は誰も否定のしようのない事なのですね。
「いや、私は自分の事なんて見たくないし考えたくない」
そういう人もいるかもしれませんが、感情的にそんな思いになることはあっても、
私達にとって一番大切なのは、やはり何といっても「自分自身」
これは、どれだけごまかそうにも、ごまかしきれない共通の本音です。

「知りたくない、見たくない」
というのも、ある意味、無視できない気持ちの裏返しであり、
気になって仕方がない事は何よりも「自分自身」の事なのですね。

「人生」は最も価値ある探求の場

しかしやっかいな事は、「心」が目に見えないという事です。
自分の「肉体」なら、鏡に映せば見ることができますが、「心」は鏡には映りません。
他ならぬ「自分の心」なのに、自分で見えない、自分で分からない、これは何とももどかしい事です。

「他人の心」が見えず、分からないのはまあ、仕方ないでしょう。
だけど「自分自身」の事なのに、それが自分で知り得ないとは、どうしたことか…
だけど現に、そうなのですね。

私がこういうテーマの話を人にしている時に、
「だけど、中には『いやいや、自分の事なのだから、自分が一番よく知ってるよ』と思う人もいるかと思うけど…」
と言うと、
「いえいえ、自分の事はなかなか分からないなあ…と感じますよ」
と答える人ばかりなのですね。

もちろん、そうは言ってもみんな「自分」に対する理解や認識やイメージはあるはずです。
それぞれに「自分像」は抱いているでしょう。
それなのに「自分の事は分からない」と思うのは、
その「自分像」は、自分のごく一面に過ぎないのであって、
自分では見られていない、知ることの出来ていない「自分」がどれだけあるか知れないという事なのですね。
また中には、自分でも得体が知れないと感じる「心情」が湧いてきて、その心に動かされる行動をしてしまって、
「自分って本当に、何なんだろう?」
という事をかなり生々しく感じているような人もいます。

みんな、それぞれに根拠があって、
「自分のことは分からないな」
という思いを抱いているのですね。

そんな「未知」なる「私の心」を、私達はどのようにして知ることが出来るのでしょうか。
その点、仏教ではその「心」について、万人に通ずる表現で非常に詳しく言葉にして教えられています。
仏教では私達の心の本質「煩悩」であると教えられ、その煩悩の実態を詳しく解き明かされています。
文字通り「煩い」「悩み」の心であり、常にそんな「煩わせ」「悩ませる」心がその奥底で渦巻いているという実態が、
私達にはあるということです。
「穏やかで、何事にもこだわらない静かな心」
そんな心になれたなら、そんなに煩うことも悩むこともないのかもしれません。
ですが、そうと分かっていても、自分でもどうにもならない「心」が確かにありますね。

そして、その「心」だけは、どうにも制御が叶いません。
「口でしゃべるな」と言われれば、(実際はそれも難しい場合が多いですが)頑張れば出来そうですね。
「体での行いを慎め」と言われれば、これも制御の余地はいくらでもありそうです。
だけど、
「心で思うことを止めなさい」と言われても、どうしても思えてしまう「心」をコントロールし制御することは困難を極めます。
そう努めようと努めるほどに、吹き上がってくる「心」がどうにもならない事を知らされるばかりなのですね。

自分の「行い」に最も気を配り、とことん「行動」にこだわって努めてゆけば、
必ずその「行動」を起こす「元」となっている「心」に目がいきます。
そしてその「心」の有様を、まざまざと知らされる事になります。
大事な事は、その「心」から目をそらさないこと、ごまかさない事です。

「そうか、これが『煩悩』なのか…」
仏教ではハッキリと言語化されて教えられている、その教えと、実際の自分の心とを照らして、ごまかさずに観つめてゆくこと。
その結果、驚くほどに激しい「煩悩」の実態が知らされてゆくこととなります。
それは、「見たくない」「知りたくない」と感情的に拒んでしまうような事もあるかもしれません。

だけど、一番苦しいのは、
「得体の知れないまま放置して、その得体の知れないものにずっと翻弄され続けること」
です。

「知る」ことに対する恐れもあるかもしれませんが、
それを乗り越えて、ごまかさずに向き合うことを、日頃の実践を通して努めたならば、
「本当の自己と向き合って生きてゆく」という、最大の「知りたい」を叶える道が開かれることでしょう。