「頑張るほど損する気がする」となぜ思ってしまうのか~「道」を見失う時~

「頑張っている」私って、ウザい?ダメなの?

真面目に仕事を頑張っている。
責任感も人一倍強く持っているはず。
不満や文句だって、一度も言ったことはない。

自分なりに、「これ以上どうすればいいのか」ってくらい頑張っているつもりなのに…

なのに、周囲の人たちからはどうも、疎まれているような気がする…
どうしてか、自分の努力や力量が評価されていない気がする…

現実は、「理不尽」と感じることに溢れていて、
「一生懸命がんばっているはずなのに、かえって逆境に陥ってしまう」
と感じることが決して少なくないのですね。

そういう時に、「因果応報」の道理が疑わしくなってくるかもしれません。
「原因に応じた結果が、自分に報いる」
「自分の行いに応じた結果が、間違いなく自分に返ってくる」
…とは言われるけれど、本当にそうなのだろうか。
この事が道理だと言われても、あまりにも酷な事だと感じますね。

それとも、どんなに頑張っても、自分自身がダメなんだろうか…
己自身に、自ら「ダメ」の刻印を刻んでしまったりするかもしれません。

だけどこういう時に、自分の頑張っていること、努力していることを否定しなきゃいけないことはないのですね。
確かに、もしかしたら、せっかく頑張りや努力が光っているのに、
同時に無自覚に周囲に嫌な圧をかけてしまっているという可能性も否定はできません。

「頑張っている」「努力している」という状況に内包するリスクは確かにあるのですね。
その頑張りを他人に誇示してしまっていたり、
その努力を背景に他人に何かを強要するような圧をかけていたり、
周囲に対して批判的な態度をとってしまっていたり、
いわゆる「驕り」や「慢心」からくる、「ウザさ」を放っているような場合もあります。
せっかく「努力」という素晴らしい種まきをしていながら、
同時に他人を見下ろしたり、他人に干渉したり圧をかけるような行いもしていて、
「嫌われる」ような種まで蒔いてしまっているというのなら、やはり原因は自分にあると言わざるを得ません。

けれど、それによって「努力」や「頑張り」そのものまで否定されるものではありません。
その蒔いた種だって、その時すぐに現れていなくても、必ずそれ相応の結果が自分に現れるというのが因果応報の道理です。
ただ、その善い種のウラで、自分の首を締めるような種まで蒔いてしまっているという事は珍しくはありません。
「反省し、改めるべき部分はそこだな」
と、より自分の「努力」の仕方を洗練させてゆくきっかけとすればいい訳です。
そこで、
「どーせ、どれだけ頑張っても私は報われないんだ」、とか
「自分の行動は、どうせ全て悪いんだ」、とか
「因果応報」の全否定、「私そのもの」の全否定
そんな極端な惑いに陥らないことが大切なのですね。

私はどんな報いが欲しいのだろうか

一言で「努力」や「頑張り」と言っても、それによって目指すものはさまざまです。
「普段関わっている仲間内で仲良く楽しく過ごせればいい」
「もっと抜きん出て、人一倍出世したい」
「いつか、今の職場を離れて独立起業をしたい」
「自分の好きな趣味に、出来るだけ多く時間を割きたい」
自分はいったい、どんな結果を望んでいるのか。
どんな結果を求めての「努力」や「頑張り」を、今しているのか。

私達は時折、そのことを忘れることがあります。
自分の置かれている環境の中で、余裕がなくなってきて、目の前の仕事や問題に次々と取り組まなきゃいけなくて、
とにかく「頑張らなきゃ」「努力しなきゃ」「今のままじゃいけない」という、「今の頑張り」に追われてしまうことがあります。
「その頑張りで、何を得ようとしているのか?」
それを忘れて、
「ろくに頑張っていない人たちが、なんだか楽しそう…」
だとか
「もっと周囲から感謝されても良さそうなのに…」
だとか、
目先の、それもちょっとした「他人の結果」が、やけに目に付きます。
そして「こんなに頑張っているのに…」という不満ばかりが出てきています。

そんな時こそ改めて、
「自分はどんな結果が欲しくて、どんな報いが欲しくて、そんなに努力しているのか?」
を問い直してみることが大切です。
目に映る「他人の姿」のような「楽しみにみえるもの」を求めて、自分は努力しているのか?
自分自身の奥底から求めてやまない「結果」があるからこそ、自分はこんなにも頑張っているのではないのか?

そうすると、
「自分は報われていない」
と思う必要など、どこにもないことに気が付きます。

自分の本当の願望でもなくても、自分にないモノを持っている他人の姿は、善い結果を得ているように見えるものです。
隣の人がカップラーメンを食べ始めたら、やけに美味しそうに見えるのと同じです。
別に、「カップラーメンを食べたい」なんて、心から求めているものでも何でもないはずですよね。
食べたければ、100円ちょっと出して買えば食べられます。
ジャンクフード特有の、「刺激的な旨さ」に瞬間的に酔いしれることができます。
だけど、それだけのこと。
瞬間で終わりです。
私が「心から求めている結果」でも何でもないはずです。
現実はそうなのに、他人が食べていると、やけに羨ましいのですね。

相対的な「他人の幸せそうな姿」に振り回されて、
時に自分が「どんな結果を求めているのか」を忘れてしまうことがあります。
そして、自分が進むべき、「因果応報の道理」に則った道を見失ってしまうのですね。
カップラーメンのような瞬間的な楽しみではない。
もっと、明るい未来につながるような、自分で誇れるような、強い願望に向かっているからこそ、
「努力」しているわけですよね。

頑張っている時ほど起きるモヤモヤの正体は…

周囲に溢れている、楽しそうな「他人の姿」のような、
あの結果も、この結果も、あれも、これも…
みんな欲しい、なんてことを私達は本気で思ってしまいます。

考えてみればそれは全然現実的ではないですよね。
冷静に考えたら、そんなもん、みんな両立するはずありません。
私達の欲望がいかに見境がないか、ということです。

とにかく目についたらすぐに、火がついてしまう。
「縁」によって、どう燃え上がるともしれないのが人間の欲望というものです。
これは、仏教で教えられる、人間が一人一人持っている108つの煩悩の中の筆頭に上がる「欲望」ですから、
それだけ私達を振り回し、文字通り「煩わせ」「悩ませる」ものです。
そして何より恐ろしいのは、それによって「因果応報の道理」に則った道を見失うという「惑い」を起こすことです。

道理もへったくれもなく、
「欲しい、欲しい、あれも、これも、もっともっと…」
と動きづくめの「欲望」が、確かに自分の心の奥底にある。
このことを自覚すれば、心中に沸いてくる色々な「モヤモヤ」は、煩悩の「惑い」ではないかと気づくことができます。

因果応報の道理は、
「行い(原因)に応じた結果が、自分に報いる」
です。
じゃあ、私はどんな「報い」を求めているのか?
どんな「報い」を目指した「努力」をしているのか?

本当は心から求めるものではない、相対的な羨ましさを前に、
「こんなに頑張っているのに…」
というモヤモヤを起こしているに過ぎないのかもしれません。

もし、カップラーメンを食べる楽しみを得たいのなら、
今している努力を中断して、小銭を容易してコンビニへ行かなければなりません。
だけど、それをせずに、自分の目指すもののための努力する道を選んでいるのは、他ならぬ自分自身です。
カップラーメンを我慢するのは、そのための代償ですよね。

自分のたどり着きたいところへ向かって、自分の歩みたい道を歩んでいる。
ならば、周囲にチラホラ見える「羨ましさ」に向かっての別の「行動」をしないという選択をすることが、いくらでもあります。
当然、そういう「羨ましい」結果は、自分には来ないでしょう。
いやもちろん、以外な「報い」という形で来る可能性もありますが、あまり期待すべきものではないでしょう。
そういう「代償」を覚悟して、自分が心から望む目的へ進んでいるはずなのですね。

私の努力はあくまでも、私が心から目指したい結果に向かってするものです。
その努力を他人に誇って、優越に浸るためでもなければ、
チラホラ見える、他人の羨ましい姿を得るためでもありません。
因果応報の道理にそった道を、堂々と歩めばよいのですね。
その「道」を心にハッキリ描けさえすれば、モヤモヤは自ずと引いてゆくことでしょう。