「他人の敵意」に恐れて生きる自分に必要なものは…〜変わらぬ心の軸〜

最大のダメージは「他人からの敵意」

風邪を引いた時には、悪寒、鼻水、喉の痛み、咳…
さまざまな「苦痛」に苛まれるのですが、
その原因はご存知「ウィルス」に侵されて、攻撃されているからですよね。

風邪のウィルス入り込まれて、体内で様々な「悪さ」をして、
身体的に様々な損害を被って苦しんでおります。
ある意味、ウィルスから相当に酷いことをされている「被害者」となってしまっています。

ですが私達の思いは、
「あーあ、風邪ひいちゃった…」
くらいなもので、そんな酷いことをされて落ち込んだり、心が傷つくようなことはないですよね。

夏の時期、蚊が部屋の中に侵入していて、体のあちこちを刺されて血を吸われ、
痒みと腫れとで苛まれる事があります。
「蚊」という生物の攻撃を受けて、これまたかなり酷いことをされていますよね。
「刺される」「血を吸われる」
これはなかなかの攻撃です。

だけどこんな場合でも
「あーあ、蚊に刺されちゃった、こんなにも何箇所も…」
そんな程度のものであって、別に「蚊からいじめられた…」と深く傷ついて落ち込むようなことはないですよね。

それは、ある意味自然の法則のようなものと心得ているからでしょう。
ウィルスは、人間の体を攻撃するものだし、
蚊は、人間の体から血を吸うのが生物としての自然な営み。
私はたまたまそれによって、多少の損失を被っているだけのこと。

まあ納得できることだし、割り切れますよね。

だけどこれが、同じ「攻撃」でも、「他人」によってなされた時は、
「あーあ」では済まされない、深い心の傷と負うことになります。

他人から何かしらの攻撃を受けたときは、
その攻撃による実質的な「損失」に加えて、その何倍もの「心の痛み」を私達は負うこととなります。
それは、
「他人から強い悪意を向けられた」
という、対人間の独特の心の痛みです。

もちろんその攻撃を、友達から受けたり、家族から受けたりした時のダメージは計り知れないのですが、
たとえ、見知らぬおじさんや、時に子供から受けたときにも、
結構、それなりの心のダメージを受けるのですね。

その場限りで、場に居合わせた見知らぬおっちゃんから、
「お前、何考えてんだ!」
と、自分の行動を咎められて怒鳴られた場合、
別に殴られたり蹴られたりしたわけでなくても、そんな怒鳴り声を浴びせられたことだけで、結構な精神的ダメージを負ってしまいます。
その何倍もうるさい騒音で不快な思いをするよりも、
その「他人」から、敵意を込めた怒鳴り声を浴びせられる方が、私達の心には強く堪えのですね。

他人からの敵意や悪意
それは、「私自身の人格」を否定されたような感覚に、どうしても陥ってしまいます。
そのダメージが大きいのですね。
そして、そんなダメージを与えられるのは、人間である「他人」だけです。

「自分」に対する強烈な執着が裏切られる恐怖

人間の「人格」を否定し、損なわせることができるのは、人間だけ。
そう考えると「他人」というのは非常に強い影響を私に及ぼすものです。
だからこそ、「他人が怖い」という感覚を抱くのは、もっともなことです。
唯一「私」を否定できる存在だからです。

仏教では、そんな「他人」を、「鏡」のようなものだと喩えて教えられます。
「鏡」は、「自分」の姿を映して見せてくれるものです。
自分のこの二つの眼では、「自分自身」を直接に見ることはできませんから、
私達は「鏡」に映してもらって初めて「自分」の姿を見ることになります。

だから「鏡」は、気になりますよね。
目の前に「鏡」があって、「自分」が映っていると、とりあえず気になる。
「どんな姿なのかな…?」
思わず目を引かれてしまいます。
「好きな人」の姿を見たときも、目を惹かれますけど、
「自分の姿」を見せられると、もしかしたらそれ以上に目を惹かれるかもしれません。

それぐらいに私達は、「自分」ほど興味があるもの、気になるものはありません。
それは、ただの興味本位ではありません。
「切実」な思いで、「私はどんな者なのだろうか…」という事を気にしてしまうものです。
そして「良いものであって欲しい」という強烈な願望を抱いています。
その期待が裏切られる事に対して、私達は異常なほどの恐怖を抱いています。

その期待が裏切られることを恐れるあまり、初めから「自分なんて…」と、あえて自分を貶めるような事さえもしてしまう。
これもある意味、「自分」に対する強烈な執着の現れと言えるかもしれません。
それでも、どんなに防衛ラインを強いても、
「自分」に対する感情の浮き沈みは、なかなか防ぎようがありません。
自分が嫌になって苛まれることもありますし、
自分がイケてるように思えば浮かれてしまうこともありますし、
恋愛の悩みの浮き沈みも大変ですが、それ以上に「自分」に対する悩みの浮き沈みは激しく、
そして生涯に渡って逃れがたいものでもあります。

そんな「自分」を、映して見せる、「鏡」のような存在が他人…
だとしたらそれはまた、恐ろしい存在とも言えます。
他人から悪意や攻撃的態度を受けるということは、「嫌な奴」として、私の姿を映して見せつけてくるというわけです。
これは、強烈ですよね。
ただでさえ、自分に対して気になって気になって、浮いたり沈んだりしているところに、
「お前はこんな姿だ!」
と、鏡のように映して突きつけてくる「他人」
そんな「他人」が気になったり、怖かったりするのは、そのまま「自分」に対する執着の現れとも言えるでしょう。

「変わる」鏡と「変わらない」鏡

私達はそれほどに、「他人」という鏡に映っている自分の姿が気になって仕方がないのですが、
そんな私達の切実な思いとは裏腹に、
他人は他人で、勝手な都合でそこに移る私の姿をコロコロと変えてきます。
「私の姿」は、他人の「心」に映っておりますから、その「心」が変われば、私の姿もまた歪み、変えられてしまいます。
こういう他人の心変わりにも、私達は本当に煩わされますよね。

こっちはこんなに気にしているのだから、せめてちゃんとしっかり映しておいて欲しいものですが、
そんな私達の切なる思いなどお構いなし。
昨日、今日、明日と、他人の心はどう変化するか分かりません。
日々、私の姿を、種々に変化させて映して見せてくる他人…
考えてみれば煩わしいこと極まりない事ですよね。

だけど、私達はそんな「他人」の中で、生きていかなければなりません。
また、そんな「他人」がまた、私達にとってはかけがえのない生きがいであることも否定できません。
どれだけ「私の人格」というコアを否定されようが、傷つけられようが、
それでも他人と関わって生きることを止められないのが私達人間です。

そんな私達に差し出された「変わらない私の姿を映す鏡」が、仏教です。

仏教は、「変わらない私の姿」を映す鏡です。
他人の都合がどうあろうと、
私の思いがどうあろうと、
他人に貶されて否定されていようが、
他人に褒められて持ち上げられていようが、
自ら、自己嫌悪になっていようが、
自ら、自信過剰になっていようが、
そんなものに一切影響される余地なく、変わらない「私の姿」を、
常に、ハッキリ示してくれている鏡が、仏教です。

その内容こそが「煩悩」なのですね。
「煩悩」を知るということは、変わりようのない私の姿を知るということです。

…と聞くと、
「それって、かなり否定的な内容なのでは…」
と思われるかもしれません。
確かに「煩悩」は決して、「清らかでなもの」とは教えられません。
むしろ、醜く汚く恐ろしく、そして煩わせ続けるものと説かれています。
そして、そんな「煩悩」に満ち溢れているのが人間と、仏教は説きます。

けれどそれは、
「貶している」ことでもなければ
「自己嫌悪に陥っている」ことでもありません。
「貶す」「自己嫌悪」も、それは相対的な評価としてなされることです。
「誰か」と比べたり、「過去の自分」と比べたり、
そんな「比較」によって、貶められたり、持ち上げられたりするものです。
これが人間同士の評価であり、「他人」という鏡に映る姿の本質です。

しかし仏教の鏡に映るのは、そんな「他人」や「過去の自分」との比較などではありません。
他人がどうあれ関係ない。
これまでの自分がどうあれ、関係ない。
というより、他人も、自分も変わらない。
いつの自分だって、変わらない。
普遍的な、絶対的な人間の姿を、「煩悩に満ちた存在」と説いています。

それを理解することは、確固たる「自分への視点」「人間観」を確立することであり、
自分への感情がどれだけ浮かぼうが沈もうが、決してブレることのない「軸」を、心中に築かれることなのですね。
それは、「自分への感情」が、生涯に渡ってかき乱されるこの人生をたくましく生き抜く、力強い支えとなることでしょう。