「こんなに勉強もスポーツも頑張っているのに…」と嘆いていた日々
私の中学・高校時代は、
「勉強とスポーツさえ出来ていれば、学生時代も将来も上手くいく」
と、深く信じているフシがありました。
昔から、一つにこだわりはじめるとそればかりになってしまう所があって、
とにかく
学校の勉強でいい成績を取ること。
運動神経を伸ばすべく、トレーニングを怠らないこと。
この2つにばかり、一生懸命になっていました。
ファッションや、髪型にも無頓着で、コミュニケーションも不器用で、
「それでも、勉強とスポーツができていれば、大丈夫。」
それが出来ていれば、友達からも必要とされるし、モテるだろうし、将来にもつながってゆくはず。
そんな、ある種の「盲信」があったのでした。
確かに、「学業」と「スポーツ」は、学校でのメインとなる営みには違いないですが、
その2つで「人生そのもの」が上手くいくと考えるのは、あまりにも短絡的だったわけですね。
それが出来ることだけで、
友達の間で人気者になれるわけでもないし、
異性にモテるわけでもないし、
必ずしも学校生活が楽しくなるわけでもないし、
将来、生きていく力が必ずしも養われるわけではありません。
それらが達成されるための、「ほんの一部」の要素でしかなかったのですね。
そんな「ほんの一部」だけのために、他の要素の努力を怠って、
「自分はこれだけ学業とスポーツを頑張っているのだから大丈夫」
という安易な安心に浸っていようとしていた。
これが実態だったのですね。
確かに、学校の成績は、かなり順調に伸びていました。
こういうのは、学校の方で
「これをやっていれば大丈夫」
という「宿題」やら「テキスト」を与えられて、
そして本当に、「それさえしっかりやっていれば」大丈夫だったのですね。
「やるべき事をしっかりやっていれば、確実にいい結果はついてくる」
という事を学業の経験を通して学べた。
それはもちろん、いい経験と自信を得られたことに違いありません。
ただ、その時には気づけなかったのですね、
「これをやれば大丈夫」なんて親切なものが用意されているのは、「学校の勉強」の分野ぐらいだということに。
「学校の成績」という結果は、あらかじめ大人たちが決めた結果なのですね。
なので、そんな「設定した結果」へ至らせる「道」もまた、大人側で用意できるわけです。
「これを覚えて」
「これの仕組みを理解して」
「この仕組みを色々な典型問題で使いこなせるようになって」
そういう事を身に着けさせる「テキスト」を作ることが出来て、
「これさえ頑張っていれば大丈夫」
というモノが容易に与えられるわけです。
学校にいる間は、大人が設定した結果へ、大人が設定した「道」をただ歩いて、
「優等生」となって、高く評価されるということが、「学業」の分野においてなら可能でしょう。
ところが、私達が人生で求めている「結果」は、
そんな「大人が用意して設定した結果」などではないはずです。
「本当に満たされた、幸せな人生」という結果には、
「これさえ」やっていればいい
なんて安易な努力でつかめるものではないのですね。
「これさえ頑張っていれば」が命取りに
先程、私は「学業とスポーツを頑張っていた」と言いましたが、
実のところスポーツの分野では、結果は「パッとしないもの」と言わざるを得ないものでした。
中学と高校の間、私はサッカー部で、ひたすらサッカーに打ち込んでいました。
「やる」と決めた練習はとことん頑張ったつもりでした。
走り込みやトレーニングも、相当やっていたと思います。
その結果、
ダッシュ力、キック力、持久力、ドリブルのある程度の技術…
これらに関しては、かなり磨いたつもりでした。
ところが試合に出ると、それらの「持っているモノ」の割に、活躍ぶりは実にパッとしないものだったのですね。
レギュラーになれず試合に出られないことさえもありました。
サッカーは、「学校の勉強」のようにはいかない分野だったのですね。
ダッシュ力、キック力、持久力、ドリブルの技術
たとえこれらがとことん秀でていても、
それは試合に勝つために必要な「ほんの一部」だったのでした。
世界中が熱狂するぐらいのこの奥深いゲームには、もっともっと数知れない要素が散りばめられていて、
それらに目を向けられる視野の広さが、いい選手になるためには必須なのですね。
自分の狭い視野で、
「これをやっていればいい」
なんて安易に考えて、いくらその努力ばかりをしていても、決していい選手になれる道理がないのですね。
「努力」をすることは出来ても、
「努力すべき対象を見つける視野」が絶望的に狭かった。
これが、
「こんなに頑張っているのに上手く行かない…」
なんて泣き言を言わなきゃいけなる根本的な原因だったのでした。
「この分野を頑張っているから、私は大丈夫」
こういう盲目的な安心に陥ってしまいがちなのは、私だけではないと思います。
仕事さえ一生懸命頑張って、会社に「仕事のできる人」と認められていれば大丈夫。
この資格さえ取れれば、自分の将来は大丈夫。
この職人技術さえ身につけられれば、幸せな未来が約束される。
「これさえやっていれば…」の思考は、確かに楽かもしれません。
本当にそう信じることが出来て、一つのことに打ち込んで安心していられるのは、心地よい所もあります。
現に私は、そうでした。
けれども、そんな安易な安心に陥っていては、シビアな現実を前にただの「自己満足」に陥っている事を思い知らされるハメになってしまいます。
現実は千変万化し、その現実を乗り越えるための必要な「手」が次から次へと現れてきます。
「私はこれをさえやっていればいい」
という「こだわり」は、現実に即した新たな「手」を打っていかなければならいシビアな現場で、命取りとなりかねません。
「この技術は万能」
「この資格さえあれば無敵」
「この会社にさえいれば安泰」
という盲信から、目を開いて、
「どんな立派な要素であっても、それはあくまで『一部』なのだ」
という視点を持つことが必要なのですね。
複雑極まる「人の世」に向き合うには
仏教では、どんな結果も因縁が揃って初めて生ずると教えられます。
それも、複雑に絡み合った、色々な因縁が、一つの結果を生み出しているのが実態なのですね。
そのいずれか一つでも欠けると、その結果は成り立たないと言えます。
そんな結果を意図的に起こそうとするなら、
「これさえやっていればいい」思考では、とうてい「本物の結果」は得られないでしょう。
「いい会社で働いて、いい役職につけている」とか
「立派な資格を持っている」とか
「こんな専門知識を持っている」とか
そういう結果を得ることは出来てでも、
私達一人一人が望むような安心や満足に満ちた人生は、その要素「だけ」で成り立つものではありません。
仏教では、私達の生きる人間世界のことを「煩悩林」と呼ばれます。
「煩悩」とは、欲望やら怒りやら妬みやら…
人間の様々な感情を引き起こす、煩いや悩みの元となっているものが文字通り「煩悩」です。
一人一人がそんな煩悩にかられて、様々な感情を起こし、それらがお互いぶつかり合って、「世間」は展開されていきます。
そんな「煩悩の林」とも言うべき「世間」を渡るために、
「この知識だけで大丈夫」
「この立場だけで大丈夫」
というモノは、ありません。
人間が引き起こすいざこざは、新たな新たな、思わぬトラブルとなり、その度に悩まなければなりません。
そして、その現実に向き合い、その現実に即した手を打っていかなければ、乗り越えていくことはできません。
常に様々な「因縁」を揃えて、千変万化する現実を切り開く「道」を作っていかねばなりません。
より複雑化した、より激しく「煩悩」がせめぎあう現代だからこそ、
全ての本質である「因縁」の道理をよく理解して、広く「因縁」に目を向ける視野を持つことが、未来を拓く最も大切な土台となることでしょう。