何のために生きているのか、見失わないために〜本物の結果の因縁〜

一体、何のために生きているのか…

「この瞬間のために、私は生きてきたのか…」
そう思える時があるとすれば、それはきっと心からの幸せを味わった時だと思います。

人それぞれ、願っている事は様々で、
「もっとあの人と仲良くなれたら…」
「あの資格さえ取れたら…」
「子供の受験が上手くいけば…」
「もっと仕事がデキるようになれたら…」
一体何のために自分は頑張っているのか、生きているのか。
この問いに対して、自分は「これだ」というものが、きっとそれぞれにある事と思います。

けれど共通しているのは、
「そんな自分になった時、心から幸せを感じているだろう」
と思っている事です。

嫌いな自分になんか誰もなりたくありませんし、不幸せな現実なんて誰も欲しくありません。
自分が好きでありたいし、幸せを感じていたい。
まさにそのために、「生きる」わけですね。

ということは、仮に自分の願望通りに、
「家族」「能力」「財産」「仕事」…
そんな手に入れたいものを持つことが出来ても、
欲しいものに囲まれた生活をしていても、
肝心の「自分」が幸せだと感じられていなければ、目的を果たせたとは言えないわけです。

色々な願望を持ち、色々なモノを求めて生きているのは、
それが叶えばきっと、心から幸せだと感じられるはずだと、「信じている」のですね。
「本当に幸せを感じられているかどうかは、なってみなければ分からない」
という意味では、「信じる」しかありません。

「経済的自由」「温かい家庭」「好きな仕事」…
これらを手に入れられるかどうかは、それなりの方法論や道筋があって、
その通りに実行してゆけば手に入れられるという事は、多くの実例を見てある程度確信できます。

だけど、本当にそれらを手に入れた自分は幸せなのかどうか、
これに関しては「信じる」他ないわけですね。
それらの現実を手に入れている「他人」が、「幸せそうにしている」のを見ても、
あくまで外見上幸せそうにしているだけのことです。
本当に幸せなのかどうかなんて、本人にしか分かりません。
仮にそうだとしても、自分も同じように幸せを感じられるかどうかは分かりません。

そう考えると、肝心なところで、かなり不確かなものを信じているのが私達の生き様の実態なのですね。
目的としている「幸せ」という「結果」に関しては本当に、あやふやな理解をしていて、
「なんとなく信じている」というのが正直な所なのかもしれません。

日常に潜む「相対」の幸せを積み重ねたなら…

いまの自分の日常の生活の中で、
「幸せだなあ…」
と心から感じられる時は、あるでしょうか?
朝起きてから、夜寝るまでの間に、どうでしょうか。
例えば、「朝から夜までは会社で仕事をしている」という平日なら、

朝、起きた瞬間…これはちょっと、ないでしょうかね。
通勤時間は…
会社に到着して仕事を始める時は…
仕事の最中は…
なんだかいずれも「忍耐の時間」という感じですね。
そんな「忍耐の時間」がようやく終わって、会社から出て帰宅する時
この時は、「忍耐から解放された」という幸せを実感しながら帰っているかもしれません。
帰りを待つ家庭があり、その「家族との時間」に幸せを感じている人、
家庭を持たずに、一人で気ままに好きなことをして過ごせる時間に幸せを感じている人、
いずれも、日中の「忍耐」から解き放たれて、のびのびと過ごせる幸せな時間ですね。
そして、お風呂に入って、歯を磨いて、布団に入って、ぐっすりと眠る。
この瞬間は、大きな幸せを感じられる時ですね。
そして、朝が来て目が覚めるとまた「忍耐の連続」が始まって…

こんな風に見ていくと、常に私達は幸せを「相対的に」感じています。
相対的な「変化」の中に、幸せを実感するのが人間なのですね。

「こうなったら幸せ」
なんて現実があるわけでもなくて、
大金持ちになろうが、貧しい暮らしに甘んじようが、
家族と暮らしていようが、独りで暮らしていようが、
そんな日常の中の様々な「変化」の中に幸せを見出してゆく
という生き方をしているのが実態なのですね。

「あーあ、あれが手に入ったら幸せなのになあ…」
という、遠い先の大きな変化に思いを馳せている間に、
日常に潜む数多くの「変化」をスルーして過ごしているのは、
もしかしたら人生で感じられる幸せの大部分をフイにして生きているのかもしれません。
「特別な大きな変化」「日常に潜む数多くの変化」と、
どちらにもバランスよく目を向けられる視点を持つことで、感じられる幸せの総量は劇的に変わります。

「幸せそうな情景」が本物か偽物かは「因縁」次第

「こんな現実を手に入れたら幸せになれるのに…」
これは、想像している「結果」に目を向けている状態ですね。
そりゃあ、私達が欲しいのは「結果」なので、そこに目を向けるのは当然といえば当然のことです。

ところが皮肉にも「結果」に目を向ければ向けるほど、
本当に手に入れたい「幸せ」を見失いがちなのですね。
だからこそ、仏教では「原因」に目を向けることを教えられます。

「因果応報(いんがおうほう)」という仏教の教えは、
「原因」に応じた「結果」が報いるのであり、肝心なことは、「原因」を造り続けられているどうかである、
ということを示唆しています。
この「原因」とか「因」と言われるのが、私達の「行い」です。

お金があるとか、家庭があるとか、いい会社に所属しているとか、
そういった事実はいわば「縁」であって、
たとえ恵まれた「縁」に囲まれていても、肝心の「因」がなければ、
その「縁」の中でも幸せは感じられないのですね。

「縁」に恵まれた状態というのは、とても分かりやすい「幸せそうな情景」なのですが、
本当に幸せをその人が感じられているかどうかはその人の「因」次第であり、
それは他人には分からない部分でもあります。

「努力は決して裏切らない」
「誠実な行動は必ず実を結ぶ」
これは決して綺麗事や気休めではありません。
「因果応報」の道理を言っている言葉であり、外見上の「縁に恵まれているか否か」だけでは測れない、
一人一人の、幸せを感じて生きられるかどうかの因果を示唆していると言えます。

決して「縁」だけでは、幸せな結果には至れない。
因縁が揃ってこそ、私にとって「本物の結果」が得られるのが道理です。
「恵まれた生活」と見えるその人に、本当に「因縁」が揃っているのかどうか、
これは他人には分かりません。
一人一人が、己の「因(行い)」に目を向けて、生活の中に善き「因」を積み重ねられたかどうかで決まります。