不屈の精神を養う出発点〜人生の最後まで「私」を輝かせるために〜

「足が上がっていない」ショックに潜む「思い込み」とは

「思ったより足が上がっていない」と気づくことが、たまにあります…
ちょっとした段差でつまづく。
階段を上がる途中で、「あわや転倒」を引き起こす。
「あれ…こんなはずは…」
というショックと共に心身ともにけっこうなダメージが襲う瞬間です。
イメージと、実際の体の動きとの「ズレ」が、かなり盛大に起きてしまっている、現象です。

それを実感する時、つくづく思いますね。
どうあっても肉体は、一定年齢を越えた後はひたすら衰えてゆく…
鍛えることで、それに抗うことは出来ても、止めることは決してできない。
この現実は否定しようがありません。

私はいま、このブログ記事をキーボードを叩いて書いていますが、自分でも「タイピング」は速いほうだと思っています。
今これを書いてて
「もし、小指一本でも失ったら…動かなくなったら…」
ふと考えると、恐ろしくなります。
きっと今のようなタイピングは、たちまち出来なくなるのでしょうね。
一部すらも欠けることなく、すべてが健全に機能しているこの身体に、深く依存していることを実感します。
それだけに、「身体の衰え」は、覚悟していても堪えることでしょう。

頭のてっぺんから足のつま先まで、くまなく神経がゆきわたり、血が通い、自分の意思の司令に忠実に動くこの身体は、何物にも替え難い「宝」に違いありません。
そしてその「宝」に対するあまりに強い執着のため、この「身体」が「私自身」と強く思い込むフシがあるのですね。
身につけてる服や装飾品や腕時計などの「持ち物」と、目の前にあるこの「手」とは、やはり明確に違います。
生まれた時からずーっとあるもので、
生まれた時からずーっと、自分の意思のままに動いてくれてきた「手」です。
それぐらい自分の「肉体」に深く長く執着し続けてきた心は、もう「執着している」という自覚さえありません。
この身体が自分のモノで、自分の思い通りに動くことが、「当然すぎるほど当然」となってしまっています。
その感覚はいつの間にか、
「身体」=「私」
という思い込みとなってしまっているのですね。

執着が「私自身と同一視する」という程度にまで達した時に、私達はその対象の「無常」を忘れてしまいます。
「常」は「無」く、いつまでも変わらないものなど無い。
どんなに大切にしていも、必ず衰え、必ず滅び、自分から離れてしまう。
これが「無常」という真理ですが、
「私と一体」ぐらいに思ってしまうともう、それが「私から離れてゆき、私を裏切ってゆく」という「無常」をイメージできなくなってしまうのですね。

だからこそ、肉体の損傷や衰えは、やはり私達にとってはショックなことです。
「まさか!」という強烈な驚きが伴います。

「私」=「肉体」から離れた視点を持ったとき…

自分に近いものほど、「無常」が分からなくなってしまう。
これが人間の心の大きな特徴と言えます。
テレビニュースで台風などの災害が報道されて、大きな被害を目の当たりにしていると、
テレビ越しにそれを見ながら、
「本当に、何時、何が起きるか分からない…無常の世の中だな」
そんな風に、世の無常というものを切々と知らされることがあります。
だけどそれはあくまで「他人事」なのですね。
そういう他人事に対してなら、わりと客観的な視点で「無常だ」とみることができます。

それが「私自身」となればどうしても、同じように「無常」をみることは出来ません。
だから「私」と同一視されてしまったこの「肉体」に対しても「無常」をみることは難しくなります。
自分の家族や友人に対してよりも、
自分のお金や財産に対してよりも、
自分のこの「肉体」に対しては、その「無常」が何より信じがたい事となってしまいます。
これは本当に、辛いことです。
「肉体」が「私そのもの」となってしまうと、その「私そのもの」に「無常」は確実に訪れ、
「私そのもの」が衰えてゆくという苦痛に遭わなければなりません。

しかし本当に「肉体」イコール「私」と言えるのでしょうか。
生活上の感覚としては、そんな思いで生きているかもしれません。
だけど肉体はあくまで生まれた時に、親からもらったものですよね。
母親から血肉を分けてもらって、私達の肉体は母親の胎内で造られていったはずです。

そして生涯その肉体と共に生きて、そして最後には失われてゆく。
その一生の間、ずっと伴って働いてくれる大切な「肉体」ではありますが、
あくまで「私」と伴って生命活動を支えてくれるパートナーのような存在であって、
「私そのもの」とは言えないのですね。

「一生の間、伴ってくれる」
とは言いましたが、厳密に言えばその肉体は60兆もの細胞で出来ており、常に新陳代謝を繰り返して、
古い細胞は垢として風呂に入った時に流れてゆき、新たな細胞が生成されて、
この肉体は物質的には常に入れ替わり続けています。
7〜8年もすれば、おおよそ全ての細胞が入れ替わって、物質的には「別物」となってしまうのがこの肉体なのですね。
そうやって物質的に入れ替わろうが、「私」は「私」で、別人でも何でもないわけです。

たとえ臓器移植によって、内蔵をどれだけ取り替えて、他人の肉体の一部を自分の中に入れても、
それでも「私」と「他人」が混ざるなんてことにはなりませんよね。
それでも「私」は「私」です。

たとえ、手足が動かなくなっても…
たとえ、五体の一部が損傷して失われても…
たとえ、認知症で記憶が失われたとしても…
肉体の機能がどれだけ衰えても失われても、それでも「私」は「私」で、一貫しています。
そんな「肉体」の「持ち主」たる一貫した「私」は紛れもなく存在するはずなのですね。

だから、「肉体」は、「私そのもの」ではなくて、私の大切な「持ち物」だということです。
その「持ち主」としての「私」は、肉体がどう変化しようとも、一貫してずーっと続いているのですね。
そんな「私」の存在を認識したとき、はじめて己の「肉体」に対する冷静な視点を持つことができます。
その「肉体」も紛れもなく「無常」という現実を、ごまかすことなく観つめる視点を持つことが出来るのですね。

そうやって「肉体」を自分の「持ち物」として客観的にみつめられる視点を持つことは、とても大切なことです。
なぜならこの「肉体」は、年齢を重ねれば必ず「衰え」が始まるからです。
この高齢社会の日本にあって、私達は人生のどのくらいを「肉体の衰え」の中で生きなければならないでしょうか。
半分以上かもしれません、もっと多いかもしれません。
だけどそんな「肉体の衰え」の中でも私達は生きてゆかねばなりませんし、それまでと変わらず幸せを求めて生きてゆくのですね。
「肉体の衰え」が、始まろうが加速しようが、「私」は「私」として、幸せを求めて生きてゆくのです。
そんな本当の「私」を明確に知る視点がとても大切で、そんな「私」の正体を教えているのが仏教です。

人生の最後まで「私」を輝かせ続ける「視点」は

「肉体」が「私そのもの」ではないのなら、
「魂なるものが肉体に宿っている」
という事なのだろうか?
そういう発想に思い至るのが普通なのかもしれません。

ところで「魂」という言葉からイメージするものって、どんなものでしょうか。
人の形だけど透き通っていて、足が無い、いわゆる「お化け」のようなイメージかもしれません。
或いは、白い炎のような形状をした塊のようなイメージかもしれません。
形状はどうあれ、ともかくこの肉体に宿って、ずっと変わらず存在し続けるものを「魂」としてイメージすることと思います。
その場合、たとえ死んでこの「肉体」が滅んでも「魂」はその肉体から離れてどこかへ旅立ってゆくということになります。
そうなれば後は、その「魂」は何処へ行くのかという問題になりますね。
遺骨と一緒に、墓の下で眠っているのか。
どこか遠い世界へと旅立っていくのか。
この世の空を風のように飛び回っているのか。
色んな想像が世の中でもなされていますが、いずれにしても「変わらず存在し続ける魂」というものが前提となっています。

しかし仏教では、いわゆる「肉体に宿る、固定した変わらない魂」の存在は、否定しているのですね。
その事を言ったのが「無我(むが)」という言葉です。
「我」というのが、固定した変わらないもの、ということです。
特に、私達が想像するような「変わらない霊魂」なるものを指して
「そのような『我』というものは、『無』いのだよ」
と仏教は説きます。

その上で、本当の「私」の実態は、「固定した変わらない魂」などではなく、
ちょうど「蔵(くら)」のようなものだと教えます。

古くからの日本家屋は木造となっていて、財産持ちの家には「蔵」が建てられているのですね。
そして「蔵」は土で出来ているので、たとえ火事で木造の母屋が焼けても、「蔵」は焼けることなく残ります。
そしてその蔵の中の大切なものは保存されて残ります。

「蔵」とはそんな、「大切なものを保存する」役割を持つものです。
そんな、「蔵」のような働きをしているものが、本当の「私」の実態だと仏教は説くのですね。
「蔵」に色々な財産が入れられて保存されるように、
私達の日々の「行い」が、「業(ごう)」として、すべて私の奥底へと次々に残り続けているのだと説かれています。

仏教では私達の日々の「行い」のことを「業(ごう)」と言われます。
そしてそのあらゆる「業」は、決して消えることなく私の奥底へと残り続けていると説くのですね。
それは、脳に残るのでもなければ意識に残るのでもありません。
意識よりももっと深い「蔵」のような心の中に、「業力(ごうりき)」と呼ばれる、目に見えない力となって残ります。

この事実こそが、
「自分の『行い』が必ず自分の『報い』となって現れる」
「因果応報(いんがおうほう)」
と説かれる道理の「仕組み」となっています。

なぜ、行いは必ず自分の報いとなって現れるのか。
それは、私達の「行い」が全て、「業力(ごうりき)」として私の「蔵」のような心の中に蓄えられているからなのですね。
原因があれば必ず結果を引き起こす。
原因が、結果を引き起こすことなく「無」になることは決してありえない。
この「因果の道理」に狂いはなく、「私の行い」という「原因」は、業力として残り続け、必ず「結果」を引き起こす。

さてそんな「業」は、日々、時々刻々と、様々な「行い」として造り続けられて、
ものすごい勢いで、全て例の「蔵」の中に収まり続けます。
その有様はちょうど「滝」のような状態です。
新たな新たな水滴が、次々と落ち続けて激しく変化しながら流れてゆく滝のように、
新たな新たな業が、次々と収まり続けて、変化しながら続いてゆくもの「私」の実態なのですね。

そんな「蔵」のような「私」の姿は、固定した魂とはまったく異質なものです。
そんな「私」の本質をよく知れば、
たとえ肉体が衰えても、
たとえ頭脳の十分に働かなくなっても、
「業」の集積のような「私」にとって、大切なのは精一杯の「行い」だと知らされます。

その状況の中で出来るベストな「行動」を積み重ねてゆくこと一つで、
いつ如何なる状況の中でも「私」は輝き続けることができるのですね。