後悔しない行動の原動力~「無常」を観ずる~③

最も勇気ある行為とは

勇気のある人とはどんな人かといったら
恐れや困難を前にしても怯むことなく立ち向かってゆく人ですね。

「困難や恐怖に立ち向かってゆく」
それが勇気ある人の姿ですが、もしその人が、その困難性や恐ろしさを全く認識しないでただ闇雲に立ち向かっているとしたらどうでしょう。
それでも「勇気」と言えるかというと、それはちょっと違いますね。

それはただ、知らないだけ。無知なだけ。
そんな状態で立ち向かうことは、別に勇気でも何でもないのです。
ただの無謀とも呼ぶべき姿です。

困難性も恐ろしさもよく知っている。
それを熟知した上で、それでも自分はこれに立ち向かうべきだと決めて一歩を踏み出す。
そういう人こそ、勇気ある人と呼ぶに相応しいのですね。

人生に潜む「無常」を熟知して、その上で人生に挑んでゆくという姿もまた、勇気と言えるでしょう。
人生には「無常」という恐ろしい怪物が潜んでいると言えます。
その怪物は、私たちの都合や思いなど全く考慮してくれません。
その非情性、残忍性はまさに「怪物」と呼ぶに相応しく、何の前触れもなく私に襲いかかり、有無をいわさず私から全てを奪い尽くします。

桜が散ってゆく様子や、花火が儚く消えてゆく様子を見て私たちは「無常」を感じます。
あらゆるものに、「常」は「無」い。
どんなに綺麗なもの、派手な、華やかなものであっても、それはいつまでも続くことは無く、時が来ればあけなく変化し、崩壊し、消えていく。
その「無常」の姿に私たちは美しさや情緒を感じるのですね。

ただ、そうやって「無常」に美すらも感じて眺めていられるのは、それが通りすがりに見かける桜や花火だからです。

自分の大切な人や物。宝物や家族や親友。
それらに「無常」が訪れて、私が支えとしていたものをあっけなく失ってしまった時にまで、「美しい」などと言っていられる人はいないでしょう。
その無常は「恐怖」であり「理不尽」であり、「怪物」なのです。

「無常」というのは一種の真理とも言えるものであり、真理というからには、私たちの都合や思いで曲げられるものではありません。
そこに真理の厳粛さがあります。

私たちがどれほど美しいと思っても、桜は自然の道理に従って散っていくように、大切な家族だといっても宝物だといっても、私のかけがえのない支えだといっても、無常の前には関係がありません。
そんな私の思いや都合とは関係なく、非情にも移り変わってしまう、崩壊してしまう、離散してしまう。
それが災害という形なのか、人災という形なのか、病気によるのか、その形は様々ですが「無常」は情け容赦なく、私から奪い尽くしてしまいます。
人生の、最大の脅威と言ってもいいかもしれません。
この「無常」という脅威のあることを、ごまかさずに見つめることを教えているのが仏教であり、そのことを無常観といいます。

「テーブル」も「スマホ」も「川の水」も同じ

世の無常の有様を生々しく描いた日本の古典「平家物語」の冒頭には、
「祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり」
という有名な言葉があります。

ここには「諸行無常」という言葉が出てきます。
この「諸行」というのは「すべてのもの」という意味です。
この「すべてのものが」という理解が実は非情に重要です。

「諸行無常」とは、この世の全て、あらゆるものは、「常」が無い。
固定して変わらないものは一切無いということなのです。今この瞬間も、全てが変化しているというのが諸行無常です。

目に見えて変化していくものに対しては、あえて「無常ですよ」と言われるまでもなく、私たちはよく心得ていますが、私たちが見落としている無常がどれほどあることか知れません。

いま、私はカフェでこのブログ記事を書いていますが、
目の前のテーブルや今自分が座っているイスのように、私たちの目から「固定している」と認識しているものがありますよね。
「昨日のテーブルやイス」と「今日のテーブルやイス」、パッと見た感じでは変わらないような気がしますね。
目に見えた変化は感じないでしょう。
もちろん、誰かが傷つけてしまったり、イスの足が折れてしまったりというアクシデントがあれば「無常」は目に見えて分かります。
そういうことがなければ、何の変化もない固定した存在のように見えます。
だけど、カフェのような公衆の場のテーブルやイスなら、何人の人が入れ替わり立ち替わり使用していることか知れません。
それによって確実に「消耗」しています。
ということは、目に見えず少しずつですが、常に「変化」はしているのです。
たとえ人の手に触れられなくても、私たちから見ればほんの微々たるものですが、必ず何かしら「変化」しているのです。
それが1年、2年と経てば、傷んでくる、色あせてくるなどの目に見える変化が現れてきます。
10年、20年も経てば、やがて寿命が来るでしょう。
長いスパンで見れば「消耗」していたのだなと分かりますが、1日ぐらい、まして1時間ぐらいでは、「変化している」などという認識を持つことは難しいでしょう。

これがパソコンやスマートフォンのような電子機器なら、1時間使用すればそれだけ消耗したという認識を、まだ持つことができます。
構造が複雑な精密機械は、テーブルやイスのような家具とは違ったデリケートさがありますので、「消耗している」感覚を持ちやすいですね。
バッテリーが目に見えて消耗されていったり、という変化もわかりやすいですので、「無常」という感覚は持ちやすいと言えます。

もし目の前に「川」があれば、これは明らかな「無常」が目に見えて分かります。
今見ている川の水が、一瞬後にはもう同じ水ではなくなっていますよね。
上流から、新たな新たな水が押し寄せ、今の水は下流へと流れていきますから、一瞬たりとも「同じ水」を見ているという状態はあり得ません。
つねに変化し続けている。
まさにこれぞ「無常」の姿なのですね。

私たちの普通の感覚では、
「テーブルやイスは固定しているもの」
「パソコンやスマートフォンは消耗しているもの」
「川は常に絶えず変化し続けているもの」
というように見えますが、仏教の無常観から言うなら、テーブルもパソコンも川の水も、同じです。
変化が目に見えて分かるか分からないかの違いだけで、テーブルもパソコンも、一瞬たりとも固定した同じ状況というものはないのです。
川の水と同じように、常に絶えず変化し続けているということなのです。
そのことを人間の目では、何年か経ってようやく「変化していたのだな」と認識できる、というだけのことです。
それを私たちの目が錯覚して「固定している」と感じているだけのことです。

ただでさえ、「無常」に対して「固定している」という錯覚を起こしやすいのが、
「自分にとって大切なもの」
「いつまでも変わらずにあり続けて欲しい」
という「願望」という主観でみればなおさら、「無常」が分からなくなってしまいます。
人間は自分の都合のよいように思い込んで錯覚を起こすと、よく言われます。
まして、目で見た感じでは固定しているように見えるのです。
そういうものを、「変わらないものであって欲しい」という「願望」を持った目で見るのです。
頭での知識レベルでどれだけ、「変化してゆくものだ」と理解していても、私たちの腹底の思いは、「まあ、そうそう変わらないだろう」という考えを強く抱いてしまうのです。
頭の上での「変化しているだろう」という理解と、腹底での「まあ、変わらないだろう」という思いと2つの心があるのです。
さて、私たちはどっちの心に従って行動しているでしょうか?

年末に気づく逆さまの価値基準

このように私たちが錯覚を起こして「固定しているもの」と認識しているものがどれだけあるか分からないのです。
中でも私たちが「無常」と思えないものが、自分の「命」です。
もちろん頭では、「人間なんだから、永遠に生きられるなんて思ってないよ」と理解していると思います。
だけど、人間の「都合の良いように思い込んで錯覚を起こす」という性質から考えたら、腹底はどうでしょうか。
「死にたくない」「生きていたい」という願望は私たちのあらゆる願望の中でも最も強烈なものです。
そんな私たちにとって「自分の命」の無常を観ることが、最も難しいことなのです。

よく年末が近づくと、
「もう年末…!早いなあ…」
ということを溜息混じりでつぶやくのを耳にします。
この溜息には、「貴重な自分の1年という時間を、有効に使えてきたのかな…」という思いが混じっていたりするようです。
「1年が終わる」という、私の「時間」の無常、ひいては私の「命」の無常を突きつけられると、驚くのですね。
そして、ちょっぴり後悔にも似た気持ちにかられるのです。
そしてそういうことを、毎年毎年繰り返していたりするのです。

頭では「自分の命には限りがある」「自分が人として生きられる時間には限りがある」ということを分かっているつもり。
だけど、そんな認識に基づいた行動を私たちはしているだろうか?
今日の一日の行動はどうだっただろうか?
今年一年の行動は、どうだっただろうか?
真剣に自分に問いかけてみると、「命」の無常を除外した人生観に基づいて生きていた実態が知らされます。

「無常のもの」を「固定しているもの」と認識してしまう。
この錯覚は、人間がどうしても持ってしまう大きな錯覚なのです。
これを「顛倒の妄念(てんどうのもうねん)」と仏教では言われます。
「顛倒」とは、「逆さま」ということです。
「妄念」とは、「迷いの心」ということ。
ちょっとやそっとの錯覚なら「顛倒」とは言われません。
まるっきり、見方が逆だよ、ていうことです。
逆立ちをして世の中を見ているのと同じだということです。

ここから、何が大切で、何が大切でないかも分からなくなってしまいます。
だから人間は大切なものほど、意外にぞんざいにしてしまうところがあります。
「頭では分かっているのに…」
ということになってしまいがちなのです。

大切な人との時間を、おろそかにしてしまう。
自分の健康を、おろそかにしてしまう。
貴重な「命」そのものと言える、自分の「時間」を、おろそかにしてしまう。
私たちの「行動」が、逆さまの価値基準に基づいた行動になってしまうということがどれだけ起きているか知れないのです。

仏教を学ぶということは、その逆立ちしている「顛倒の妄念」の実態を理解し、自覚して、そんな心に「無常」という真理を徹底するということです。
それが、自分にとって本当に大切なものは何かを認識する目を養い、本当に後悔しない人生を送るための土台を築くことになるのです。

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